夢、五夜。

 



「ではセナ、お前の出身国の名は?」


「日本。ジャパンとかジャポンとか、ずっと昔はジパングともの国とも呼ばれたみたいだけど」


「……聞いたことがないな」




 腕を組み、眉を顰めたまま男が唸るように呟く。




「えっと、もっとも東に位置するので日出ずる国とも言われたって……そうだ、今は何年何月ですか?」


「? 今は神聖統一暦千六百七十一年の九月だが」


「……しんせいとういつれき?」




 本当に訳が分からない。街並みとか、馬車とか、目の前の男の服装とか、暦の名前が西暦でないこととか。しかし雰囲気的に現代ではなさそうだ。走る馬車の外で自動車などの音は一切しない。


 派手過ぎないが美しい馬車もまるで劇のセットで、わたしだけ私服で入り込んでしまった違和感がとてつもなく凄い。異物感と言ってもいいかもしれない。




「確認するが、行く当てはないんだな?」


「……うん」




 頷くと男は目元に落ちてきた濡れた前髪を鬱陶しげに掻き上げ、溜め息を零した。


 溜め息を吐きたいのはわたしだってそうだ。びしょ濡れで何も知らぬうちに右も左も分からない異国の地に一人放り出されて正直混乱してる。


 目の前に座る男はもう一度、さっきよりも深い溜め息を吐き出してわたしを見る。


 目が合って、ふと男の瞳がブルーグレーだと気が付いた。ややくすんでいるはずなのに、どこか透明感のある相反した不思議な色味だ。


 視線はすぐに外されてしまったため男の瞳の色はまた分からなくなる。


 やがて馬車の揺れが少しずつ弱まっていく。停まったのかもしれない。


 聞く前に男が立ち上がった。ほぼ同時に馬車の扉が開き、男が先に出て、わたしへ振り返る。


 言葉はないが「下りろ」と言われているような気がして馬車を出た。


 そして絶句する。なんだこの馬鹿デカイ屋敷は。




「突っ立っていないで早く来い」




 男は気にした風もなく屋敷に向かう。玄関には父より少し若いくらいの男性とわたしより少し年上の青年がいて、どちらも男の着るものよりやや地味な印象の似た服装で、馬車から降りた男へ傘を差しかけて言葉を交わす。


 そうして初老の男性はわたしを見て「おや?」という顔をしたが、すぐに好々爺のように目尻を下げて「そこでは濡れてしまわれますよ」と声をかけてきた。


 青年が男性の言葉に反応してわたしにも傘を差しかける。


 礼を述べてその下に入り、玄関まで進んだ。


 観音開きの玄関は三階まで吹き抜けのホールが広がり、そこから男は青年を伴い階段を上って二階へ行ってしまう。


 ……わたしはどうすればものか。


 戸惑っていたら初老の男性が「どうぞ此方へ」と言ったのでそちらへ付いて行く。


 玄関ホールを抜けて三階に上がり、廊下を歩くと一つの部屋に通された。


 ……浴室だろうか? 奥にバスタブらしきものが設置され、壁紙のない壁は洒落た花の絵柄のタイルで埋め尽くされている。広さは判然としないが十畳以上はありそうだ。




「私はこの家の執事バトラーを務めております、アラン=サリスと申します。酷く濡れていらっしゃるので、まずは此方で体を温めるようにと主人より仰せつかりました。わたくしめがお坊ちゃまのお世話を致しても宜しいでしょうか?」




 妙に丁寧な対応と《《世話》という言葉に戸惑った。


 いや、風呂くらい一人で入れるし。何より――……




「あの、私は女です。お風呂はありがたいんですけど、世話はちょっと……」





 そう告げれば一瞬、驚いた様子で男性は目を瞬かせ、しかしすぐに頭を下げた。




「それは失礼致しました。女性の使用人を連れて参りますので、暫しお待ちを」


「あ、はい、重ね重ねすみません。ありがとうございます」




 世話も要らないんだけど、そこは譲らないらしい。


 顔を上げた男性はやはり好々爺然とした穏やかな表情で近くの椅子にわたしを座らせ、肩にタオルの代わりだろう大判の布をかけると一礼して出て行った。


 改めて浴室を見回す。女性らしさのある花柄のタイルに柔らかなアイボリーの床もタイルだ。浴室だというのに窓にはカーテンがかかっていて、壁には何やら色々と置かれている。奥のバスタブのようなものは猫足で大きく、わたしが寝転んでも充分余裕がありそうな長さだ。


