第3話 シャレにならない状況です

 一瞬、ふわりとシャツの裾が舞い上がって、心臓が置いていかれるような感覚。それからすぐ、緩めたひざに――だんっ、と大きな衝撃。

「ひっ……ろと、かっこいー!」

 わあっとたけるが興奮して叫ぶのが聞こえた。たぶん、腕もバタバタ振り回してるはずだ。

 ぼくは顔を上げて汗をぬぐった。にやり、と笑ってみせる。すると――ふいに、顔がかげった。

 びくっとしてそっちを見てみたら、一人の女子が自転車にまたがりながらぼくを見下ろしていた。

 キャミソールにシースルーシャツを重ね着していて、下はハーフのカーゴパンツ。きれいに切られたショート・ヘアにピンクの縁取りメガネ。

「……久野」

「何でそんな嫌そうな顔すんのよ」

 久野は、むっとした顔でぼくにそう言った。久野の「む」がうつって、ぼくも思わずむっとしそうになったけど、その前にたけるのわめき声が空気をかき乱した。

「ひろとひろとひろと! 海賊、やってきたよ!」

 海賊じゃなくてマフィア――と内心で訂正しながら、それでも焦ってぼくは振り返る。そしてそのまま、0・5秒くらい動きを止めた。

 海賊だった。

 同じ顔の三人の海賊。青いバンダナに、汚いボロ服。腰には銃。まんま、漫画とかに出てきそうな海賊の格好をしていた。でも、顔はさっきのマフィア。

 は、はや着替え……?

「ひろとひろとひろとひろとひろと!」

 たけるがぼくの名前を連呼した。

 その声にぼくはようやく我にかえる。あわてて立ち上がりながら、今さっきのぼくと同じように――なんだと思った、たぶん――呆然とマフィア改め海賊たちをガン見してる久野を引っ張った。

「久野! 巻き込んで悪いけど、逃げるぞ!」

「ちょっ、な、なによあのヘンタイ!」

 海賊じゃなくてヘンタイというあたりが、女子ってひどいと思う。いやそれはどーでもいいんだけど。

「いーから、はやく!」

 右手にたけるの左手を、左手に久野の右手を握って、ぼくは再度走り出した。

 ぶっちゃけ、久野は関係ないのは関係ない。あいつらが鍵を追っているんだったら、ぼくとたけるが逃げればいい。ただ、あいつらにちょっとでも脳みそがあったら、ぼくらと話していた久野を放っておくかどうか、ってこと。

 人質、なんてとられたら後味悪いじゃんか。別に、久野が心配とかそんなんじゃないけど。

 久野がまたがっていた自転車はがしゃんと音を立てて倒れた。足をもつれさせながら、久野も必死で走り出している。

「ちょっと! いきなりなんなの!? 説明してよ!」

『あとで!』

 ぼくとたけるはハモって怒鳴る。第二公園の入り口を抜けて、団地が立ち並ぶ二番街に飛び込んだ。入り口の駐車場を斜め横断して、風船公園を横切って、四棟の前に差し掛かる。

 その瞬間ぼくは思いついて、こう叫んだ。

「そこ入って! 三階、三○六号室!」

 久野とたけるを引っ張って、階段を駆け上がる。走りながら外を見たら、海賊たちは一瞬ぼくらを見失ったみたいで、足を止めていた。でも、見つかるのも時間の問題だ。

 ぼくは顔を引っ込めて、走ることに集中した。

 三階に辿り着くとすぐ、ぼくは三○六号室の扉を叩く。プレートには『菊地』の文字。

「すみません! 片瀬です!」

 叫んで、ほんの数秒後――扉ががちゃっと開けられた。

 開けたのはぼくと同い年の男子だ。つんつんの短い髪の毛と、ぼくより高い身長。真っ黒に日焼けした顔と、いたずら好きそうな茶色の目。そいつはぜえはあ言っているぼくらを見て、目を丸くしていた。

 だけど次の瞬間、そいつはおもいっきり作り声をあげて、ぼくに抱きついてきた。

「ひろとくーんっ! きてくれたのねー! アタシまってたわーあ!」

「うざいっ、きもいっ、死ねっ!」

 抱きついてきたそいつ――こーすけを殴りつけて引っぺがす。

「痛っ! おま、マジで殴ンなや! ちょっとしたシャレやん!」

「シャレになんない状況なんだよ! いーから、入れろ!」

 当たり前だけどさっぱり状況を考えてくれないいつものノリのこーすけをひっつかんで、ぼくと久野とたけるは菊地家の中に飛び込んだ。鍵を閉めて、チェーンもしめる。

 台所から走ってきたおばさんには、何でもないですとごまかし笑い。何かを言いかける久野の口はふさいでおいた。おばさんはきょとんとした顔をしていたけど、すぐに台所に戻っていく。

 おばさんの後姿を見送って、たけるが鍵を握ってることを確認してから、ようやくほうっとため息をついた。久野の口をふさいでいた手をどけると、ぼそっとした呟きがもれてきた。。

「……ホント、男子ってバカ」

 この場合、バカなのは男子じゃなくてこーすけだと思うんだけど、どうだろう。

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