第三章-01 転校生は暗殺者


 俺、加賀美 優の日常は、以前とは明らかに変わった。この春から義理の妹のミカと一緒に暮らすようになったからだ。

 そして、6月になった現在、俺の身の周りでさらなる変化があった。

 四六時中、どこに行っても、妹のミカが常に俺のすぐ側にいることだ。

 ミカは海外からの転校生で俺とはクラスが一緒。日本の生活や学校に不慣れなミカの面倒を見るために、俺の方から絡んで行くことは以前からよくあった。ところが今は、ミカの方から積極的に俺の側にいようとして来るのだ。家だろうと学校だろうと、いつも俺の横にくっ付いて来て、まるで飼い主に従順な可愛い子犬のようだ。

 嬉しいことではある。俺とミカが初めて会ったのは去年の冬。その時から俺は可愛いミカにゾッコンだったし、一緒にいられるだけでも幸せだったからだ。

 これに問題があるとすれば、度が過ぎていることだ。この数日のミカは、あまりに俺の側にいようとして来る。

 そのせいで困ったことになっていた。

 ある日、俺とミカの二人は、教室でクラスメイトの女子たち数人に取り囲まれた。

 突然のことに俺が困惑していると、その中の女子の一人が意を決した感じで尋ねて来た。


「ね、ねえ。前から気になってたんだけどさ。もしかして、二人ってそういう関係なの?」

「え? そういうって?」

「え、えっと……。あの、その……。ねえ……?」

「ああ、もう! だから、付き合ってるのかってことだよ!」

「…………は……? はああぁぁ!? みんな、な、何、言って……!」


 俺は大袈裟に驚いた声を上げたものの、クラスのみんなからそんな風に言われても仕方ない状況なのは自覚していた。

 俺は今、教室の自分の席に座っている。俺の席は窓際。ミカの席は廊下側と離れているのだが、ミカはわざわざ自分の席から椅子を持って来て、俺の真横に座っている。肩が触れるか触れないかレベルのすぐ真横でだ。

 要は傍から見れば、教室のその空間だけお手製のカップルシートとなっているのだ。

 ミカのこの行動は、何も知らない者からすれば、周りに彼氏とのイチャイチャを見せつけたいアレな女の子の行動に見えてしまうだろう。

 だが、そうではない。俺たちは付き合っているわけでもないし、仮にそうだったとしてもミカはそんなことをするような頭がお花畑な女の子ではない。

 これには極めて真面目な理由がある。

 俺の命を守るためのことなのだ。

 現在、俺はヤバイ犯罪組織に命を狙われていて、その組織が雇った暗殺者がいつ俺を襲って来るか分からない状況にある。そのことをミカは警戒し、常に俺のすぐ側にいていざという時、身体を張って俺の身を守ろうとしているのである。

 俺としては、ミカの気遣いはすごく嬉しいし、感謝もしている。だが、もう少し自然なやり方があるのではないだろうか。こんな風に露骨にくっ付かれては恥ずかしいし、こうして周りにあらぬ誤解をされてしまう。

 どうにもミカはいちいちやることが極端なのである。

 たとえば他にもこういうことがあった。


「どこに行くの、兄さん」


 授業の合間の休み時間。俺が席を立つとミカが呼び止めて来た。


「え? トイレだけど」

「そう。じゃあ、私も付いて行く」


 やれやれ、俺の後ろをどこにでも付いて来て、本当に可愛い子犬のようだ。

 それだけなら単に可愛いだけで済んだのだが。


「……あのさあ、ミカ。ちょっといいかな?」

「なに?」

「……どこまで付いて来るつもりなんだ?」


 驚いたことに、ミカは女子トイレの方ではなく、俺と一緒に男子トイレの中にまで入って来ようとしたのだ。


「もちろん、兄さんが事を終えるまで警備するの。後ろが無防備になってしまうでしょ?」


 確かに男子というものは用を足している間、背中が完全に無防備な状態になってしまう。もしも、後ろから刺客に攻撃されれば身を守る術などないに等しいのだ。

 だからといって、その状態は変態プレイにしか見えない。兄が用を足している間、ずっと後ろで眺めている妹。暗殺者に殺されなくとも、誰かに目撃されれば社会的な死を意味する。

