双つの都

双つの都 プロローグ1 魔導を継ぐものたち

 白く波打つ水面みなもさながらの雲海が、ふいに途切れた。


 染み渡るような青、そして銀に煌めく海岸線と恵みあふれる緑の領域――遥か遠くにあるはずの光景が、冷然たる雲の合間に色鮮やかに浮上する。


 そこだけがまるで切り取られたかのように目の前に差し出され、荒々しくも寒々しい光景を眺めなれた瞳を、片時なりとも、ほんわりといこわせたのであった。


「すっげぇ! おいトルテ、見てみろよ。ザウナバルクの港と森があんな遠くに見えるぜ」


 眉庇まびさしがわりに掲げた腕の下から、あおの瞳をきらきらと輝かせた青年が声をあげた。


「はい、とっても綺麗です! それにしても、リューナは目が良いんですね。ここから港まで見えるなんてすごいです!」


 青年の傍らに立ち、爪先立ちをして伸び上がるようにして同じ姿勢になったのは、すべらかな肌を寒さゆえに桜色に染め、さらりと流れる長い金の髪をツインテールに結った少女だ。太陽が地表から顔を出してすぐの色彩さながらの、澄んだ大きなオレンジ色の瞳をぱちぱちとまたたかせている。


「海岸の形から、あの辺りかなって。でっかい中央市場の建物が見つかりゃ、あとは港の位置は見当がつくさ」


「『遠視マジックアイ』は使っていないですよね。なのにそこまで見えるなんて。リューナと同じくらい、あたしにも見えたら――きゃっ」


「トルテ!」


 リューナは叫び、同時に腕を差し伸ばした。危なっかしい姿勢を崩して足もとを滑らせた少女の体は、もう少しで真っ逆さまに滑落するところであった。ふたりの立つ足場の下は、ほぼ垂直な絶壁と遥か下にこびりついた雪と氷、草木一本ない岩肌のみ。


「まぁ、ごめんなさい、リューナ。気をつけます」


 のんびりと穏やかな声で、トルテが謝った。


 リューナは止めていた息を吐き、ゆっくりと姿勢を戻した。腕のなかのトルテが彼を見上げてにっこりと微笑む。勢いそのままに抱きしめた彼女の腰は折れてしまいそうなほどに細く、笑うと幼さがのぞく可愛らしい容貌と衣服の下の肌の温もりに、甘く胸がうずいた。丸みを帯びはじめた箇所は弾力を増してやわらかく、それでいて腕や脚はほっそりと伸びている。


 ふたりして過去の世界へ飛び、王の使命を果たしてあとから戻ったリューナのほうが二年の歳月を多く費やしたとはいえ、今はトルテも彼と同じように日々すこやかに成長しているのだ。リューナはそういったことを実感し、火照ほてった自身の頬に慌てたように口を開いた。


「いやごめん。その、いいんだ。足場が悪いから気をつけろよ」


 助けてくれたリューナが謝ったからだろう、トルテは不思議そうに長いまつげをぱちぱちとしばたたかせた。


 その少女の横で、敵意を剥きだしにして、ぱたぱたと二対のはねを打ち羽ばたかせながら空中に浮かんでいるものがいる。リューナは憮然として向き直ってから、その相手を負けじと睨みつけてやった。


