散り菊
永本雅
咎ー忘却
特段親しいわけでも何か名前のある特別な関係であった訳でもない。ただ、物理学者の言うところの慣性のようなものが作用していたに過ぎないわけである。例えばそれは夜寝る前の心持ちによく似ているのだ。
ならば、何を以て自分と彼女の関係を、今この瞬間が存在したということを、その他自分と彼女についてのあらゆるものをどうやって定義すれば良いのだろう。その全てが私の哀しき夢であることをどうして否定しようか。こうして自分が傍から見ればなんてことの無い問いについて一人考えている間にも目の前を楽しそうに歩く彼女は本当にいるのであろうか。じゅくじゅくになって狂った私の頭が幻想を見せているのではなかろうか。綺麗に結われた茶の混じった黒髪が、硝子細工のごとき指が、金平糖のように甘い声が、それらが自分の好みであることが自分の今を作っているのであった。
「……さんは、花火お好きですか」
ああ、この声なのである。
この声が全てなのである。
自分が今日のために考えてきたことやこの後どうしようかなどということの一切が頭から溶け堕ちていき言葉にならぬ気持ちに溺れるようになるのである。アルギン酸ナトリウムと塩化カルシウムに覆われた水を口に詰められてそれを咀嚼したときの気持ちである。
心臓が早鐘を打っているのを知られぬように自分は口を開くと「ええ、人並みには」とだけ答えて目の端で彼女の艶やかな浴衣姿に見惚れていた。
自分は背中に何かが触れるのを感じた。
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