新訳グリムハンズ ～彩桜高校童話研究会活動録～

第三章：小さき人

一頁「悠木涼葉」

　ぶつり。ぶつり。肉を喰らう。

　ちゃくちゃく。ちゃくちゃく。咀嚼（そしゃく）する。

　ほこりとカビが充満する空間に、巨大なネズミが一ついる。

　小刻みに動く大きな前歯が、血の甘露（かんろ）を楽しんでいた。

　両足で抑え込まれ、悶える獲物は、無駄と知りながら泣き叫ぶ。

「やめて!　お願い!!」

　少女の懇願（こんがん）は、届かない。

　人の言葉など解さないネズミにとって、命乞いは、雑音でしかなかった。

　皮と肉を喰い尽くされ、もっとも脂の乗った美味である臓物を前に、ネズミの食欲が一層煽られていく。

「誰かぁ!!」

　祈りを聞き届ける者はなく、

「助けて!!」

　英雄も居ない。

「痛い!!」

　あるのは、ネズミと少女の二つのみ。

「いっそ死なせてぇぇぇ!!」

　骨すら残さず喰い尽くされるまで、少女の悲鳴は轟き続け――。

「お願い」

　再び眼が光を取り戻した時、少女は病院の天井を見つめており、

「殺して……」

　ネズミに食らい尽くされたはずだった身体は、まったくの無傷であった。

　放課後の喧騒（けんそう）の中、沙月エリカと亀城薫は、大量の本を腕に抱えて廊下を歩いていた。

　正太郎の命令で彼が古本屋に注文した本、計十二冊を受け取ってきた帰りである。

　文庫本ならともかく、大半がずっしりとした古書の類であり、一冊一冊が辞書のように分厚かった。

　しかも古本屋は、学校からだとバスを乗り継ぎ、往復四十分の距離。

　帰宅部の下校時刻と重なったせいでバスは満席で座れず、おかげでエリカの腕から痺れ以外の感覚が三十分程前から無くなっていた。

　いくらグリムハンズに覚醒しているとは言え、日常生活では身体能力の強化をオフにしている。

　不意に超常的な身体能力を発揮しないためであるが、そんな事はお構いなしに使ってしまいたい衝動に、エリカは駆られていた。

「薫君。先生って、なんでこんなに人使い荒いのかな?　ドＳなのかな。付き合うには……Ｍっ気必要なのかな」

　隣を歩く薫を見やると、寒々しい程に無表情であった。

「自分には分かりません。部長殿」

　ぽつりと、冷たく呟く。

「薫君」

「なんですか部長殿」

「薫!」

「なんですか部長殿」

「ばーか」

「黙れ、変態部長」

　ここ最近薫は、ずっとこの調子だ。

　事の起こりは、三日前。

　正太郎は、エリカの加入と薫の復帰で、部員が増えたから部長を決めると言い出したのだ。

　まだ同好会だから部ではないと、エリカは反論したのだが「こういうのは気分だ」と言って、正太郎は半ば強引にエリカを部長に指名した。

　エリカより正太郎との付き合いも長く、童話研究会の古株である薫としては、面白くないところであり、エリカが部長になって以来この有様だ。

「なんで後から入ってきたのに、変態が部長なんだよ。そもそも同好会だし……」

「そりゃあ先生が私を愛してるからでしょ」

「妄想もここまで来ると特技だな」

「そんな口聞いていいのかな?　私、誰かさんの命の恩人なんだけど?」

「ぐ……」

　とは言え、薫との権力闘争は、あくまでもおふざけ。

　実際には既に気の置けない間柄で、エリカにとっては同じ秘密を共有している初めての友達だ。

　だから薫との会話が楽しくて仕方ない。

　薫は、女子の人気が高いため、他の女子からやっかみを買ったり、付き合ってるんじゃないかと噂を立てられる事もある。

　それはエリカにとって、無縁であった普通の高校生らしい人付き合いや、学生生活をしている実感があり、この状況を大いに楽しんでいた。

「ふふふ。さぁ、今日は何を食べて帰ろうか薫君」

「また僕に奢らせる気!?」

「今月ピンチなの。にゃん子のエサ代高くてー」

「高級なのあげすぎだよ。なんだ、一缶千円って」

「だってあれじゃないと食べてくれないんだもん」

「舌肥えさせすぎだって」

「いいの。女と猫は、わがままじゃないと、らしくない」

「その割を食うのは、僕なんだけど。ていうか自炊したら?」

「えーめんどくさい」

「外食ばっかだと太るぞ」

「何か言った?　部長様に対して」

「いえ……別に」

「さーて何食べようかなっーと。気分は焼肉!」

「勘弁してくれよ!?　僕だってお小遣いそんなに……危ない!」

　薫の声が鼓膜を揺らすと同時に、エリカの身体は不意の衝撃に押され、抱えていた本を撒き散らしながら尻もちをついた。

　突然の事に、最初は驚愕の方が勝っていたが、やがて尻に広がる痛みの主張の方が激しくなってくる。

「い……いたい」

「ごめんなさい!」

　手の差し伸べてくれたのは、涼（すず）やかな面立ちの少女だった。

　腰までまっすぐ伸びた黒髪を一つに束ね、柳葉のような眉と切れ長の目は、絵に描いたような日本的な美である。

　自分の容姿に自信があったエリカは、今まで人と比べて容姿が劣ると思う事はなかったが、自分以上は身近に居るのだと、この日初めて実感させられた。

　そして意外にも嫉妬の念は浮かんでこず、清々しいぐらいだ。

「いえ。こちらこそ」

　見惚れながら少女の手を取り、立たせてもらう。

　なんて人なんだろう?

