従僕の錫杖 8-54 願いから続くその先に
血が
ドズンッ!!
化け物が放った衝撃の塊に床が
衝撃に痛む頭を振って意識をはっきりさせ、クルーガーはすぐに立ち上がった。利き腕である右の二の腕をやられ、ぬるりとしたものがとめどなく流れ落ちる。
化け物もまた片足から血を流し、憤怒の表情で目の前の人間を見つめていた。
「――憎いか、俺が。何度もおまえの目的の
だが、とクルーガーは言葉を続ける。
「何度でも阻んでやるさ。俺は王国の
クルーガーは剣を振りかぶった。唇から気合いを迸らせながら、一気に振り下ろす。
魔法剣にまとわりついていた氷属性の魔法効果が解き放たれ、衝撃とともに凍てつく旋風の刃となり、ガリガリと床を引っ掻きながら高速で化け物に迫る。
ドズゥンッ!!
まばゆい光が爆発した。空間を揺るがせた衝撃とともに、ひとの形によく似た化け物の巨躯が背後の塔に突き当たる。一瞬にして巨体を氷と化し、ごきりべこりとその剛毛が覆う胸板の筋と骨を砕き陥没させた。赤黒いものが流れ、華のごとく咲き開く――。
魔法ではない。剣術ではない。それは、あのターミルラ公国の港でクルーガーが放った『
痛む右腕に、クルーガーはひと呼吸だけ苦しげな息をついた。だが、背筋を伸ばし真っ直ぐに立つ。祈るように手の指を組み、彼を見守る少女の前では、絶対に弱音を吐くわけにいかぬと思いながら。
剣の柄が血で滑り、右腕に力を込めて左手を添え、すぐにしっかりと握りなおす。
強がるクルーガーのことを少女はお見通しなのかもしれない。それでもその瞳の前では強くありたいと思う自分の願いにも似た気持ちに、クルーガーは唇をそっと笑わせた。
「護る、と言った――果たさねばならない。俺が俺自身に、そして愛する者に誓ったのだから」
クルーガーは手のなかの魔法剣に向け、ひと続きの
グッと口元を引き結び、クルーガーが力いっぱいに床を蹴る。
「てゃあぁぁぁぁぁああッ!!」
クルーガーは紅く輝く魔法剣とともに跳躍した。
自分に剣術を仕込んでくれた騎士隊長も、一目置いてくれるほどの突き技であった。
柄もとまで埋めた剣を、クルーガーが
ぐあぁぁぁおぉぉぉぉぉ……!
化け物は腕を伸ばした。目の前に立つ、ふたつの血に濡れた魔法剣を携えた青年の体を、掴もうとして。
クルーガーは動かなかった。静かな青い瞳を向け、化け物となってもなお変わらなかった
あと少しで青年に届きそうであった腕が、ふいに力を失い床に落ちた。瞳孔が開き、ここではない世界を映して
「
クルーガーはつぶやき、剣をびゅんと振った。血が飛び散り、払われる。魔法剣の刀身は曇ることなく汚れることなく、青年の腰にある鞘に収められた。
くるりと身を
身をかがめ、その首に抱きついてきたマイナの体を抱きしめながら、クルーガーは自分の体の傷が癒されていくのを感じた。少女の魔導の力による癒しが生じる傷の温かさに、クルーガーがホッと息をつく。
「ありがとう、マイナ」
「……こちらこそ、クルーガー」
青年の背に流されていた金髪と、少女のふたつに結い上げられた黒髪が、さらりと静かに合わさった。
化け物が
「――そう、その位置、すぐ下に」
魔導の気配を感じるがまま、ルシカが位置を探り出し、指示を出す。テロンが応え、仲間たちとともに瓦礫を取り除けていくと、やがて腕が、体が見えた。
「な……何故」
助け出されたカールウェイネスは、弱々しげな声で目の前の魔導士に問うた。肩と胸、そして耳からはおびただしい血が流れ、ひゅうひゅうと抜けるような呼吸を繰り返している。ほとんど虫の息であった。
「……あなたは
瓦礫にもたれかかるようにうずくまったカールウェイネスに、ルシカは静かな眼差しで言葉を続けた。
「どんな理由があれ、あなたのしたこと、あたしは許せない。生命は大切なもの、尊いもの……どれひとつとして
ルシカは語りながら目を伏せ、そっと自分の下腹に手をあてがった。そして顎をあげ、しっかりした口調で言った。
「それが、あなたの命であってもです。ここで死ぬことをあたしは許しません」
『万色』の魔導士は、死へと近づきつつあった男に歩み寄った。腕を掲げて空中に滑らせるように動かし、魔導特有の青と緑の光が魔法陣を結び、男の傷を塞いだ。
大いなる魔導の力で流れていた血が止まり、赤黒い内出血のいろが消え失せ、男は激しく戸惑って顔をあげた。
「おまえはまず、自国の民を救わねばならない」
ルシカの傍に立ち、テロンが告げる。
「どんなに責めても悔やんでも、踏みつけ踏みにじってきたものたちは決して戻らない。だからいま
「――自身で選ぶ死は逃避、生きるは戦いだ」
割って入った声に振り向くと、マイナとともにクルーガーが戻ってきていた。傷は癒えているが全身を自身の血と浴びた返り血とに汚され、それでもなお決然と背筋を伸ばし青い瞳をしっかりと開いた、堂々たる
「ひとは生まれる場所を選べない。けれど、その場所から逃げるな。為さねばならぬことを為し遂げよ。それもひっくるめて自分自身なのだから」
その言葉は、クルーガーが彼自身に向けたものでもあった。ただ公務を日々こなしていくだけが王ではない。その気持ちを察したのか、傍らのマイナがそっと手を伸ばし、彼の上着の端を掴んだ。視線を向けられると、少女は静かに
「逃げるな、為し遂げよ、か……」
カールウェイネスはつぶやくように言い、微笑んだ。自嘲的な
「わかった。約束する、これからの生きる時間を、
「そうこなくてはな」
クルーガーとテロンは微笑んだ。マイナが安心したように両手を胸の上に置き、周囲の仲間たちもホッと息をつく。ルシカも緊張させていた手足から力を抜いたが、まだ倒れるわけにはゆかず、背筋を伸ばしたまま踏み止まっていた。
なぜなら――。
「……それで終わったと思うなよ、
聞き取りにくい
クルーガーたちが声のした方向に視線を向けると、
だが、その黄金色の瞳だけは今にも吹きこぼれそうな高熱の油のように、ギラギラと強い光を湛えているのであった。
ルシカは顔を回し、その太陽のような瞳をあげ、どこまでも静かな表情をゆっくりとロレイアルバーサに向けた。
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