 その時の俺は、何とかミカを説得して、男子トイレの中に入って来ることを阻止した。俺自身はもちろん、ミカの尊厳を守るためである。

 他にもこういうことがあった。

 学校の帰り。コンビニで俺はジュースを買ったのだが。


「待って、兄さん」


 俺が飲もうとペットボトルの蓋を開けた瞬間、ミカはそれを奪い取って来た。


「あっ!」


 さらには、ミカは俺が買ったジュースを勝手に飲み始めてしまったのだ。

 そんなに喉が渇いていたのかと驚いた俺だが、ほんのちょっぴりだけ飲んでミカはすぐに返して来た。


「え? もういいのか? もしあれだったら全部やるけど?」

「いいの。ただの毒味だから」


 そう言ってミカはジュースを俺に返す。

 俺はジッと飲み口を見つめる。

 間接キスだが完全な合意である。そもそも俺が買ったものだし、これを飲むことに批判をされる筋合いはない。

 と、まあそれは置いておいて、このように、俺が何か飲んだり食べたりしようとすると、ミカは決まってそれを先に口にして来るのだ。

 ミカによれば、毒殺は暗殺の中でもポピュラーな方法だし、常に警戒しなければならないとのことだが、いかに相手が凄腕の暗殺者だったとしても、開封したばかりで俺が取るかも分からないジュースに毒を仕込むのは無理だろうし、さすがに警戒し過ぎではないのだろうか。

 しかも、周囲の目などお構いなしにそれをやる。お昼の弁当の時も、クラスの連中の目がある中でもそれをやる。理由を知らない人間からすれば、どう見えるのだろうか。兄の食べる物をいちいち先に口にしようとする妹。仲が良いを通り越して見えるのではなかろうか。

 全てはミカが俺を暗殺から守るためにやっていることではあるが、そういう常軌を逸した俺たちのやりとりをクラスの連中は毎日のように見せられているのだ。

 ミカは授業以外の時間は常にくっ付いて来るし、授業中も離れた席にいる俺の方ばかり見て来るので、先生に注意されることがよくある。

 そんな出来事が重なった結果、とうとう俺とミカはクラスの女子たちに囲まれ、ストレートに問いただされたのである。


「はっきりさせて! 二人は恋人になってしまったの!? 義理とはいえ、兄と妹が禁断の関係になってしまったっていうの!?」


 俺たちを囲う女子の一人が鼻息荒く訊いて来る。おいおい、こいつ興奮しすぎだろと思ったが、よくよく見れば、囲みの外にいる教室の連中も興味津々といった感じでこちらに聞き耳を立てているではないか。

 どうやらクラスのみんな、最近の俺とミカの様子が気になってウズウズしていたようだ。たった今もぴったりと隣でくっ付き合う俺たちにみんなが注目している。男子連中からは「ミカちゃんとイチャイチャしやがって」という殺意を持った視線を送られている。ミカの警護がなければ、今頃、俺は袋叩きにされているだろうし、下手をすれば組織の暗殺者ではなく、クラスの男子たちにぶっ殺されてもおかしくない。

 だが、そんな周りの様子とは裏腹に、ミカは冷静に首を横に振る。


「恋人? まさか。私たちは兄妹。恋人には絶対にはならない。そういうものなんでしょ、兄さん?」

「……え? あ、ああ。もちろんだよ、ミカ」


 肯定しつつも、はっきりとミカの口から言われ、残念な気持ちも心の底にはあった。

 ぶっちゃけ俺はミカのことが好きだ。妹としてと同時に、異性としても気になっている。だが、仮にこの先相思相愛になったとしても、俺たちが結ばれることは絶対にないのだ。

 そのことはちゃんと理解しているし、俺自身がそう固く誓っている。

 俺は妹としてミカを大事にするのだと。

 妹としてこいつを幸せにしてやるのだと。

 それを聞いて、女子たちは「なーんだ」と安心した様子のやつもいれば、「なんだ……」と残念がっているリアクションをしているやつもいた。ったく、クラスの連中め、他人ごとだからって楽しみやがって。

