第二章:復讐の対価
一頁「亀城薫」
夕日に焼かれる朽ちた十五階建てのマンションのある広場で、十数人の子供が戯れている。
年の頃は、十歳にも満たない。
周辺は、工事用のフェンスで囲われているのだが、一ヶ所小さな切れ目があり、子供達の秘密の抜け道として重宝された。
大人が居ない日暮れ間近の工事現場は、解放感と幾ばくかのスリルを提供し、間近で接する機会の少ない重機や工事用具は、眺めているだけで好奇心を掻き立てた。
親や学校の先生は、危ないから絶対入るなと言うが、いけない事をしていると思うと、ますますのめり込んでしまう。
子供心なんて、そんなものなのだ。
それでも夜が迫ると、皆が家を恋しく思う。
日が沈むにつれ、一人また一人と、禁じられた遊び場を後にする。
しかし一人の少女は、次々に友人が帰路に着く中、ぷっくりと頬を膨らませた。
「桃子ちゃん帰ろう?」
「先に帰っていいよ」
「でも、暗くなっちゃうよ?」
「いいの! どうせバカお兄ちゃんが探しに来るもん」
迎えに来るまでは、帰ってなるものか。そんな強固な意志の宿った桃子の背中に、子供達は手を振った。
「モモちゃん。ばいばい」
「桃子ちゃん。また明日ね」
「うん。ばいばい」
桃子は、向き直らずに手を振り返し、しゃがみ込んだ。
既に太陽よりも月明かりの方が強く輝き出している。
不安が膨らんでいくが、桃子の内でたぎる怒りの念が、この場を離れる事を
『――大嫌いだ!!』
あの瞬間を思い出しただけで、涙が込み上げてくる。
「わたしだって……きらいだもん」
だから、迎えに来るまで絶対に帰らない。
とことん心配させて泣かせてやる。
「モモ――」
ふと耳を突いたいつもの呼び名に、桃子は笑顔で振り返った。
「おにいちゃ――」
笑顔は、一瞬の間に恐怖で塗り固められた。
眼前に居るのは、一見すると老人であるが、向こう側の景色が透けて見えている。
尋常のモノではない。
古びて
背中には老母の上半身を丸めたような肉塊が鼓動し、しわがれた二本の女の手が伸びて、身の丈程もある錆びついた
「モモ――」
桃子を見つけると、男は嬉々として唇を歪め、女は恍惚と瞼を見開いた。眼球はなく、吸い込まれそうな
三本の腕がしなり、
恐怖が喉を
――おにいちゃん。助けて。
願いながら桃子は、廃マンションへと走った。
開かれたままの自動ドアを潜り、左手に見えた階段に向かう。
取り壊し中の廃マンションの中は、子供達の格好の遊び場所で、隠れる場所には困らない。
――どこに隠れよう。
しかし桃子は、マンションに足を踏み入れた時点で硬直した。
不気味な何かが迫っている恐れが、身体を
普段のかくれんぼで味わうスリルとはまるで別種だ。
見つかれば、確実に命を失う事を理解する。
――どこに隠れよう。
桃子の思案を許さぬかのように、背後でギリ……ギリ……と音が鳴った。
ゆったりとした足取りで奇怪な老人は歩み、引きずる鉈の刃先が、マンションのコンクリートの床に擦れている。
背中の肉塊が眼球のない目で桃子を見つめ、引き笑うかのように、ぶるぶると揺れた。
頭の中を白が塗り潰していく。
桃子は、階段を駆け上がった。
マンションの中には扉が外されたり、鍵のかかっていない部屋が幾つもある。
二階にある部屋のトイレは、どうだろうか?
前に見つかった事がある。
四階にある角部屋は、どうだろう?
これもだめだ。
五階の部屋のお風呂場は?
