教えについて
ルカのスケッチブックに、その男性が描き加えられたのはいつからだろうか。てっきり壁画が完成したと思っていたエドワードは、新たな下絵をスケッチブックに描くルカをじっと見つめていた。
がらんどうの駒鳥亭の中で、エドワードは滑車を使って天井から大きな鳥籠をおろしている。滑車の鎖が錆びつかないよう、油を指して鳥籠を綺麗にしておけとマダムに言われたからだ。
エドワードの眼は作業を続けているあいだにも駒鳥亭の片隅で、一心不乱にスケッチを描くルカに向けられていた。
ルカは自身で描いた壁画を背にして座っている。じっと彼は誰もいない自分の前方を見つめ、それをやめてスケッチに眼を落とすことを繰り返している。そのたびに描きたされる存在が知りたくなって、エドワードは彼に近づいていた。
息がかかるほど側に寄っても、ルカはこちらに視線を向けない。木炭で描かれる男を見つめながら、エドワードは大きく眼を見開いていた。
遠い昔に、この男をどこかで見たような気がする。男の絵を見つめるだけで、エドワードは眩暈を覚えていた。
記憶がフラッシュバックする。
阿片を嗅がせ、朦朧とする自分を牛乳風呂に鎮めるマダム。そのマダムの横であの男は笑っていた。テムズ川に自分をゴミのように放り込んだあの男が。
耐えきれずにエドワードは床に膝をつく。すると、驚いた様子でルカがこちらを見つめてきた。
「エドワード、いつのまに……」
「ごめん、邪魔するつもりじゃ、なかったんだ……」
そっと床にスケッチを置き、ルカがエドワードの背中をなでてくれる。エドワードは床に広げられたスケッチブックを今一度見直した。
どことなく中世的な顔立ちのその男は、気のせいかルカに似ている気がする。
「ああ、やっぱりその人、気になる?」
スケッチブックを見つめるエドワードの顔を、ルカが覗き込んでくる。苦笑する彼はどこか申し訳なさそうな顔をしていた。
「彼は悪魔だ。この壁画に描きたそうと思ってね。やっぱり、聖女と救世主と天使がいるなら、悪魔もいないと格好がつかない」
「誰なの、そいつ……」
そっとスケッチブックの男をなぞり、エドワードは問いかけていた。問わなくても自分はこの男を知っている。疑問なのは、なぜルカがこの男を描いているかだ。
「ねえ、ソドマイドはどこから生じると思う? エドワード」
そっとルカが立ちあがり、エドワードに問う。エドワードは眼を顰め、彼の問いに答えていた。
「男が男を愛することは罪じゃない。旧約聖書の十戒にも姦淫することなかれとしか書かれていないよ。だから、ここに集うモリーたちは愛する者同士でしか結ばれない」
「マダムの教義か。あの人らしいね。国教会でも、清教徒でも、カトリックでもない異端の存在。それがマダムだ。この駒鳥亭はマダムの教会でもあり、彼女の教えを流布する施設でもある。その教えを伝えるイエスこそ、君だよ、エドワード」
「僕は、マダムとモリーたちが好きなだけだよ」
「そうか。僕は、この駒鳥亭を僕なりに解釈してこの絵を描いてるつもりなんだけどね……」
そっとルカは、描きあげられたばかりの壁画を細い指でなでた。
「なんで、悪魔なんて描きいれる必要があるの?」
「この悪魔はね、風紀改善協会の会長なんだ。君たちにとって、悪魔そのものだろう」
「皮肉が効きすぎてる……」
エドワードは苦笑していた。ルカの人をおちょくるような物言いが、どうしてもエドワードは好きになれない。彼と話していても、彼が何を思っているのか想像がつかないのだ。まるで霧に沈むロンドンの街のように、彼の心は不透明で見渡すことができない。
「君は、何を望む」
彼に対する思いが言葉になる。ルカは口元を歪め、言葉を吐き出していた。
「君を望もうエドワード。君をくれれば、僕は何もいらない」
「あげられないよ。僕は、マダムのものだから」
「僕は、そのマダムの恋人だよ」
首を傾げ、銀の眼をルカは笑みの形に歪める。その眼に宿る妖しい光からエドワードは視線を逸らすことが出来なかった。
たった一つしか歳の違わないこの少年が、ずっと年上の大人に見えるのはどうしてだろうか。だから、少年である彼がマダムと関係を持っていても、エドワードは違和感を抱くことができないでいた。
あるのは、反発。母親をとられたと思い込む、幼稚な自分の嫉妬心だけだ。
「お前が父親になるなんて、僕は死んでも嫌だ」
「君が息子だなんて、僕だって嫌だよ」
エドワードの発言にルカは肩を落としてみる。苦笑する彼は、そっとエドワードの肩を抱き、顔を覗き込んできた。
なにっと問いかける間もなく、彼はエドワードを抱き寄せる。暴れようとするエドワードの顔を覗き込んで、彼はその唇を奪ってみせた。
短い口づけ。彼の笑顔はゆっくりとエドワードの視界から離れていく。唖然とエドワードは自分の唇に指を這わせ、彼を睨みつけていた。
「君の初めてを奪ったのは、ダラスだったけ……。でも、僕の口づけの方が甘くて気持ちよかったでしょう?」
赤い舌を、ルカは自身の唇に這わせる。光る唾液に濡れたそれは、嫌らしくこちらを見つめる蛇にも見える。自分の隣に座る少年が急に汚らわしいもののように思えて、エドワードは唇を拭いながら立ちあがっていた。
「エドワード……」
「君といると気分が悪くなる。絵が仕上がったら、もうここには来ないでくれっ!」
去っていくエドワードにルカが声をかける。そんなルカを振り向くことなく、エドワードは声を荒げていた。そんなエドワードをあざ笑うかのように、ルカの笑い声がエドワードの耳朶を貫く。
「モリーのくせに、君はてんで子供だなっ! 別にキスなんて挨拶みたいなもんだろう?」
「モリーたちは君みたいに人の唇を奪ったりしないっ!」
笑うルカに振り向き、エドワードは叫んでいた。ルカは笑みを湛えたまま、そんなエドワードを楽しげに眺めている。
「嫌だ。マダムもいるし、楽しい君と会えなくなるのはもっと辛い。僕は絵が出来ても、ここにずっといるよ。それがマダムとの約束だ」
「絶対にそんなの嫌だ!」
そう吐き捨て、エドワードは足早に隠し扉を潜っていた。
閑散としたシェイクスピアの室内は埃っぽく、誰にも触れられない本の背表紙だけが誇りを被って壁に陳列されている。
天窓から入る光に照らされたその本を見つめながら、エドワードは唇を強く噛んでいた。
「畜生っ!」
誇りを被った本棚をエドワードは苛立ちに蹴り上げる。彼の声は誰もいないシェイクスピアに響き渡った。
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