第30話 「何もしなかった」

 *


「え? ……五十嵐君の家に、僕が?」

 事の始まりは、小学六年の秋、俺が担任の教師にそのとき不登校だった卓也の家にプリントを届けるよう頼まれたことだった。

「うん。悪いけど、お願いしてもいいかな?」

「は、はい……」

 正直、あまり気乗りはしなかった。なぜか。

 わかりやすく言うなら、五十嵐卓也はいじめられていた。

 ○○菌~って言って鬼ごっこをするような小学生達が、いじめられている生徒の家に行った奴がいると知ったらどうなるか。

 面白がる。冷やかす。そして、勝手に敵にし、攻撃し始める。

 だから、当時の俺は気が進まなかった。でも、クラス委員という手前、担任の頼みを無下にするのもどうかと考え、まあ一回なら大丈夫だろうということで引き受けた。

 ちなみに、卓也がいじめられ始めた理由は至って単純。

 父子家庭だったから。

 馬鹿馬鹿しい理由だけど、実際、そんなもんなんだろう。些細な違いを人間は嫌う。父子家庭だからっていう今思えばひどい理由で、クラスは五十嵐卓也をいじめていた。もちろん主犯格の人間もいたはいたけど、誰一人として声をあげなかったから、クラスがっていう主語は間違っていないだろう。

 それは、当然、俺も。

 卓也が父子家庭っていう情報は、親の会話から漏れたらしい。よくある、「○○君とは遊んじゃだめよ」っていう例のあれ。そこから、始まった。

 小学校から歩いて十分くらいの場所に、卓也の住むアパートはあった。俺は最初、プリントはポストに入れて帰ろうと思っていたけど、チラシやら封筒やらであふれた五十嵐家のポストを見てそれは諦めた。今考えれば、あのポストは電気代やガス代の請求書だったのかなとも思う。

 とりあえず、プリントだけ渡してさっさと帰ろう。俺はそう考えインターホンを押す。しばらくして、卓也がドアを開けて出てきた。

「……戸塚君」

「元気か? プリント、持ってきた」

 頼まれたプリントを彼に渡す。よし、これで役目を終えた、帰ってしまおう。

 引き返そうと体を反転し「じゃあな」を言いかけたときだった。

「……卓也の、同級生かい?」

 俺の目の前に、くたびれたスーツを着た、卓也の父親、五十嵐雅文が立っていた。

「え、あ、はい……同じクラスの、戸塚恵一、です」

 つい反射的に挨拶をしてしまった。いや、してしまったっていう言い方はおかしいけどもね。

「戸塚、恵一君ね。私は卓也の父親の雅文。わざわざ来てくれてありがとう。折角だから、上がっていって」

 卓也の父親はそう言い部屋のなかに入る。

「今、飲み物を用意するから」

 そこまで言われると……何か帰るのも悪い気がしてしまう。一杯だけ飲んだらすぐ帰ろう。そう決めて、俺は部屋の玄関に靴を置き、なかに進んだ。

 家のなかはポストの印象と裏腹に綺麗だった。いや、綺麗と言うよりかは、殺風景という表現が正しいかもしれない。全体的に、ものが少なかったんだ。テレビも、ゲームもない。でもそこまで悪い印象は受けなかった。遊んじゃだめよ、と言われるレベルではないようにも、思えたんだ。

「なあ……普段何して過ごしているんだ?」

 飲み物を待つ間、俺は卓也にそう話しかけた。まあ単純に気になったからっていうのもある。何か話さなきゃって思ったのもある。とにかく、俺はそう切り出した。

「えーっと、ソリティアとか、神経衰弱とか……」

 わかった、うん、一人でトランプして過ごしているんだな。

「……あ、でも、今日は二人でできるね、ね、一緒にやらない?」

 キラキラと瞳を輝かせながら、卓也はそう提案した。

 ……俺がいじめの主犯ではないから、別に嫌悪とかは感じていなかったのだろう。卓也だって普通の男子小学生、同級生と遊びたいって気持ちは持ち合わせているはず。むしろ学校だと怯えないといけない環境かもしれないけど、ここは自宅。いじめるような奴はいないし、のびのびと遊ぶことができる。

「俺は、まあ別に……構わないけど」

 結局、飲み物一杯飲んだら帰るつもりが、一緒に遊ぶっていう展開になってしまった。しかし実際、五十嵐卓也は悪い奴ではなく、遊んでいて楽しい人だと思ったんだ。神経衰弱やポーカーをして遊び、そのうち卓也の父親も交えてババ抜きや大富豪をして盛り上がった。