 まあ何にせよこれで誤解も解けたし解放される……、と思ったのだが、女子たちの俺とミカへの追及は終わらなかった。


「じゃあさ、じゃあさ。何でそんなにいつも一緒にいるの?」

「そうだよ! 近頃の二人、いくら何でもくっ付きすぎだよね! 絶対怪しいよ!」

「え!? ええっと……。それは……」


 俺は言葉を詰まらせる。

 やれやれ、何と説明したらいいのやら……。

 クラスの連中は夢にも思わないだろう。この俺がヤバイ闇の犯罪組織に命を狙われているなんてこと。そして、その組織の暗殺から俺を守るために、幼少期から暗殺のプロフェッショナルとして訓練を受けて来たミカが身辺警護をしてくれていることを。

 そんなこと説明出来るわけないし、説明しても信じてもらえるわけがない。馬鹿な冗談だと思われたらマシな方で、最悪、イカれたクラスメイトの烙印を押されてしまう。

 俺がどう返答していいか困っていると、ミカが代わりに口を開いた。


「何を言っているの、みんな? 兄妹はみんな仲の良いものだし、こうやって一緒にいるのが普通のことでしょ?」


 ミカはさも当然のように言うと、クラスの連中に見せつけるようにして、俺の腕に自分の両腕を回してピタっと密着して来た。

 途端、周りからどよめきが響いた。


「お、おい、ミカぁ!」


 堪らず俺も大声を上げる。

 なんつーことするんだよ、ミカ。さすがにそれはやばいって。ミカの柔らかい感触が腕にダイレクトに伝わって来るものだから、俺は大きく身体を強張らせる。

 俺やクラスメイトたちの大袈裟な反応を見て、ミカは一人戸惑っている。


「え? 何かおかしかった? 兄妹が仲良くスキンシップをするのは普通のことでしょ?」

「いやいや、おかしい、おかしい! 小さい子ならいざ知らず! 年頃の男の子と女の子の兄妹がそれって、普通じゃないよ! 変だよそれ! 異常だよ!」


 女子の一人からの鋭いツッコミに対して、やはりミカはきょとんとする。


「……普通じゃない? ……そうなの?」


 残念ながら、ミカはド真剣に、ド天然にこれをやってのけている。警護のためにいつも俺の側にいることも『仲の良い兄妹』ということで完璧に周りにカモフラージュ出来ていると思っているのだ。

 ミカは俺のためにやっていることだし、折角の妹の頑張りを否定してやるのは可哀相だと思い、俺は今まで甘んじてこの状況を受け入れて来た。

 だがな、すまんミカ。

 やっぱこれ、完璧に怪しまれているぞ……。

 俺たちへ注がれるクラスの連中の冷ややかな視線が痛い。

 やばい、早く何とかしないと……。


「あ、ああ、ああ! あ、あ、あ、あれだよ! 海外じゃこれくらいのスキンシップ普通らしいんだよ! な、な、なあ、ミカ!?」


 俺は必死でフォローの言葉を紡ぎ出した。

 するとだ。


「ああ~。そういうことねえ」

「ミカちゃん、ずっと海外で生活してたんだもんね」

「確かに、日本と比べて海外はスキンシップが多いし、兄妹でもこれくらいは普通のことなのかもね」

「なーんだ、そういうことかー」


 咄嗟の言い訳で無理があったかなと思ったのだが、意外にも女子たちは納得して頷いてくれている。

 未だミカに抱き付かれたままなので、相変わらず男子たちからは嫉妬&殺意の目線をぶつけられているものの、この場を誤魔化すことが出来たようだ。

 俺はホッと胸を撫で下ろした。

 と、その時。

 何だろう。バキッという妙な音が教室の中で聞こえた。

 聞こえて来たのは、加純の席の方からだった。

 気になってそちらを見てみると、加純は自分の席でクラス委員の仕事をしているところだったのだが、何故かその机の上には折れたシャーペンが転がっていた。

 勢いよく加純が席から立ち上がる。


「……でもさ、ここ、日本だよね?」


 そう言って加純は、女子たちに取り囲まれている俺たちの方に近づいて来た。


「二人が仲が良いのは知ってるけどさ、こうやってみんなに変な誤解されちゃうし、もう少し距離を取った方がいいんじゃないかな」


 一見、冷静な言い方をしているのだが、どこかイライラしているように感じる。

 何で怒っているんだ、加純のやつ……?