 ぼんやりそれらを眺めていれば扉がノックされる。


「どうぞ」と言えば開いた扉から四十前後の女性と数名の女性が入って来る。




「失礼します。お嬢様のお世話をさせていただきます、家政婦長ハウスキーパーのベティと申します」




 四十前後の女性はそう言い、他の女性は慌ただしくバスタブに桶で湯を入れている。


 どうやらココには水道は通っていないようだと内心で驚いた。




「えっと、柴崎瀬那と言います。瀬那が名前で、柴崎が家名です。よろしくお願いします」




 浅くだが頭を下げると、やはりこの女性も驚いた風に目を瞬かせたが、すぐに快活な笑顔で「はい」と明るい声で返された。




「それでは、さっそく濡れてしまった服は脱いでもらいましょうか。そのままでは本当にお風邪を召してしまいますからね。脱ぐのをお手伝い致しますよ」


「え? いや、この服は一人で脱げるので大丈夫ですっ」


「そうですか? 異国の服は便利でいいですねえ」




 思いの他、あっさりと引き下がってくれてホッとした。


 バスタブへ湯を運ぶ女性達に申し訳ない気持ちになりながらも服に手をかけた。


 気恥ずかしいので背を向け、七分袖の重ね着風ティーシャツの裾を掴んで上に引っ張り裏返す要領で脱ぎ、表向きに服を戻す。それから編み込みのされたメッシュベルトを外し、スキニージーンズを脱ぐ。こっちは腰がゴムなので釦もチャックもない。


 少しばかり躊躇ったが下着も脱ぐ。同性だし構わないだろう。


 一糸纏わぬ姿になると女性に大判の布をかけられ、また少し待ち、バスタブへ湯を張り終えると他の人は部屋を出て行った。大勢で寄ってたかってといったことがなくて安心した。


 布を外し、低い椅子に腰かけてゆっくりと湯をかけられる。


 わたしが不慣れと分かっているようであれこれと説明しながら女性が動く。




「体はこの石鹸と布で洗いますよ。そうしたらお湯に浸かってくださいね」




 渡された布には既に泡立てた石鹸の泡がこんもりと付いており、それで体を擦ると何かの花の香りがした。


 全身を洗うと湯で泡が落とされる。


 流れた湯と泡が排水口らしき場所に消えていくので、水道がなくても排水機能はあるのかもしれない。


 促されて湯船へ移動する。


 花びらの浮かぶ湯船はやや熱いけれど、追い焚きや継ぎ足しをしないならばこれくらいの温度でないとすぐに冷めてしまうだろう。


 女性の手に身を委ねてバスタブの中で仰向けになって縁に頭を乗せる。布が置いてあり痛くない。


 その体勢で女性はわたしの顔に湯がかからないよう注意しながら髪に湯をかけ、頭を洗い出す。


 丁寧な手付きで髪を解し、頭皮がマッサージされる心地良さに状況も忘れて転寝をしてしまう。


 慣れているのか絶妙な力加減と花の甘い香りにリラックスしない方が可笑しいのだ。




「終わりましたよ、お嬢様」




 楽しげな響きの声にハッと我に返った。


 頭には布が巻かれ、目を開けたわたしの肩へ女性は優しく湯をかける。




「すみません、あまりに気持ち良くて寝てしまいました……」


「体も冷えておりましたから、お疲れだったんでしょう。むしろお嬢様に満足していただけて光栄ですよ」




「さあ、そろそろ上がりましょうか」と続いた言葉に頷く。


 バスタブの中で起き上がり、ゆっくりと立ち上がる。女性が布を広げてバスタブから出たわたしの体を包みむと、優しく水気を拭い、ある程度拭くと新しい布で体を覆われて椅子に座らされる。


