第42話 小人死すも戻らぬもの

 己にとって忌々しい者を取り除き、愛しい存在を手に入れた斉の襄公にとって,今こそが幸せの絶頂であったと言えるだろう。そんな彼が次に目指したのは、己の野心を満たすことであった。


 秋、襄公は軍を動かして、首止の地で諸侯を集めた。つまり、彼は鄭の荘公のように諸侯の盟主足らんとし、その威を示そうとしたのである。


 これに鄭の子亹が参加しようとした。これを止めたのは白髪が多くなった祭仲である。


「お止めになさった方がよろしい。斉君は残酷で無礼な人物であり、主君が以前、公子の時代に斉君と争ったことがあったと聞いております。斉君がそのことを忘れているとは思いません」


 理由は不明であるが、子亹と襄公はまだ公子であった頃に争ったことがあった。それに対し、子亹はこう言い返した。


「斉は強国であり、突(厲公)は櫟にいる。もし私が行かなければ、斉君は諸侯を率いて鄭を討ち、突を鄭に入れることだろう。例え以前、我々が争ったことがあるとはいえ、会盟に参加したことによって必ず辱めを受けるとは限らないではないか」


 子亹はそう言って笑った。子亹の感覚では諸侯を集めた場でそんなことをするわけがないというのがある。


「左様でございますか」


 祭仲はあっさりと引き下がった。そして、咳を何度かした。それを見た子亹は、


(祭仲も老いたな)


 と、思った。鄭において長年に渡り権力を握ってきた祭仲もどうやら老いには勝てないようだ。やがては彼も引退するだろう。そうなれば、


(鄭は本当の意味で私の物になる)


 そう思うと笑いがこみ上げてくるのをぐっと我慢し彼を労った。


「祭仲よ。どうやら身体の調子が悪そうだ。休むと良い」


「ありがとうございます。お言葉に従いましょう。その前に一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」


「何だ。申せ」


「此度、同行なさるのはどなたでしょうか?」


「高渠彌である。前にも伝えたではないか」


「左様でしたなぁ。高渠彌殿が補佐なさるのであれば安心でございます」


 祭仲は恭しく言う。そんな彼を本当に老いたと思いながら、子亹はその場を離れ、高渠彌と合流すると用意された馬車に乗り、斉に向かった。


 それを祭仲は見送ると、先ほどまでとは打って変わり、力強い目付きをしていた。彼は配下の者たちを呼び、耳打ちに何かを話した後、子亹らを追わせた。それを見た後、祭仲は、


「あれでは殺されても仕方ない。だがその死には同行人が必要であろう」


 そう呟いた。


 子亹は首止に入り、会見に参加した。だが、彼は襄公に対して何らの謝罪もしなかった。そのため襄公はこれを憎んだ。彼は一度、憎んだら何としても晴らそうとする男である。


 襄公は子亹を宴に呼んだ。これに子亹は何らの疑いも持たず、参加しようとした。


「宴は参加しないほうがよろしいのでは」


 高渠彌も襄公と子亹が以前、諍いを起こしていることを知っているためこれを止めたが子亹はこれを聞き入れず、そのまま宴に向かった。


 宴にのこのこやって来た子亹に襄公は笑みを浮かべると彼は事前に伏せていた兵たちに子亹を襲わせ、これを殺した。襄公が国君を殺すのはこれで二人目である。


 更に襄公は子亹ら鄭の一行を皆殺しにするべく、兵を向けた。


 これにいち早く、気づいた高渠彌は数名の部下と共に、首止から逃げるようと図った。


「だから行くべきではないと言ったのだ」


 腹を立てながら高渠彌は吐き捨てるように言いつつ、次に立てる公子を誰にするか考え始めた。


(いっそのこと公子・突を立てるか)


 公子・突、即ち櫟にいる厲公を立てることを彼は考えたが、彼自身そこまで厲公とは仲は良くない。彼と厲公は人間性的に似ている方であるためか同族嫌悪に近いものを互いに持っていたのである。そうでなければ祭仲に相談せずに彼は厲公を立てたはずであろう。


(今は国に戻ることが先決だ)


 彼は配下に急がせる。彼を乗せた馬車は闇の中を駆けていく、その前に突然謎の集団が立ちふさがった。


「そこをどけ貴様ら、ここに居られる方は高貴な方であるぞ」


 配下の者が集団に怒鳴る。すると、集団の一人が笑い出す。


「何がおかしい」


「いや、そこに居られる方が高貴な方であることを私たちは知っているのに、そのように言われたのが少し、可笑しかったものでな」


「ほう、ならばそこをどけ」


「そうはいかないのでございますよ高貴な方の犬殿。私どもはそこに居られる高貴な方に用事があるのですよ」


 そう叫ぶやいなや、集団は剣を抜き、高渠彌らに襲いかかった。


「なぜ我らを襲うのだ」


「ある方よりの命によりだ」


「ある方だと」


 高渠彌は相手が最初、賊か何かと思っていたが、相手がやけに統率されていること、そしてある方と言ったことから彼らは正式に鍛えられた兵であると考えた。


(斉の手の者がもうここまで来たのか。いや、だがまさか……)


 彼はある考えが脳裏を過ぎった。自分を殺すほど憎んでいるであろう人物。それは、


「お命頂戴」


 高渠彌の背に向かって、剣が振り下ろされた。彼の背からは大量の血が流れ出した。


「お前か、さ、さい、祭仲ぅぅ」


 そう叫ぶと彼はそのまま倒れ絶命した。己の身を守るためとはいえ、一国の君を殺し、政権を握った男にしては呆気ない死に様であった。


「死んだな。国に戻り報告するぞ」


 集団の隊長がそう言うと彼らはこの場から離れた。その場に残るのは数人の遺体のみであった。やがてこれらも自然の養分となり消えていき、またいつも通りの時が流れていくことを思えば、なんと儚いことだろうか。


 祭仲は公子・嬰こと子儀を立てた。そんな祭仲に対し、ある者がこう言った。


「あなたは事件を予知して禍を逃れた」


 それに対し、祭仲はこう答えた。


「その通りだ」


 人々は祭仲を知恵者であると称えたが祭仲はその評判に対しこう答えるだろう。


「自分は知恵者でもなんでもない」


 なぜなら彼の中には虚しさがあるからだ。彼は荘公という稀代の英傑の傍で支え、後を任せられながら、昭公を高渠彌のような小人に殺されてしまった。そして、鄭の築いていた栄光を著しく損ねることになってしまった。


(それにも関わらず、何故自分が知恵者であると言えるのか)


 自分は何も守れなかった。しかし、それでも今の鄭という国を守らなければならない。以後、彼は鄭の国を守り続け、約十年後、世を去った。


 祭仲の死後、鄭は衰退していき小国としてこの戦乱の時代の中、翻弄されていくことになる。

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