　エリカが名前を尋ねようとすると、

「うぅ!!」

　突然少女は、胸を抑えて蹲（うずくま）ってしまった。

「あの大丈夫ですか?」

「うん……平気よ」

　今度は、エリカが手を差し出した。

　しかし少女は、エリカの手を取らずに両手を腹に当てがり、その場でのたうち始めた。

「いやああああ!　やめてえ!」

　鼓膜を切り裂くような悲鳴は、およそ人の出せる音とは思えず、

「痛い!　痛い!　痛い!　痛い!　痛い!　痛い!」

　まるで生きながら臓腑（ぞうふ）を、鳥の群れに啄（つま）まれているようだった。

「ああああああああ!!」

　あまりの異様に、エリカも薫も助け起こそうとする発想が出てこない。

　困惑が鎖となって、二人の行動を縛っている。

　呆然と傍観者でいるしかなかったが、

「また発作か!」

　二年Ａクラスの担任で歴史担当の保坂（ほさか）紀介（のりすけ）が駆けつけ、少女を抱き起こした。

「二人ともすまないが、保健室に運ぶのを手伝ってくれ!」

　エリカと薫は、保坂に言われるまま、叫び続ける少女を三人で担ぎ、保健室に運んだ。

　叫んでいた生徒は、悠木（ゆうき）涼葉（すずは）。彩桜高校の二年生である。

　学年トップの成績と弓道の全国大会で三位入賞の腕前に加え、一七六センチの長身と校内一と呼ばれる美貌を併せ持った才色兼備だ。

　男子生徒から毎日のように告白され、教師の中にも好意を寄せる者が居るとまで噂になっている。

　古い言い方をするなら学園のマドンナだ。

　保健室に運んだものの、結局涼葉の症状は治まらず、救急車で病院に搬送される運びとなった。

　エリカと薫は、涼葉と面識がある訳ではない。しかし、目の前であんな状態になられてしまうと、無事なのか気がかりだ。

　二人の心情を察してくれたのか、涼葉に付き添っていた保坂は、病院から帰った足で夕刻の童話研究会を訪れた。

「すまなかった二人とも。助かったよ」

「保坂先生。あの人、悠木涼葉さん?　ご病気なんですか?」

　エリカの問いに保坂は、しばし喉の奥を鳴らしてから、ぽつぽつと語り始めた。

「二週間程前から突然幻覚と激痛がな……医者にも診せて色々と検査したそうだが、原因は分からなかったらしい」

「検査では何も見つからない……じゃあ精神的なやつかな?」

　エリカが薫に尋ねるも、

「僕に聞かれてもな。医者じゃないし」

　その通りで、一高校生が聞かれて分かるはずがない。

　エリカの困惑を見かねたのか、保坂が唸り声を交えつつ答えてくれた。

「あぁ……そういう事例もあるらしいが、ご家庭での問題はなさそうだし……まだ受験生でもないしな。精神科医にも診せたそうなんだが、問題はないと」

「原因不明って事ですか?」

「ああ。心配だよ」

　身体的に精神的にも問題はない。

　医学的にそう言われてしまえば、それまでだろう。

　だが、あの苦しみ方を間近で見た人間ならば分かる。

　尋常の痛みで、あの発狂は、あり得ないという事。

　原因不明で済ませていいわけがない。

　エリカは知っている。世界の裏に潜む異形の存在を。

　それからエリカと薫は、保坂と二つ三つ言葉を交わし、彼が居なくなるのを待ってからエリカが切り出した。

「薫君。原因不明の激痛って、ワードじゃないかな?」

「ワード?」

「うん。薫君は、どう思う?」

「可能性は、あるけど……」

　煮え切らない薫の態度をエリカは訝（いぶか）しんだ。

「どうかした?」

「激痛を与えるワードって見当つかないよ。症状が出た時、付近にワードの姿もなかったし」

　薫の言う通り、近くにワードの姿はなかった。

　エリカだけなら見逃した可能性もあるが、グリムハンズとしての経験で勝る薫が一緒に居たのだから、その可能性は低いと見ていい。

「じゃあワードに憑りつかれてるとか、かな?」

「幽霊じゃあるまいし……僕は、聞いた事ないな」

「でも幽霊のワードならどう?　怪談話からでも、ワードは発生するでしょ?」

「とりあえず如月先生に聞いてみるか」

　ベテラングリムハンズの経験と知識に、エリカと薫は、望みを託す事にした。