「ピューリ、ピュルルピィィ!」


「うるせぇぞ。おまえより速かったんだから、くんじゃねぇったら」


「ピューリピピィリ」


「うるせ! おまえに馬鹿よばわりされるほど勉強サボっちゃいないぞ!」


「……するほど仲が良いっていいますけど、ふたりとも喧嘩けんかしないでくださいね。ここは狭いんですもの」


 トルテが困ったように優しげな眉を寄せ、首をちょこんとかしげた。けれど口調はのんびりとしたままで、さっぱり緊張感のないものであったが。


「仲良くねぇったら!」


「ピピピイィィ!」


 同時に返事をした人間族と龍。その異種族のふたりは互いの目を見て、さも嫌そうな渋面になる。リューナは盛大な溜息をつき、龍のほうは憤然と鼻から蒸気を吐き出した。


「おまえはいいよなぁ。そうやって空を飛べるんだからさ。なんなら自分の荷物くらい運んでくれてもいいんだぜ?」


 リューナが睨みつけている相手は、ずんぐりとした胴と長いくびと尻尾、そして煌めくあかがね色の鱗に覆われた龍の子どもであった。左右に二枚ずつあるはねは昆虫さながらの美しいもので、いかなる魔法か、やたら頑丈そうな骨格と立派な腹を空中にふわふわと浮かべているのである。


 『竜』ではない、『龍』だ。それもはるかいにしえ、太古の昔から生き続けていた古代龍の末裔である。ドラゴンと総称されてはいるが、竜と龍とではまったく異なる存在だ。魔獣である野生の竜と違い、古代龍は高い知能を持って人語を解し、音楽や芸術すら理解できるほどの感性をそなえている。


 もし成長した親龍であるならば、『大陸中央都市』ミディアルの都市管理庁の「どでっかい」建造物と並ぶほどに巨大な体躯なのだが、なにせ永劫ともいわれるほどに長い生涯を送る種族でもある。目の前で呑気に飛んでいる幼児ほどの背丈の龍は、一年ほど前に卵からかえったばかりの赤子同然なのであった。それでも、発声まで至らなくとも大陸語と魔法語ルーンをきっぱりと理解しており、魔導の言葉である『真言語トゥルーワーズ』までをも聴き取ることができるのであった。


 もっとも精神のほうは見かけ相応で、リューナに言わせれば「クソガキ」なのであるが。


「テテテッ、引っかくなよ! 毛布も水筒も携帯食も、ぜんぶ俺が持ってやってんだろうが」


「ピュイ、ピュリ!」


 子龍はリューナに向けて抗議の声をあげ、それから誇らしげに胸を張り、ななめ掛けにしている可愛らしいポシェットを鉤爪でぽんぽんと叩いてみせた。それらすべてを虚空に浮かびながらやってのけたのだから、龍というものはずいぶんと器用なものである。


「リューナ。ピュイも、ちゃんと自分のものを持っているんですって」


「そのカバンの中身って、ブラシひとつだけじゃんか」


 呆れたように言葉を吐き、リューナは肩を落とした――言い争うだけ疲れるし時間のムダだよな、というのが本音であった。


「この稜線を登りきったら平らな場所に着きますから。そこでごはんにしましょう」


 トルテが元気に声をあげて自分の荷物を揺すりあげ、足場を確認しながら再び歩きはじめた。彼女の頭の中には、この旅へ出発する前にハイラプラスから見せられた詳細な地図が、すべて完璧に余すところなく記憶されている。


 荷物の肩紐を掴み直し、ふぅ、とまた溜息をひとつ吐いて、リューナも登山を再開する。背中が重いが、それ以上の文句を言う気にはならなかった。


 リューナだけでなく、トルテも大きな荷物を背負っている。荷は、今回の冒険の為に特別に選りすぐられた魔法の品や王宮お抱えの発明家による便利な品々がほとんどであり、通常の冒険者たちが持ち運ぶ重量よりは遥かに軽いものであったが、それでも長旅ゆえにかなりのかさになっていた。


 前を進むトルテの小さな背は荷の向こうに隠され、全体がひょこひょこと危なっかしげに左右に揺れている。本人はこの上もなく真剣に足もとを確かめつつ、慎重神妙に歩を運んでいるのであろうが。だがもし崖下へ滑落するようなことがあっても、ここにいる全員が意識を失わない限り大丈夫なのはリューナにもわかっている。


 なんといっても、ここにつどっているのは『魔導士』たちなのだから。


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