 二時間くらいして、俺は家に帰ることにした。

「……また、遊んでくれる?」

 卓也は寂しそうな目を俺に向けつつ、両手を握りしめている。

「おう、またいつかな。っていうか、学校に来れば、いつでも遊べるだろ」

「……うん、そうだね」

「じゃあな、また」

 そして、俺は卓也の家を後にした。


 その次の日、当たり前だが卓也は学校に来なかった。その次の日も、更に次の日も……。気が付けば、卓也の家に行ってから、一週間が経っていた。

 放課後、また俺は担任に卓也の家にプリントを届けるように頼まれた。

 一度家に帰り、俺はとあるカードゲームを持って俺は卓也の家に向かった。

「あ、戸塚君……また、来てくれたんだね」

 卓也はドアの隙間から顔を覗かせ、俺と認めるとドアを目一杯開いて、少しニコリと歯を見せ笑顔を浮かべた。

「ああ、これ、プリント……と、今日はこれで遊ぼうぜ」

 俺は手に持っていたとあるカードゲームを掲げて見せた。

「ああ! バケモンカードだぁ!」

「な、やろうぜ。俺カードたくさん持ってきたから、二人分デッキ作れるし」

「うん!」

そうして、俺と卓也はバケモンカードゲームでまた数時間遊び続けた。


 一週間後、担任に頼まれ、また卓也の家に行った。その一週間後も。二週間後も。

 もう、きっと、卓也にとって俺は、大切な友達になっていたのだろう。でも、俺にとっては、数いる友達の中の一人でしかなかった。

 その認識のズレが、あんな悲劇を生んだ。


 ある冬の日、五十嵐卓也は学校に来た。翌日も、翌々日も。ここまでは、戸塚恵一と五十嵐卓也の美しい友情物語という美談が成り立つ。

 でも、無邪気で残酷な同級生達は、それを許さなかった。

 思い出したくもないような暴言に、いたずら。いや、もはやいたずらの域になかったか。机に落書き、画鋲は鉄板で、教科書隠し、靴隠しも週に数回。もちろん、直接手を加えたのは主犯格の数人だ。

 でも、俺はその事実から目を背けた。

 五十嵐卓也は「友達の一人」であって「絶対に守らなければならない一人」ではなかった。だから。

 俺は、何もしなかった。卓也を助けることのリスクより、クラス内で遊んでくれる友達を確保する保険を取った。

 きっと、卓也は裏切られたと思っただろう。あんなに遊んだ「親友」が、何もしてくれない。助けてくれない。

 あのキラキラと輝いた瞳は、絶望で濁りきり、そして――


 五十嵐卓也は、小学校の屋上から飛び降りた。


 卓也が死んでからはもう大騒ぎだった。マスコミが来る、PTAだ、教育委員会だともうドタバタ。そんなさなか、ある出来事が起こった。

 それは、卓也が死んでから一週間後のこと。俺は普段通りの時間に登校して、教室で暇をつぶしていた。すると、一人の男がいきなり教室に入って来た。

「えっ?」

 クラス中からそんな反応がこだまする。用務員でも、先生でもなかったから。

 しかし、俺だけは誰なのかすぐにわかった。わかってしまった。

「……卓也の、父さん」

 どうして、ここにと思った瞬間、俺の体が宙に浮いた。

 胸ぐらをつかまれたんだ。大人と子供の身長差があっという間に埋まり、目の前に今にも泣き出しそうな表情が映った。

「どうして! どうして! 助けてくれなかったんだ! どうして……!」

 今度は教室から悲鳴が響き渡る。

「お、俺先生呼んでくるっ!」

 クラスメイトの一人が慌てて教室を飛び出していく。

「卓也は……卓也は……それでも戸塚君がきっとなんとかしてくれる、そう信じて学校に行ったんだ、それなのに、どうして、どうして……」

 最後は、涙声になりながら、そう訴えた。

 これは後から聞いた話だが、五十嵐家が父子家庭だったのは、離婚したから。親権は父親が持ち、二人で暮らしていた。しかし、父親の勤め先が倒産してしまい、再就職もうまくいかず、アルバイトで食いつないでいる状態だったという。

「先生、ここですっ!」

「ちょっ、五十嵐さん何しているんですか、戸塚君を離してください、彼は何もしていないんですからっ」

 うん。間違いない。

 俺は「何もしていない」。

 何も、しなかった。

 卓也の父親は駆け付けた担任の教師と、もう一人の教師により拘束され、職員室へと連れて行かれた。

 俺は、呆然とその場に立ち尽くしていた。


 ある、昼休み。

「また戸塚学校の景色を描いてる」

「あ、福原……」

 教室で黙々と窓の外から見える景色をスケッチしていると、この間先生を呼びに行ってくれたらしい福原がそう話しかける。

「お前……変わったよな……やっぱり、この前のことが、原因?」

「……うん」

「そっか、……まあ、あまり背負いすぎるなよ」

 そして、福原はまたどこかに行った。

 ……最後に、卓也はどんな景色を見ていたのだろう、と。それを想像することは、果てしなくしんどく、心を痛めつける。

 けど。俺はその痛みを受け入れないといけない。


 *


 もともと絵を描くのはまあまあ好きだったから、あの日以来、俺は学校の窓から見える景色を描くことを習慣にしている。

 俺の部屋にしまっている学校の景色を描いたスケッチは、高校一年の春には、千枚を超えた。



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