双つの都 10-1 ソサリアの護り手たち
空高く昇った陽の光を浴びて白亜に輝くソサリアの『千年王宮』。その広く優美な王宮の最上階に並ぶ居室、そのひとつである王弟の寝室では――。
上掛けの擦れ合うささやかな音を聞き、テロンが目を覚ましていた。
彼の青い瞳は空の高い部分の色彩に近く、常日頃から穏やかな光を湛えている。夢から現実に戻って開かれたばかりであってもなお、その目に映し出される優しさに変わりはなかった。
彼は室内に満たされている陽光の眩しさに腕をかざし、その動きで隣に寄り添って眠る女性を起こしてしまったのではないかと心配になった。
そっと首を動かして顔を向けると、暖かな色彩の大きな瞳がゆっくりと瞬きをしながら彼を見つめているのに出会った。まるで昇ったばかりの太陽が地表を染めたときのようにあたたかく、澄み渡った美しいオレンジ色の瞳である。
「おはよう、ルシカ」
「おはよう、テロン」
ルシカがやわらかく微笑む。その唇はふっくらとして瑞々しく、なめらかな白磁の肌の中で好ましく目を惹いている。桜色に染まる頬から喉、肩へとかかる線は細くまろやかで、覆うもののない肌は光に溶けるように淡く輝いてみえた。
「起こしてしまったか、ルシカ」
「ううん。もう目は覚めていたの。まどろみながらずっと、あなたの寝顔を見ていたわ。あたしのほうこそ、起こしてしまったかもしれない、ごめんね」
「いや、そんなことはないさ。それにもうそろそろ、起きなければならない頃合だろうし」
テロンはゆっくりと周囲に視線を巡らせ、部屋に差し込む外からの光が織り成す影の傾き具合を確かめた。
掛け布団のやわらかな暗がりで絹のふれあうような音が耳に届いた。仰向いているテロンの上腕に、ゆったりとした心地よい重みがかかる。もう片方の手をそっとのばすと、ぬくもりをもつすべらかな肌に指が触れた。ふっくらと甘やかな丸みをなぞるように手のひらをすべらせるテロンの耳もとで、ルシカが微かな笑い声をたてた。
「うふ、くすぐったいわ、テロン」
「体が冷えているな、ルシカ。風邪をひいてしまいそうだ」
「だいじょうぶよ」
ルシカがいたずらっぽく微笑むと、やわらかな金の髪がひとすじ揺れ、すべらかな頬にかかった。
「ルシカのいう『大丈夫』だけは、心配だぞ」
テロンは微笑みを返しながら顔を寄せた。自分の額が彼女の額にコツンと当たる。そのまま頸を動かしてそっと愛妻の唇に口づけ、掛け布団を動かして彼女の肩を包み込んだ。そしてかばうように自分の腕を回し、細く小柄な体をそっと抱きしめる。
「ありがとう。あったかぁい」
ルシカは夫の
テロンは腕の中のルシカの様子を確かめた。頬に赤みが差し、いきいきと快活そうに、健康そうにみえる。
昨夜遅くに外交の旅から戻ったばかりだったこともあり、今朝は陽が昇ったあとになってもゆっくりと休んでいたのだ。その甲斐があってよかった――すっかり回復したらしいルシカの笑顔に、テロンは安堵した。
魔法使いである彼女には、特別な休息が必要なのだ。このソサリア王宮になくてはならない一番の知恵者かつ宮廷魔導士であり、王弟であるテロンとともに王国を支え立つ護り手であった。
いにしえより続く血統を継ぎ、万能なる魔導の遣い手とされる『万色』の力持つ彼女は、この小さく華奢な体の内に、大陸において並ぶ者がないといわれるほどに凄まじい魔法の威力と可能性を有しているのだ。
だが同時に、
一度は本当に危ないところであり、彼女の祖父と、いにしえより伝えられていた魔法王国の宝物『万色の杖』によって落としかけた命を救われたこともある。仲間たちが世界を護るために必要な時間を稼ぎ、血路を開かんとして、彼女は生命そのものを犠牲にしようとしたのである。
彼女の優しさ、彼女の強さ。そして彼女の弱さ。そんな魔導士の少女の素顔をよく知り、なによりも大切に思い、この上もなく愛しているからこそ、テロンの心配は尽きないのであった。
「ルシカを心配する想いは、きっと皆同じなんだろう。兄貴もウルも、王宮の図書館棟の皆も仲間たちも。そして……」
テロンは腕の中のぬくもりと鼓動を感じながら思いを巡らせた。数週間前に出掛けていった娘トルテも、出発の直前までルシカの体調を気に掛けていたのだ。
そのときのルシカは特に魔導の技を遣った後でもなかったはずなのだが、トルテの幼なじみの青年リューナまでもが案ずるように表情を曇らせていたのであった。
「あれは、何故だったのだろう」
そのときの様子も気になるが、旅立つトルテとリューナは、今までの冒険とは比べ物にもならないほど遠く離れた地まで行くつもりであるらしかった。ふたりから語られた目的地は、この広大なトリストラーニャ大陸の南東部にあるのだということだ。
娘たちのことはもちろん心配だったが、無理無茶ばかりしている母親をみて育ってきたせいか娘は意外にしっかりしていて、父である彼譲りの慎重さをもって行動しているような印象がある。それに、幼い頃からトルテの傍には必ずリューナがついていた。ふたりは互いの欠点を補い合いながら進んでゆくことを、すでに学んでいるのだ。