「ともかく、二人はもう少し離れて! たとえ海外じゃ良くても、ここは日本だからそういうのはなし! いいね!?」


 とうとう加純は苛立ちを隠せない感じで言いながら、ミカと俺の肩を掴んで腕づくで引き離して来た。


「お、おい、加純……?」


 普段見せないような加純の勢いに圧されて、俺だけではなくミカも顔を驚かせている。

 どうしたって言うんだよ、加純。

 何か顔も赤いし、やっぱりこれ、絶対怒ってるよな。

 ていうか、近頃、加純のやつずっと不機嫌だ。俺が話し掛けても無視するか、素っ気ない返事しかしてくれない。俺とミカがやたらとくっ付くようになったのを境にそうなった気がする。

 しかし、何でだ。

 何で俺とミカがくっ付いていたら加純が不機嫌になるんだ……?

 うーん、なんでだろう……。

 あっ、そうか。

 クラス委員長だからか。

 誤解とはいえ、教室で男女にイチャイチャされてはクラスの風紀に関わる。ましてや、兄妹が付き合っているなんて誤解されるのは、ぶっちぎった風紀の乱れだ。クラス委員長としては許せない事態なのだろう。

 ようやく加純の気持ちを理解した俺は、深々と頭を下げた。


「悪かったよ、加純……。これからは場所をわきまえるよ。な、ミカ?」

「……うん。分かったよ、カスミ」


 加純の頼みとあってか、ミカも渋々とだが頷いている。それを見た加純は「分かってくれればいいんだよ」といつもの優しい笑顔を浮かべてくれた。

 この出来事があってからというものの、ミカが人前でむやみやたらに俺にくっ付いて来ることはなくなり、なるべく自然に俺の側にいるようになった。そのお蔭で加純が俺に対して不機嫌になることもなくなり、俺の心配事が少しは解消されたのであった。


 学校ではそんな調子のミカだが、家の中ではどうかというと、大して変わらなかった。常に俺を見張れるようにと、家の中を付いて回る。俺がリビングでテレビを観ていれば、隣に座って一緒に観ているし、冷蔵庫から飲み物を出そうとソファーから立ち上がれば、一緒になって立ち上がる。

 ちなみに母さんはというと、鈍感な性格なので「最近二人、仲いいわね~」と嬉しそうにしているだけで、特に怪しんではいない。余計な心配を掛けたくないので、母さんにはこれからも組織だとか、暗殺者だとかのことは内緒にするつもりなので都合が良かった。トレバーさんもそれに賛成してくれている。母さんだけは絶対に巻き込むわけにはいかないと。

 家の周辺はトレバーさんが完璧な警備体制を敷いてくれているそうだ。今のところ怪しい人間は近くに現れていないらしい。仮に家に忍び込まれたとしても、世界的暗殺者だったトレバーさんは、猫の一匹たりとも侵入者は見逃さないし、寝込みを襲われる心配は絶対にないと豪語していた。

 だが、トレバーさんは四六時中家にいる訳ではない。仕事もあるし、組織に探りを入れるために家を離れることもある。その間、俺を守れるのはミカだけだ。

 ミカは念には念をと言って、家の中でも俺の側を離れようとしない。慣れというものは恐ろしいもので、最近の俺はミカが俺の部屋に居座っていても、ソファーで密着して来ても、当たり前のように過ごしている。

 ただし、慣れたといっても、全く気にせず平静でいることは出来なかった。今でも可愛いミカに対してドキドキしっぱなしなのである。一緒のベッドで寝ようとしてくることもあった。いくら何でもそれは母さんに怪しまれるからと説得して事なきを得ている。


「ふぅー……」


 一日の内、俺がゆっくりと落ち着ける貴重な時間がやって来た。

 お風呂の時間である。

 さすがのミカも風呂の中にまでは付いて来ない。「裸は無防備だから一緒に入って守る」などと言い出して来るかと期待、もとい、不安に思っていたが、そこは節度をきちんと持っているようだ。俺の入浴中は、バスルームの前で待機・警護するかたちで落ち着いている。

 俺は湯船に浸かり一日の疲れを癒す。精神的な疲れがほとんどではあるが。

 組織に命を狙われているというストレスはもちろんだが、可愛い妹に一日中密着されているという状況もなかなかに大変なものだった。大好きな妹と今まで以上に一緒にいられるのは嬉しいことではあるのだが、朝から晩までドキドキさせられっぱなしだし、一人になれる時間がちょっとは欲しいところなのである。