 一旦部屋を出た女性は銀盆にティーカップを乗せて戻ってきた。


 差し出されたそれは少し冷たく、湯上りの火照った体には丁度良い温度だった。


 わたしがアイスティーを飲む間に女性は頭を覆っていた布を外し、わたしの頭が出来る限り揺れないように配慮してか慎重に髪の水気を拭っている。


 背の中ほどまであるため手で乾かすのは大変だろう。


 生乾きでいいと言ったら「そんな、とんでもない!」と半ば叫びに近い声を上げた。




「せっかく美しくてこんなに珍しいお色の髪をお持ちなのに傷ませるなんてあたしがクビになってしまいますよ!」


「そ、そうですか……」




 と、押し切られる格好で髪を拭かれる。


 別段これと言って手入れはしていないが、染めたことのないこの黒髪はココでは珍しい色らしい。


 拭いた後は花の香油だというものを手の平に伸ばし、一本一本に馴染ませるように髪全体へ付け、ブラシで少量ずつ梳く。




「服は此方にご用意しております。この国では女性はワンピースかドレスを着用するため、似た型のものとなると男性用の衣類となってしまいますがよろしいですか?」





 髪を乾かし、ティーカップを下げた女性が申し訳なさそうに言ったが、わたしは一も二もなく頷いた。


 ワンピースはまだしもドレスなど絶対御免である。


 ショーツは普通だったが上は問題だった。ステイズというコルセットを付けたら紐を締められて一瞬息が詰まった。それでも大分緩めだと言われて辟易した。


 ティーシャツのように服の合わせ目がないシャツは頭から被って着るタイプで、襟や袖にふんだんにフリルが縫い付けられており、本当に男性用なのか疑問が湧いた。


 七分丈のズボンは裾を釦で絞る形で、股の前側を釦で留め、当て布を上げてまた釦をする手間のかかるズボンだった。ちょっとだけオムツみたいだなと思ったが黙っておく。


 シャツの上にベストを着る。これは袖のない丈のあるベストだった。更に上からコートらしきものを着たが、こちらは燕尾服のように裾の前側が開き、後ろに向かって斜に切れている。後ろは平らになっていて切れ込みが一つ入っていた。


 ……これ、コスプレに見える……。


「あらまあ、よくお似合いですよ」と褒める女性には悪いが、鏡の前に立つわたしの目には何かのアニメで出てきそうなお貴族様のコスプレとしか映らない。しかし布地が良いのか安っぽさがない。そのお蔭で何とかコスプレ感が薄れている気がする。




「さあさあ、お部屋に参りましょう。着ていらした衣類は洗濯を済ませてお返し致しますので、ご安心くださいね」




 笑顔の女性に促されて浴室を後にする。


 廊下に出ると途端に冷たい空気に包まれた。


 女性はすぐに目の前の扉を開け、室内へわたしを通す。




「当家に御逗留ごとうりゅうの間は此方のお部屋でお休みくださいませ。先程のバスルームの横が女性用の御不浄となっております。何かご不便がございましたらテーブルの上のベルを鳴らしていただければ人が参ります。後ほど軽食をお持ち致しますのでごゆるりとお寛ぎください」





 浅くお辞儀をして出て行こうとしたので慌てて呼び止める。




「あのっ」


「はい? 何でございましょう?」


「何かとお気遣いをありがとうございます。えっと、旦那様……? にも、そうお伝えしていただけたら嬉しいです」




 女性は「はい、承りました」とニコリと笑い、今度こそ部屋を出て行ってしまった。


 部屋は机と椅子、ベッド、椅子が二脚のテーブルセット、衣装ダンスといった様子だ。床には絨毯が敷かれ、装飾のある暖炉には火が灯り、ベッドサイドとテーブルには明かりの点いたランタンが置かれている。ベッドも頭の方にだけ天蓋と柔らかなカーテンがかかり、木製の重そうな洒落たものだ。


 コートを脱いで丁寧に畳んでテーブルセットの椅子の一つに置く。


 空いたもう一つの椅子に腰掛けて天井を仰ぎ見ると、そこにも華やかな模様が刻まれていた。




「……夢でしたってオチだったらいいんだけどなあ……」




 呟きに返事をするように暖炉の薪がパチリと音を立てた。





* * * * *






 それから一週間、わたしはそのお屋敷でお世話になっていた。


 拾われてから男とは一度も会っていない。


 あの男はクロードという名でこの国では伯爵家の当主という立場であること、時折わたしのように行き場を失くした者を拾ってくること、恐らく交流のない国出身のわたしをどうするべきか決めあぐねており今は客として扱われているということはこの家で働く人々に聞いて分かった。


 そりゃあそうだよね。不法入国しちゃってるし、とりあえず放り出されないのは助かる。


 それから覚えのない怪我もしていた。初日は夜で暗くて気付かなかったが、翌朝起きたら体中が筋肉痛みたいな感覚に襲われ、腕や足、体に打撲らしい痣が浮かんでいた。


 何か打撲に効く薬はないか女性……ベティさんに聞いたら医者を呼ばれて診てもらう大事になり、診断結果は見ての通りの打ち身で擦り傷もあるので軟膏を渡された。軟膏は結構沁みた。


 一週間のうちに二度ほど屋敷の外にも出た。


 断りを入れずにこっそり出掛けて行ったので、恐らく他の人はわたしはずっと部屋で静かにしているとおもわれているだろう。わたしの不在に気付いた様子もなかった。


 三階は流石に高かったが屋敷の外観は彫刻など凹凸の多い壁のため、予想以上にすんなり一階まで下りられたのにはわたし自身も驚いた。正直に言えば、壁を下りるよりも上部に鉄柵のついた塀を乗り越える方が骨が折れたのだ。




「お嬢様、此方も宜しければ召し上がってくださいな」




 ケーキの乗った皿を差し出してくる女性――ベティさんについ苦笑してしまう。甘いものはまあまあ好きだけども、沢山となれば苦しいし、この状況で呑気に菓子を食べてダラダラしていられるほど精神的な余裕もない。



 

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