「……トルテたちはもう、着いた頃かしら」
テロンが眉をくもらせたとき、ルシカがぽつりと言った。心の内でつぶやいていたつもりだったが、娘の安全を懸念している表情がちらりとでも出てしまったか、とテロンは焦ってしまう。
「あ、ああ。そうだな……でも目指している遺跡は、標高四千
「頂上まで行く必要はないんじゃないかしら。このトリストラーニャ大陸を貫く広大な『大陸中央』フェンリル山脈、その南東端に
「そこには何があるのかな。確かふたりは、旅の計画をハイラプラス殿に相談していたようだが」
「あたしにも詳細までは話してくれなかったの。それにいま訊きたくても、ハイラプラスさんはふたりが出掛けたあとずぅっと、ファンの町に滞在しているらしいから」
「ファンに?」
「うん。超迷惑魔術師んトコ」
唇をとがらせ、少女のような仕草でルシカが言った。
王都からみて南東、ゾムターク山脈の最高峰ゴスティアの麓にあるファンの街には、元宮廷魔術師であった老師ダルメス・トルエランが開校した、ソサリア王国最初の魔術師学園がある。現在の学園長はメルゾーンであり、魔術師としてはすこぶる優秀で実力もあり、またリューナの実の父親でもあった。
ひどい頭痛でもしているかのようなルシカの表情は、メルゾーン独自の行動とそれによって
「『時間』の力をもつグローヴァーの魔導士殿が、メルゾーンにいったい何の用があるのやら」
テロンもつい嘆息してしまう。それまで顔をしかめていたルシカが、ぷっと吹き出すようにして笑い出した。
「笑い事じゃないぞ」
「ごめん、つい。メルゾーンも相変わらずだなぁって、いろいろ思い出して懐かしくて。シャールさんが傍にいるから、出逢ったときほどは無茶してないし、ぶっちゃけ一緒に戦ってきた仲間なんだし。……まぁ、『仲間だ』なんてあんまり声に出しては言いたくないけど」
後半部分を言い添えたルシカの複雑な表情が微笑ましくて、テロンも笑ってしまう。
頬を膨らませたルシカに口づけながら、テロンは言った。
「まあ、ハイラプラス殿と話をしたあとでふたりは出掛けたんだろう? とても重要な事柄を頼まれたと言っていたしな。……誰かの為にならば、躊躇することなく行動するのがあのふたりの長所でもある。それがましてや友人や恩師の為ならば」
「そうね」
ルシカは思慮深げに眼を伏せながら同意した。
ハイラプラスは『時間』を力を持つ優れた魔導士であり、いまは滅んでしまった古代魔法王国グローヴァー時代の研究者でもあった。希代の天才であり、存命である魔導士の中でも予知予見に関わる第一人者でもある彼の示唆する行動に、トルテとリューナは全幅の信頼を寄せている。それが大切な仲間を救うためであったときには、特に。
「そんなところは、ルシカとよく似ている」
「あら、それはテロンも同じでしょ」
「では、似たもの夫婦ということだな」
「そうね」
今度の同意は、
「そろそろ起きなくちゃならないかな。でもテロンも構わないなら、もう少しだけ」
ルシカが腕をテロンの首に回し、ゆっくりと体重を預けてきた。鍛えられたテロンの力に小柄なルシカはとても軽いものであったが、その命の大切さは比類なく重くかけがえのないものだとしみじみと思った。
やわらかな吐息と温かくすべらかな肌が、心地よく彼を内側から満たしてゆく。テロンはしっかりと彼女を抱きしめた。
これからも変わることなく、このように穏やかな時間が続いてゆくといい――テロンは心からそう願っていた。
リューナとトルテたちが見上げている空高く、山岳特有の抜けるような青さを背景に、翼を広げた竜のシルエットがいくつも張りついていた。
陽光を遮って乱れ飛ぶ魔獣たちの黒々とした影は、さながら風の強い日の祭凧のようだ。ただしひとつひとつが遥かに大きく、馬一頭は軽々と持ち上げることができそうなほどに強力そうな後脚と鉤爪を有している。
「『
愚痴めいた独白をつぶやいたリューナに、背後からトルテののほほんとした声が応える。
「この辺りには餌となる大型の獣もいなさそうですから、あたしたちでも彼らにとってはご馳走なのかもしれませんね」
ドウンッ! その言葉の終わりと同時に、騒々しい衝撃音が周囲に轟き渡った。先ほどリューナが張った結界に飛竜たちが突っこみ、強襲を阻まれたのである。
空中で翼を打ち羽ばたかせながら、飛竜の一体が耳をつんざくような
「さすが俺の張った結界だ。モロいな」
リューナが
「いえ、前回より三秒は長いです! 少しずつ延びていますから、きっと上手になってるんだと思います」
トルテが大真面目に応えたとき、薄い
とはいえ、リューナの具現化したものでは堅固な代物とはいえなかったようだ。
「――っとと、来るぜッ!」
リューナは叫ぶと同時に体をひねり、立ち位置を僅かに変えた。剣を素早く振り上げ、上段から一気に地面を叩く。
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