 今日一日あったことを思い返しながら、俺は湯船の中でじっくりと身体を温める。溜まっている疲れが癒えていくのを実感する。

 だが、その時、俺は気づいてしまった。

 擦りガラスの向こうの脱衣所に人影が見えるのを。

 そして、その人影の動きはというと、明らかに服を脱いでいるのだ。

 おいおい、マジかよ……。

 どうやら俺に安息の時間は許されないようだ。

 そして、間もなく。


「ちょっ! ダ、ダメだって! 今、入ってるってば!」


 俺の制止も虚しく、浴室のドアが開かれ、裸体の人間が目の前に現れる。

 俺は慌てて顔を背けた。


「あー! もう! ダメだって言ってるのに!」


 俺はそう言いながらも、チラチラと視線をそちらに向けてしまう。これは男の避けられない性(さが)である。身体が反射的にそういう動きをしてしまうのだから許して欲しい。

 だが、しかし。


「ハハッ! 何を恥ずかしがっているんだ、優! 裸の付き合いってのもいいじゃないか!」


 そこに立っていたのはミカではなく、筋骨隆々の男。

 全裸のトレバーさんだった。


「…………」

「ん? 何やら残念そうな顔をしていないか、優? オレと風呂に入るのは嫌だったか? それとも別の何かを期待して……」

「え!? い、いえいえ! いきなりで驚いただけですよ! だってこんなこと、初めてでじゃないですか!」

「ああ、確かにこうしてお前と一緒に風呂に入るのなんて初めてのことだ。家族として親睦を深めたいと思ってな。日本じゃ一緒に風呂に入って仲を深めるのだと聞いたものでね」


 入って来たのがミカでなかったことをホッとするべきなのか、残念に思うべきなのか。ともかく俺は、そのままトレバーさんと一緒に風呂に入ることになった。

 トレバーさんは俺と一緒に湯船に浸かろうとするが、デカすぎるので無理だった。残念がっているトレバーさんに湯船を譲り、俺は身体を洗うことにする。

 暫く俺とトレバーさんは世間話をした。主に学校でのミカの話だ。俺を守るために色々やり過ぎてしまっていることを話すと、トレバーさんは愉快そうに笑っていた。

 広くはない浴室。男二人でむさ苦しいが嫌ではなかった。父親との二人風呂。少し照れ臭くもあったが、それ以上に俺は嬉しく思った。母さんの再婚は可愛い妹だけでなく、優しく頼れれる父親を与えてくれたのである。


「……ところで、優」


 交代で今度は俺が湯船に入ると、ふいにトレバーさんの表情が真剣なものに変わった。


「優は怖くはないのか?」


 そして、さっきまでとは打って変わって、真面目なトーンでそんなことを俺に訊いて来た。


「えっと……。そりゃあ、やっぱ怖いことは怖いですね。いつ組織の暗殺者が襲ってくるか分かりませんし。今だって、家の外で襲撃の機会を窺っているかもしれません。でも、トレバーさんやミカが守ってくれてますから、安心の方が上ですかね」

「いや、そうじゃない。優はオレやミカが怖くはないのか?」

「え?」


 トレバーさんは、やはり真剣な顔をしている。


「トレバーさんたちが、ですか?」

「ああ。ミカはまだしも、オレは暗殺者として多くの人間をこの手で殺めて生きて来た。そんなオレと一緒にいて怖いとは思わないのか?」


 俺は少し考えてから答える。


「……正直、まだピンと来てないんですよ。暗殺者だとか闇の組織だとか。俺からすれば、そんなの映画とかアニメの世界の話ですからね。組織のいざこざに巻き込まれことも、自分の父親が暗殺者をやっていたなんてことも、なんというか、他人ごとみたいな感覚なんですよ。それに、俺はトレバーさんの『今』しか知りませんし」


 そう、俺はトレバーさんの『表の顔』しか知らない。面白くて優しい父親としての顔だ。見た目からして強そうではあるが、『裏の顔』なんて想像出来ないし、ましてや暗殺者をやっていたなんて、心の底からは信じることが出来ないでいるのだ。


