すべてのいちのために、ひゃくを。

(きょうのツイートを、まとめたものです。)

(正反合プロジェクトとして、扱いたい内容。)



・きょうは終戦記念日。テレビをつけると、戦時中のアメリカにおける日本人強制収容所の番組がやっていた。これを見ながら、私が考えていることは大きく言ってふたつ。

・まず、ひとつめ。私が不勉強だからかもしれないが、アメリカにおける日本人の強制収容という事実は、一般にあまり知られていない気がする。つまり、歴史の陰である気がする。どこにおいても、戦争というのは存在した。そして苦しむ人がいた。そのことを、はっと気づかされる事実である。

・そもそもあまり、取り上げられていない気がするんだよねえ。戦争というと、日本本国の苦労が強調される。それは当然のことだし、真剣に考えつづけるべきことだけれど、戦争というのはそれこそがいろんな場所で起こっていたもので、日本だけで完結することではない。ほんとのほんとに、当然だけれど。

・ふたつめ。それでも私たちは、戦争のことを忘れるべきだと思う。なぜならば、全人類の痛みに気をくばり理解するのは神でなければ不可能だからである。痛みは反省となり、そしてやがて歴史となる。それが、すべての、流れである。

・百年戦争や戊辰戦争のことを歴史として話すのを、ためらう人はいないだろう?

・ああ、忘れる、っていうとちょっと語弊があった。忘れるのではなくて、じょじょに感情を取り除いてゆくべきだっていうことを言いたかった。

・どんなものも風化する。風にさらされ雨にうたれ、その鮮やかな色をうしなってゆく。それは嘆くようなことではない。なぜならば、廃墟には廃墟のうつくしさがあるから。そして廃墟にまでその存在を押し上げられたものは、永遠に人類の記憶に残る。忘れられることなく、静謐にそこにあり続ける。

・ただし。逆説的だが、それは個人の痛みを個人の痛みとして生々しく受け取ることができてはじめてゆるされることだ。歴史というのは無数の個人である。いちを理解せず、ひゃくを理解することはできない。そしていつだってほんとのほんとに大切なのは、いちのほうなのである。

・すべてのいちのために、ひゃくを。



 ダイアローグ、求む。

(そしてただいま、ダイアローグ進行中。相手がたの許可がとれたら、載せてゆきたいと思います。)


 補足として、ダイアローグ中の私のツイート。

・情を重んじているうちはものごとは解決に向かわないという考えが私にはあるのです。経験を抽象化し、それを還元する。そういった行為を繰り返してこそ、過ちすなわちこの場合は戦争の起こる可能性は、低くなってゆくと思うのです。

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