第27話

 バスルームは先に百合に使わせた。介助用椅子がなくてちょっと面倒そうだったが、シャワーさえフックから下ろしておけばいいだろう。いつものシャンプーとコンディショナーは携帯容器に入れて持って来てある。自分で洗う分には洗わせ、終わったらとりあえずブラとショーツを付けてバスローブに身を包む。なんでもしてやるのは返って害悪だと病院の先生には言われているからだ。俺としてはどろっどろになるぐらい俺漬けにしてしまいたいんだが、流石に風呂を手伝うのは無理だった。勃つ、確実に。気づかれたら軽蔑されてしまうので、結局主治医の言うとおりにする。その方が正しいと思い込んで。いや見たいけどな、色々。そりゃあ。それは睡眠薬で眠ってる百合にも出来ることだろう。どうせなら安全策を選ぶ。俺は狡賢いのだ。

 喜世盛、と呼ばれて、はいよと俺はその身体を負んぶしてベッドに下ろした。今日は色々あって足腰が痛いから、シャワーは明日の朝浴びよう。ゴールデンウィーク前に短くした髪はすぐに乾くだろうし。何かあるとバリカンを取り出して丸坊主にしたがる義母が嫌だ。中学生でもなしに。野球部でもなしに。やってみたかったから、なんて動機で俺の毛髪をいじらないで欲しい。自分で試せ、自分で。今はカツラも種類があるだろう。天斗みたいに染めるのでもヅラなんでもいい。俺を、巻き込んでくれるな。

「レストラン行くか? それともルームサービス?」

「ルームサービス」

 流石に疲れた顔で足をぶらぶらさせる百合に、俺は苦笑する。

「天斗たちに何言われた?」

「何にも……」

 長い髪をバスタオルに巻き込んで、重そうな頭で百合はぼんやり天井を見上げる。

「私を助けてくれるのはいつも喜世盛だよね」

 がりっと錠剤を一粒掴んで噛んでから、苦そうにして冷蔵庫に入れてあったミネラルウォーターで喉を潤す。普段は水をお供にすることもないのに、珍しいな、と思う。苦ければ苦いっぱなし。甘かったら甘いっぱなし。もっとも糖衣はすぐ剥がれるから結局苦いが。

「どうしたんだ、いきなり」

「なんで喜世盛なんだろう、って」

 釣られて取ったミネラルウォーターのペットボトルが自分の手の中でべこりと鳴る。

 どうして? そんなのは。

 俺がお前を愛してるからだよ。

 誰にも奪わせたくないぐらいに。

「論理的に考えればお邪魔虫の私を猫探しなんかに連れ出すのは確かにおかしいんだよ。探偵の仕事ではあるかもしれないけれど『名』探偵の仕事じゃない。それに言ってしまえば断る事だってできたのに、喜世盛は私をここに連れてきた。どうしてだろう。薬は正しい飲み方だったら薬局で貰ったペーパーで分かってる。私はあえてそうしてないけど、高校も二年生だし、あんまり干渉されなくたって出来ることは出来る。あちこちバリアフリー化も続いてるし。どうしてだろうって考えたら、去年の事を思い出した。私を一人に出来ない理由がそれだったらって。でも流石にもう居留守は覚えたよ。喜世盛、喜世盛は私をどうしてここに連れて来たの?」

 そんなことは決まっていて。

 愛してるから離れたくなくて。

 独裁してしまいたくなるどろどろの感情は、名前を付ければ独占欲。

 天斗が来るなら断腸の思いで連れてこなかっただろう百合。

 何でだって? いつも助けてくれるって?

 俺が事態をややこしくしないためにしておいているからだよ。

 何でそんな簡単なことに、二年も気付いてくれないんだよ。


 思わず押し倒してしまいそうになって、それを理性で留める。野性は蛮勇だ。俺はどこまでも優しい幼馴染でいなきゃならないんだから。そうして義父母や天斗なんか無視して、その独り占めに気付かれないようにしなきゃならないんだから。あと二年。御園生百合を喜世盛百合にするまでかかる時間はやっと半分に到達しようとしている。

「喜世盛?」

 ことん、と首を傾げてしまう百合が、あまりにも純粋で。

 汚したくなるけれど出来なくて。

 俺はどうしてこんなに汚いのかと、口唇を噛み千切りたくなる。

「おっさんと天斗に何か言われたのか?」

「……それもある」

「何言われた?」

「『何でここに居るの』、って。『喜世盛が連れてきた』って答えたら、さっきみたいなこと言われて、自分でもそれはおかしいなって思って。喜世盛はどういうつもりで私をここに連れて来たのかなって。少なくともこれは喜世盛がいつも言ってる『名探偵の介護人』の仕事じゃないなって思って――そしたら論理が途切れた。だから本人に直接聞いてる。喜世盛。なんでここに私を」

「婚前旅行」

「へっ?」

 茶化してみると、百合はきょとんとする。

「嘘だよ。純粋にお前の薬の飲み方が心配だっただけ。俺がいないところでオーバードーズなんて考えたくもない。胃洗浄だとか入院だとか、そう言う方が俺にとっては怖かった。それじゃ理由にならないか?」

「……心配過剰だとは思う」

「俺はいつだってお前が心配だよ。百合」

 やっばり二人は殺せないな、百合にばれる。一人でも怪しまれるだろう。ああまったく、なんて役に立たないナイフ。二人の言葉の方が百合には深く鋭く突き刺さった。俺が百合を連れ歩く理由。殺される可能性のある現場だって無いではなかった。自分が只の高校生でしかないことを思い知った現場もあった。他殺があった。自殺があった。事故があった。そして強姦があった。最初まで突き詰めれば、それが起点になっている。でも百合はその時の事を思い出せない。多分、一生。

 だったら今のまま、名探偵と助手ならぬ名探偵と介護人で良いじゃないか。

 どうせお前は俺に疑いなんて掛けたことがないんだろう? 今はまだ。

「さてと、ルームサービスは何にすっかね」

 二つのベッドの間にある電話台、そのパンフレットの数々に紛れて見えたルームサービスのパンフレットを取って、百合に渡す。

「喜世盛はいつも私優先だ」

 ふうっと息を吐かれて、そりゃそーだと思う。

 こんなにも真っ黒く愛しているんだから。

 せめて少しぐらいの自由は与えようと言う、慈悲だよこれは。

 くっと笑ってから真剣に考えこんでいる百合の隣に座って俺も自分の分を考える。多分百合はオムライスを頼むだろう。俺はカルボナーラかな。味が好みだと良いんだが。食育は百合の母さんにされてるから、俺達は味覚もほぼ同じなのだ。なんとなく考えていることが分かる。味の好みも分かる。だから俺の菓子レシピは百合の口に合うんだろう。

「んー、オムライスと、レアチーズケーキ」

「じゃ、俺はカルボナーラだな」

「喜世盛、デザートは良いの? もしかして財政圧迫してる?」

「そんなことはない」

 俺は財布を渡して中身に『わお』と言う百合を笑う。

「お前から一口貰う」

 と言えば、ガーンっとした後渋々こくりと頷く。

 嘘だよと言えばホッとした顔をされた。それほどまでにやられると帰ったら俺お得意のケーゼクーヘン食らわしたくなるじゃないか。文字通り。

 何よりも大好きなもの。

 ぺろっと舌なめずりして、俺は電話の受話器を取った。

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