「なるほど。確かにそうかもしれないな。優は今のオレしか見ていないし、昔のオレのことなんて知らないんだ。……だが、オレは世界中を渡り歩き、多くの人命をこの手で殺めて来た。そして、娘のミカを同じ世界に引き入れようと、暗殺術を教えて来た。その過去は変えられない事実なんだ」


 トレバーさんは憂いを帯びた表情で自分の大きな手の平を見つめている。

 暗殺者という過去。娘のミカに暗殺者としての力を与えてしまったこと。トレバーさんはそれらに対して大きな負い目を持っているのだろう。

 いつも俺たちの前で明るい表情しか見せないこの人のそんな様子が見ていられなくなり、俺はこう口を開いた。


「……ミカが言っていました。トレバーさんは『英雄』だって。トレバーさんが暗殺をしたお蔭で戦争が回避され、多くの人の命が救われたことがあるんだって。もちろん、人を殺すことが正しい手段だとは思いませんけど、結果的にはトレバーさんは正しい行動をしたんじゃないでしょうか」


 偉そうな物言いかなと反省しながらも、俺は話を続ける。


「むしろ良かったですよ。トレバーさんやミカが普通の一般人だったら、今頃、俺は何も出来ずに組織の暗殺者に殺されてますからね。警察に話したところで信じてもらえないし、守ってもらうことも出来なかった。元暗殺者のトレバーさんとミカが守ってくれているから、俺はこうして普通に生活出来ているんです。トレバーさんがミカを鍛えてくれたお蔭で、俺たちはいつでも一緒にいられるんですよ」


 元々俺はミカに命を狙われたわけではあるが、それだって組織から命じられたからだった。ミカが暗殺の仕事を請けていなかったとしても、別の暗殺者が俺を殺しにやって来ただろうし、そうなっていたら俺はもうとっくに殺されていた。結果論ではあるが、ミカが暗殺者だったから俺は死なずに済んだ。

 そして、もしもミカが普通の女の子だったら、俺たちは一緒にいられなかった。組織に命を狙われている俺と一緒にいれば、危険に巻き込まれる。ミカに戦う力があるからこそ、前と変わらず一緒にいられるのだ。


「偶然の積み重ねですけど、トレバーさんが暗殺者だったお蔭で俺は殺されずに済んでいるんです。感謝こそしても、怖いなんて思いませんよ。どんな過去があろうとも、俺にとってトレバーさんもミカも大事な家族です」

「そうか……。そう言って貰えると救われた気分になるよ……」


 トレバーさんは表情が緩ませ、感激の声を上げた。俺にとってのいつものトレバーさんの表情に戻っていたので、俺は安心した。


「ありがとう、優。オレにとっても、お前は大事な家族だ。これからも、この先も、オレはお前の父親(かぞく)であり続ける。どんなことがあろうとも、オレはお前やミカ、家族を守ることを優先するつもりだ。……そしてだ。これだけは先に伝えておく。オレは組織を敵に回すことも厭わない。もしもお前を助けるためにそうしなければならないのなら、オレは迷わず組織の暗殺者を殺す」

「っ!?」

「いいか? そのことにお前が罪悪感を覚える必要はない。その刺客はお前を殺すために来ているのだし、自業自得というものだ。暗殺者ならその覚悟を持って仕事に来ているだろう。たとえそいつが死んだとしても、お前は何も気にするんじゃないぞ。お前には何の落ち度もない。ただ巻き込まれただけの被害者なんだからな」

「…………」


 俺は何も言えなかった。

 トレバーさんの言うように、俺はただ巻き込まれただけの被害者だ。そして、相手は殺そうとして来ている。殺らなきゃ殺られるのだから、正当防衛と言えるかもしれない。

 それでもやはり「気にするな」というのは無理というものだ。俺が直接手を下さないのだとしても、自分のために他人を殺めるということに変わりはない。

 長年、暗殺者として生きて来たトレバーさんならその選択をあっさりと決断出来るのだろう。

 だが。

 果たしてミカはどうするのだろうか。

 今はまだ姿を見せていないが、もしも実際に暗殺者が襲撃して来た時。

 俺を守るためにはその暗殺者を殺さなければならない時。

 ミカはどういう選択を取るのだろうか。


「これからも、外ではミカにお前の警護を続けてもらう。オレはお前たちが学校に行っている間、やつらへの対策の準備を進めておく」


 そう語るトレバーさんの表情は、また真剣なものに戻っていた。俺にはそれが『仕事人』としての顔に見えた。家族の前やプライベート中には見せない仕事中の顔。これこそが俺の知らない暗殺者だった時の顔なのだろうか。


