第3話 明津宮神事 二

 直の生家は、とある神社に縁のある家系である。

 とはいえ、堅苦しい縛り事があるわけでもなく、家自体はそこいらの一般的な家庭と大差ない。

 ただ一点。

 とある《祭》において、各代ごとに二人。

 一族の内から年相応の者がみこの職にく、というお役目があることを除けば。




「母さーん、帯、どう? 結べとる? これ」


 町のはずれに、海へと鼻を出す一つの山。

 その山頂には開けた土地があり、古びた神社が木々の合間から屋根を覗かせている。

  直の一族が受け継ぐ、『迎山神社』。

 そこで十二年に一度行われる『祭』は、空が朱に染まり切らない夕暮れ前に始まる。

 境内には提灯が連なり、中心となる舞台には白の幕が張られ、続々と神社の親類たちが集まって来ていた。

 旧暦の水無月の朔日ついたち、現行暦でいうところの、六月の終わり頃。

 その日こそが、これからひと月のあいだ続く、『明津宮神事あきつみやしんじ』の最初の夜である。


「直ちゃん、後ろちょっとじれてる。 こっち向いて」


 明津宮神事――――直たちの言う『祭』は、旧水無月の初めと終わりにり行われる、この神社の神使しんしを主とする神事だ。

 最初の夜、選ばれた二人の巫は、その身に神使の御霊を下ろされる。

 うつつに呼ばれた神使は、その後一か月の間此岸しがんでもてなしを受け、 その魂を慰められることとなる。

 そうして最後の夜に神使の舞――――つまり、巫の神楽かぐらをもって神の世に戻るのを見送られるのだ。

 最初の夜は神使の迎えであるため大事おおごとにはせず、神社の親族だけでり行なわれる。


「はい、いいよ。 綺麗にできた」


 神使の御霊を下ろす巫――――この迎山神社では、使える巫を『くら・ざ』と呼ぶ。

 右座うざ天津弥彦あまつみひこ

 左座さざ陸弥彦くがみひこと称し、この二人一組を、この神社の神使代役として見立てるのだ。

 くらの最初の務めは、神使を呼ぶための場を清める、しめやかな『榊舞さかきまい』。

 そしてもう一つは最終日の夜、神使を身に下ろして舞う『曲舞きょくまい』である。

 こちらは神使を体現するように勇猛で、新体操のような技を組み込んだ神楽だ。


 この迎山に仕える神使は、『猿』。

 座を演ずるものは、神猿まさるとして神楽を奉納するのである。


「ごめん夏っちゃん、ありがとう。 鏡ないけん、見えんのよね」 


 陽が落ちかけているとはいえ、七月目前の夕暮れに、重ねた衣装は少し蒸せる。

 顔に施された化粧を気にしながら汗を払えば、夏子が手ぬぐいを差し出してくれた。

 それをありがたく受け取って汗を拭うと、直ははっと思いついたように辺りを見回した。


「そういえば、『扇と鈴』、もう準備できてるんかな。 帰った時に練習で使ってから、ウチ、持ってきてないんやけど……」


 座の舞は、天津弥彦が扇、陸弥彦が鈴を持って舞う。

 普段の練習では似せた仮物を使うが、学校帰りの最後の打ち合わせで使ってから行方を知らない。

 舞具自体は神事の最中、祝詞のりとみあげた宮司に手渡される手順なのだが。


「心配せんでも、二つとも僕が持って出てきたよ」


 背後からの声に、直は首を巡らせる。

 幼くて少し高い声に似合わない、落ち着いた物言い。

 振り向いたそこには、まだ学生服を着たままの、小さな姿があった。


はる!」


 まだ幼い少年だ。

 直が名前を呼ぶと、後ろに手を組んだまま近づいてくる。

 直の後ろから顔を出した夏子が、おっとりと笑いかけた。


「晴君、帰っとったんや。 姿が見えんから、どこ行っとんかと思っとたわ」

「ちょっと用で出てたんや。 ――――探さんでも、もう二つとも父さんに渡してあるから」


 少しばかりぶっきらぼうなのはいつもの事。

 本家、つまり神社神主の一人息子であるまさき 晴真はるまは、直の二従弟ふたいとこにあたる。

 直の弟と同い年の小学六年で、今は県内の有名私立に通う、いわゆる『できた子』だ。


「晴君、表の方に出るん? その恰好かっこう。 私暑いから、裏で居るつもりやけど」


 神事に参列するとなると、特に本家の子などは正装でいるものだ。

 学生であれば、制服である。

 未だ私服に着替えていない晴真の姿を指して夏子が聞くと、晴真は首を振って舞台裏に目を遣った。


「制服は、単に着替えるんが面倒やったから。 表出たところで小父おっちゃんぁに捕まるんが関の山やし。 俺も裏に居る」


