大草原の少女イルの日常

広野香盃

第1話 私の家族

 私の名前はイル、3歳だ。トルクード族のラナイとマイラの娘。姉と兄がいる。私達は遊牧の民。私達を含めて10家族50人くらいで、ヤギル800頭、ラクダル60頭、馬70頭を飼っている。家族は勿論、他の人たちも全員親戚らしい。


「イル、朝よ。起きなさい。」


と母マイラの声がする。私は起き上がると眠い目をこすりながら私達の家である天幕から外に出て伸びをする。見渡す限りの平地で遠くの大地が朝日を浴びてキラキラ輝いている。視界を遮るものが無いだだっ広い世界。申し訳程度に所々に生えている木々と、地面をまばらに覆う背の低い草たち。ここは農耕民族には見向きもされない痩せた土地。大草原と呼ばれている荒野だ。


 この辺りは、雨の降るこの季節を除くと草すら余り生えない。私達はそんな荒野で生きている。私達の生活の糧は家畜、特にヤギルだ。ヤギルは弱い動物だ、肉食獣に襲われればひとたまりもない。だが強みもある、一番の強みは草と水があれば生きていけること。私達が食べることの出来る植物は限られているが、ヤギルはほとんどの草を食べることが出来る。それは、私達が今居る様な荒野でも生きていけると言うことだ。そして、ふたつ目の強みはその繁殖力。肉食獣のエサになって数が減るのを補うだけの子供を産む。だから個としては弱くても、種としては滅びないだけの強さを持っている。そしてそのヤギルを人が家畜とすればどうなるか、ヤギルの乳は良い水を得難い荒野で安全な飲み物となるだけでなく、十分な栄養を含んでいる。子供のヤギルがそうである様に、人もヤギルの乳だけで生きて行けるのだ。乳はバターやチーズ、ヨーグルトと言った長期保存の出来る食品に加工することも出来る。発酵させれば酒にもなる。その肉は肉食獣だけでなく人にとってもご馳走だ。ヤギルの提供してくれるのは食べ物だけではない、その毛から紡いだ糸で衣服を作ることもできるし、その皮は、私達が住んでいる天幕を始め、水をいれる皮袋や日常で使うさまざまな道具を作る材料となる。その糞を乾燥させた物は煮炊きをする時の燃料にもなる。ヤギルと一緒ならこの荒野でも人は立派に暮らして行けるのだ。そのヤギルを飼い、季節季節に応じて草が沢山生える土地を巡りながら暮らすのが私達、遊牧民だ。


 今日も気持ちの良い青空だが、そろそろ次の雨が降らないと家畜が食べる草が無くなってしまわないか心配だ。もう一月近く降っていない。昨日の夕食時、父さんが「後一月雨が降らないと別の場所に移動しないといけないかも知れない」と言っていた。いつもなら、この場所には適度な雨が降って、家畜たちがお腹いっぱい食べるだけの草が育つらしい。今年はいつもと違うと言う。まあ私にはどの程度深刻なのか判断がつかないが。

 

「おはよ、かーさん。」


「おはよう、イル。」


 母さんは私に笑顔を向けながら地面に置いた洗面器に水を入れてくれる。私が洗面器の前で屈みこんで顔を洗うと、タイミング良くタオルを差し出してくる。


「ありがと」


 とお礼を言って受け取る。


「朝ご飯にするから、アイラとヤランを呼んで来て。」


「うん」


 と私は元気よく応えて駆けだす。行先は夜の間ヤギルを入れている囲いの中だ。アイラは私の姉、12歳、ヤランは兄、10歳だ。ふたりは毎朝の日課としてヤギルの乳を搾っているはずだ。囲いに着くと私は精一杯の大声で叫ぶ。


「アイラねーさん、ヤランにーさん、ごはんだよ~。」


 ふたりは手分けしてヤギルの乳を搾っていたが、すぐにこっちを向いて手を振ってくれる。


「おー、すぐ行く。」


 とヤラン兄さんが叫ぶ。食事の時はいつも上機嫌な兄だ。ふたりはヤギルの乳が入った容器を重そうに抱えて私の方にやって来る。


「お早う、イル。寝癖が付いているわよ。イルは可愛いんだから、身だしなみにも気を付けなくちゃ。」


 とアイラ姉さんが言い、懐から父さんから貰った宝物の櫛を取り出して私の髪を梳いてくれる。私の髪はダークブラウン。変凡な髪色だが、くせ毛で手入れを怠るとすぐに雀の巣の様にぼさぼさになる。


「ありがと」


と私は笑顔でアイラ姉さんにお礼を言う。


「なー、早く行こうぜ。」


 とヤラン兄さんが急かすが、アイラ姉さんは気にしない。


「ヤラン、そんなことじゃ女の子にモテないわよ。」


 とヤラン兄さんを宥めながら納得するまで私の髪をとかしてくれた。ちなみにアイラ姉さんもヤラン兄さんも金髪にキツネ耳だ。これらは母さんと同じ。私の髪は前にも書いたダークブラウン、耳はクマ耳。こちらは父さん譲りだ。正直言うと私も母さんと同じが良かったが、口には出さない。父さんが悲しむに決まっているからね。


 ようやく櫛を懐に仕舞ったアイラ姉さんと共に朝食が用意されている天幕に向かう。ヤラン兄さんはいつもの様に空腹の様だが、私の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる。優しい姉と兄だ。私はこのふたりが大好きである。

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