私的アンソロジー「恋人達の透視図」
阿井上夫
ライトハウス
銚子電鉄に乗って犬吠崎の灯台に着いたときには、十三時を少し回っていた。
春先の一日。私は断崖の突端に立つと、ポケットから煙草を取り出し、強い風の中で苦労しながら火をつけた。
煙が斜め横に過ぎ去ってゆく。
「煙草、やめるんじゃなかったの」
と、特段なじる風でもなくAは言った。
「そんなこと言ったっけ」
「言ったわよ、このあいだ」
「ふーん、そう」
私は別に罪悪感を抱くでもなく、赤い火が点るほどに強く煙草を吸った。
「夜じゃなくてよかったわね」
「え、どうして」
「だって邪魔じゃない」
そう言ってAは灯台を見上げる。
「そんなに明るいわけないだろ」
「そうかしら」
Aはつまらなそうに足元の石を蹴った。
ついこの間切ったばかりの、短い髪が風に踊っている。
初めて見たときに「長いほうが似合っている」と言ったら、「それは男性のエゴよ」と怒られたことを思い出した。長い髪の女に神性を見るのは男の身勝手ということらしい。
「どうしてこんなところまでこようって言い出したの?」
「うーん、大した理由はないんだけど」
「けど、何よ」
「やってみたかったんだよね、これ」
「何で?」
私は煙草を携帯していた小型灰皿で揉み消しながら、ぽつりと言った。
「松田聖子……かな」
途端にAは笑い出した。
「赤いスイトピーね」
「そう」
ひとしきり二人で笑う。その後、ふと目があった。
「歌ってくれない?」
「こんなところで?」
「そう」
「周りに人がいっぱいいるじゃない」
「大丈夫、君は歌がうまいから」
「そういう問題じゃないでしょ」
「いいから」
Aは怒ったように目を閉じると、すうっと息を吸った。
「馬鹿ね」
そして、そのまま歌い始めた。
声が潮の香りと一緒に、海風に流されてゆく。
私は心地よい響きを耳朶に感じながら、沖のほうで揺らめく波の光を眺めていた。
*
帰り道の途中で、ぽつりとAが言った。
「素直に言えばいいのに」
「え、何のこと」
「全く、救いようがないわね」
と言いながら、Aは私の手を強く握って、前を歩き出した。
耳が赤くなっているのが見える。
しばらく黙って早足で歩いていると、そのうちにAの歩幅が元に戻った。
「煙草、やめてもいいのよ」
「急にどうしたのさ」
静かな足取りで、そして静かな声でAは言った。
「そんな明かりがなくても、私は迷わないから」
( 終わり )
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