『こんなとこに居たのか!! 兄ちゃんがどんだけ心配したか!!』
――だめ……前にお兄ちゃんに見つかった事がある。
兄とのやり取りを思い出しつつ、桃子は階段を駆け上がった。
鉈が床で擦れる音は、常に付きまとってくる。
一瞬でも立ち止まってしまえば、捕まってしまうだろう距離。
離れる事もなければ、それ以上近付いてくる事もない。
がむしゃらに階段を駆け上り、隠れる場所も決められず、ついに桃子は屋上へと辿り着いてしまった。
これ以上逃げられない。戸惑いと困惑に心が揺れ、涙が止めどなく頬を伝う。
しかしあの老人が屋上に来る気配がない。
鉈の擦れる音も消えている。
――助かった?
自分に問いかけた瞬間、視界が虹色に交じり合った。
何が起きたのか理解出来ずにいると、赤紫の中に小さく光る点がある。
『あれ一番星って言うんだぞ』
桃子の兄がそう教えてくれた光だ。
「おにいちゃん……」
星の光を遮って、老人が桃子を見下ろしている。
錆びた鉈を三本の腕で振るい上げ、
「たすけて――」
早朝の青い光が深緑の香りを際立させていた。
もう間もなく本格的な夏の頃だが、まだ朝の時間は涼やかさを保っている。
窓を開けての爽やかな自動車通勤を楽しんだ如月正太郎が童話研究会の部室に入ると、見知らぬ先客がそこに居た。
校舎裏を縄張りにしている三毛猫だ。
以前からエリカが餌をやって可愛がっている。
その猫が正太郎愛用のパイプ椅子に陣取って、ふてぶてしく睨みを利かせていた。
「なんでこいつがここに……」
「先生。おはよ」
振り返ると、先週入部したばかりの沙月エリカの姿があった。
背中まで伸びていたボサボサの髪は、肩の高さで切られ、ライトブラウンに染まっている。
眉も元々書いたように形はよかったが、一層整えられ、顔全体にほんのりと化粧が施されていた。
「ねぇねぇ、どうかな……こういうの好き?」
正太郎は、その辺り特にゆるい教師だが、エリカの変貌っぶりには面食らった。
「派手に変わったな……イメチェンか?」
「暗いのは、もうやめようと思って。見た目も……性格も……多少無理してでも明るくなろうって、思ったの」
もう悲劇のヒロインでは居ない。人々を救うヒロインとなる。
そんなエリカなりの決意表明だ。
「いいんじゃねぇの。確かに今の方が本来のお前らしいって感じはする」
「そっか!! なら良かった」
微笑むエリカは、視線を正太郎から部室の主としての風格を醸し出す猫に向けると、満面の笑みを浮かべた。
間違いなく、
「ところでエリカさんよ。あれなんだ」
「猫」
「見りゃ分かる。猫嫌いなんだけど」
「そうだっけ?」
「犬派だって言ったろ」
――だから飼えない。
正太郎がその台詞を言うより速くエリカの語調が強まった。
「約束したの」
「何を?」
「この子と」
「どんな?」
「一人にしないって」
痛い所を突いてくる。
自身の境遇と重なるような言い方をして正太郎の同情を誘っている。
別にアレルギーがある訳でもないし、見るもイヤという程、嫌いじゃない。
子供の頃から引っかかれたり噛まれたり、あまりいい思い出がなく苦手なだけだ。
「だからここで一緒に居ようねって。いいでしょ?」
しかしあまり好きではないのは事実だし、学校内で飼うとなると、面倒な交渉事をさせられる公算が極めて高い。
やはり認めるべきではないだろう。
「なら家で飼えばいいだろ」
「うちのアパートは、ペット禁止なの」
「学校だってペット禁止に決まってるだろ!」
「そこは、先生のマンパワーで何とかしてよ」
「なるわけねぇだろ……」
正論が沙月エリカに通じる様子はない。
わざとらしく頬を膨らませていじけている。
これが幼い我が子や妹なら微笑ましくもあるが、縁者でもない十六の娘にやられると、あざとさが際立つ。
「エリカ」
「絶対飼うから!」
「あのな――」
「絶対飼う!!」
「だから!!」
「お願い、せんせー……私の処女あげるから」