「このまま守勢にいては何も変わらない。ミカがお前の側を離れないことで、やつらへの牽制が出来ているのは間違いない。暗殺者はお前が一人になる機会を窺っているはずだし、ミカが側にいる限りは手を出して来られない。だが、このまま待ち構えていても、永遠に組織に狙われる続けながら生きて行くことになってしまう」


 その通りだ。ミカが側にいてくれる間は何とかなるかもしれないが、この先ずっとこの状態を続けるわけにもいかない。俺個人としては、ミカと常に一緒にいられて嬉しいことは嬉しいのだが、いずれ限界が来る。

 ミカにはミカの人生がある。今は学校が一緒だから側にいてもらえているが、高校を卒業すればそういうことも出来ない。仮に同じ大学に進学したとしても、その先は別の仕事に就くだろう。お互いそれぞれの友達や付き合いがあるし、いつまでもずっと一緒にはいられない。

 それに、いつかはお互い別の誰かと結婚して、離ればなれになるのだ……。


「何とかして、優が組織から狙われないようにする必要がある。幸いと言っていいのか分からないが、オレは何度も組織からの依頼をこなして来た経験がある。やつらに接触し、情報を引き出すことも可能だ」


 なるほど、そういうことか。

 トレバーさんは暗殺者として組織と通じて来たのだから、組織にコンタクトを取ることが出来る。上手く立ち回ればやつらから情報を引き出し、攻勢に回ることも出来るってわけだ。


「オレは、組織が優を狙っていると知ってからの今日まで、ずっと組織に探りを入れて来た。やつらからお前を守るためにな。その成果の一つが『とある情報』だ。それは、現在、お前を狙っている暗殺者は、二人だということだ」


「二人……っ!」


 俺はトレバーさんの言葉を噛みしめる。

 一人でも恐ろしいっていうのに、俺は二人の暗殺者に命を狙われているのか……。


「正確にはミカが勝手に引き受けたものだが、オレがなかなか今回の依頼の成果を上げないことに痺れを切らせた組織は、お抱えのエージェントを暗殺に使うことにしたらしい。そいつらのコードネームは、貂熊(ウルヴァリン)と浣熊(ラクーン)だ」


 ――貂熊(ウルヴァリン)と浣熊(ラクーン)。

 その二人は、俺が命を狙われる原因を作った組織の裏切り者、穴熊(バジャー)と同じグループに属していたそうだ。

 トレバーさんは教えてくれた。彼らは組織の末端。上から命令を受けて実際に現場で汚れ仕事をこなす『働きアリ』のグループだと。


「残念ながら、分かっているのは人数とコードネームだけだ。外見はおろか、どういう暗殺を得意としているのかも不明。ミカが万全の体制で警戒してはいるが、優も怪しいやつが近くにいたらなるべく注意するようにしてくれ」


 俺を狙う二人の暗殺者。貂熊(ウルヴァリン)と浣熊(ラクーン)。

 一体どんな恐ろしいやつらなのだろう。

 もしかしたら、今も俺のことを狙って家の外で見張っているかもしれない。あるいは、どこかで既にすれ違っているのかもしれない。

 俺が恐怖で身震いしたのに気づいたのだろう、トレバーさんは優しく笑いながら肩を叩いてくれた。


「ハハッ。安心しろ。少なくとも、オレのいるこの家の中は絶対に安全だ。外ではミカが常にお前を守ってくれる。あの子の力は父親のオレが保証する。相手がどんな凄腕の暗殺者だろうと、お前のことを守り切ってみせるさ。ともかく、ミカから離れるな。絶対に一人にはなるんじゃないぞ。一人にならない限り、やつらも手を出せないはずだ」


 俺はトレバーさんの忠告に頷く。


「組織のことはオレが何とかする。それまでは不自由を掛けるが耐えてくれ」

「は、はい……」


 何とかする。

 ――それってつまり、逆にこちらから暗殺をするってことですか?

 俺はその質問を口にすることは出来なかった。

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