 親戚中が集まる夜だ。

 神事が終われば、直たち子供だって挨拶回りがある。

 それを見越して、余計な顔出しはしないと言う事だろう。

 年の割に大人びて晴真がそう言ったところで、その背後からにゅっと手が伸びてきた。


「あ、」


 直が声をかける前に手は小さな頭をがしっと掴んで、無造作にかき混ぜだした。

 首が居れるくらい抑え込まれた晴真は、「ぐっ」とうめき声を上げて手をバタつかせる。


「なぁに、ぶつくされた面で偉そうに言ってんだよんじゃ。 お前はホンっマ、愛想が足らんやっちゃな」

「あら、尋ちゃん。 もう準備できたん」


 晴真の頭をぐわんぐわんと揺らし始めたのは、巫姿の尋巳だった。

 直のと瓜二つである衣装は、はかまと上掛けの刺繍ししゅうの色で見分けられる。

 天津弥彦である直は、空色。

 陸弥彦の勝色かちいろを身にまとった尋巳は、思うさま晴真をもみくちゃに撫でくりまわすと、満足したのか納得顔でぽいっと放り出した。


「その年で可愛げ無くしてどうするんや、もうちょい年相応にしてみろみぃ。 本家の長男がそれやったら、爺連中に可愛がってもらえんやろうがよ」

「……うッッッ、さい! ほっとけバカ尋巳! お前ん方こそ、年相応に落ちついてろッ」


 この馬鹿力!

 先ほどまでの澄まし顔もどこへやら。

 解放された晴真は、顔を真っ赤にして尋巳から跳び退すさる。

 傍若無人な従兄から距離を取る晴真を、直は袖の裏に隠してやった。

 いつものことながら、はねっ返りな晴真と、それを玩具おもちゃにして遊ぶ尋巳は相性が悪い。

 懐かない子猫のような晴真を揶揄からかうのは楽しかろうが、尋巳の方が大人げないのも確かだ。

 おかげで晴真の尋巳嫌いは年を追うごとに悪化しているようで、どうしようもない。


「ほらもー、お兄ちゃんもいい加減にして。 そんに晴君、いじめんのんよ」


 もうそろそろ始まるでしょうと夏子が言いかけたところで、尋巳の向こうからもう一つ、小さい影が駆けてくるのが見えた。


「直ちゃん、尋兄ちゃん、もう準備できた?」

孝介こうすけ


 いとこの中では特に生白い肌が、落ち始めた夕影にぼんやり浮かぶ。

 小づくりの鼻の上にちょんと眼鏡を乗せ、頬を上気させながらやってきたのは、直の弟の桧原孝介ひのはらこうすけである。

 こちらは晴真と違って涼しげな私服姿で、早く早くと言うように、尋巳の袖を引いて舞台の方を指さした。


「柾の伯父さんが呼んどるよ。 もうそろそろ始めるからって」


 本家・柾の当主は、この神社の宮司だ。

 祭舞台の周囲は幕がめぐらせてあり、表側の様子はこちらからはうかがえない。

 ひと月後の『本宮ほんみや』は屋台などが出て近隣の住民も参加の中行われるが、今日の『めの宮』は神社と縁故のある人間ばかりで奉納される。

 話し込んでいて気が付かなかったが、いつの間にか表側の参列者の声も鳴りを潜め始めていた。


「ああ、もう時間やったか。 直、行くぞ」

「うん」


 急いで駆けていく尋巳の後に、直も続く。

 しかし足を踏み出しかけて、何かに上掛けをくいっと取られた。

 はてと首を回して後ろを見れば、晴真が顔を落としたまますそを握っている。


「? 晴? どしたん」


 いぶかしんで問うも、晴真は何事かを言いあぐねるように顔をしかめて俯いたまま。

 逡巡しゅんじゅんしたかと思うと、ゆっくり裾を放して首を振った。


「ごめん、何でもない。 行って、直姉。 もう始まるし」


 そう言って晴真は舞台裏でなく、本家の方へ帰っていく。

 直はその姿を見送ったが、うながす孝介に背を押され、最後まで追うことはできなかった。

 何か言いたいことがあったのか、気になる所だが、今は時間がない。

 いそいそと舞台の入口へ辿たどりつけば、木箱入りの猿の面を差し出される。

 今から演じる天津弥彦の顔だ。

 彩色が剥がれないよう、夏子と二人ががり、慎重に面をつけた。

 急に狭くなった視界の先で、準備はいいかというように、陸弥彦の面の向こうから尋巳がうなづく。

 肩にかかった紐を払って、直も頷き返した。

 いよいよだ。

 祝詞が終わり、囃子はやしが始まる。

 ひと月に及ぶ祭の、幕が開くのだ。

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