「いらねぇよ。俺を刑務所に入れてぇのか?」
「私、
「そもそも入れんな。入れようとすんな豚箱に」
「合意の上だから大丈夫だって」
「俺が一ミリも合意してねぇだろうが。だいたい青少年育成条例って知ってっか?」
「あれ、淫行に関しては最高裁で物言いがついたんだよ。知らないの?」
「その情報どこで知った?」
「ウィキ」
「あー出たよ。いいから、とっとと猫を外に出せ」
エリカは、椅子から猫を抱き上げると、瞳を潤ませた。
「ねぇ、せんせ。飼っていいでしょ?」
交渉する気は最初からない。決定事項だから受け入れろ、というメッセージだ。
「……絶対飼うの?」
「うん」
「……どうしても?」
「うん」
「……断ったら?」
「泣く」
きっとおしとやかには泣いてくれないだろう。
さめざめと泣く事もしないだろう。
怒声を撒き散らしながら傍若無人に自分の意を通す。
短い付き合いながら生来の性根は、そういう手合いであると、正太郎は察していた。
良く言えば意志が固い。
悪く言えば頑固で強情。
どちらにせよ、折れるのなら、こちらだ。
曲がらない大木を蹴り続ける程、むなしい行為もない。
「分かった。本だけは引っかかれないようにしてくれ」
「よかったね、にゃん吉」
「名前、古風すぎるだろ。しかもそいつメスだ」
「なんで分かんの?」
「股間見れば分かる」
「ほんとだ。じゃあ、にゃん子」
「ネーミングセンスが欠片もねぇな」
「別にいいでしょ。そう言えばさ先生」
また無理な注文を引っ掛けてくる気か?
首を傾げながらも警戒心を強めていると、エリカは、部室をくるりっと見まわしてから口を開いた。
「ここってもう一人部員居るんでしょ? その人は」
「まだ部じゃないけどな。お前と同じクラスの男子だよ。名前は
「ああ。あのイケメン君か」
「知ってんのか?」
「おぼろげにね。イケメンで目立ってたし……先生程じゃないけど」
「お前、存外惚れっぽいな」
「先生が……初めてだよ」
「さいですか」
以前エリカは、クラスメイトの顔と名前が一致していないと話していたが、最近は多少なりとも努力するようになった。
自分の真実に気付けた事で、僅かではあるが、他人に気を配る余裕が出来たのだろう。
ならば正太郎の役目は、この少女をいち早く一人前にしてやる事だ。
「じゃあ始業前恒例のグリムハンズとワードに関する講義といくか」
正太郎が手を叩いて黒板に向かうと、
「めんどくさい」
即答してエリカは、長机の上に、にゃん子を置いて
「お前ね……」
「先生、お腹すいた」
「いっぺん殴っていいか?」
「……変態。そういうプレイが好きなわけ?」
「何故そっちの意味になる……」
「まぁ、先生がしたいなら私はいいけど。ドMな女になれるけど」
「なれって言ってねぇよ? 一言も」
――こういうキャラだったっけ?
疑問は尽きないが一つ分かるのは、逆らうだけ無駄という事。
お姫様の朝食を用意すべく、正太郎は、渋々購買部へ向かった。
上谷区で最も高い高層マンション。
自殺防止のため、封鎖されている三十階建ての屋上で、彩桜高校のブレザーを着た少年が空を仰いでいた。
体格は小柄で、線も女性のように細い。
面立ちは中性的だが、眼だけは対照的に武人のような鋭い光を放っている。
少年が見上げる中空にはカラスの群れが旋回しているが、やかましく鳴き声を上げる事はない。
その内の一羽が舞い降りて、少年の肩に止まり、耳元で細い声を流し込んでくる。
「そうか。ありがとうね」
少年がカラスの頭を一撫ですると、嬉々と鳴き、少年の肩から飛び立った。
上空で旋回を続けていた群れも、そのカラスの後を追い、去って行く。
「戻ってきたんだな。この街に」
眼下の上谷区の街並みを眺める少年の瞳に、赤黒い情念が滲み出していた。
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