がらりと変わって消えていくもの。少しずつぬり足されていくもの。

 衝動的しょうどうてきに買ってしまった。

 2020年の秋に。

 職場の帰り道ぞいにあるドラッグストアで。

 ……女の自分がるつもりもない、メンズリップクリームを。


(まさか男の人にリップを塗りたいなんて思う日が来るとは……)


 と、彼女は使い捨て白マスクの下でぐっと唇を噛む。

 今の彼女はO江戸線の地下鉄の乗客も少ない座席に座って、

 仕事用の資料や夜勤お泊まりセットなどが大量に入った大きなバッグをぎゅっと抱きしめているところだった。

 夜勤明けのせいだろうか、髪も肌もボロボロだ。

 そんなボロボロ状態にある彼女は今、彼に連絡を入れて、彼の家に向かっている最中なのだった。


(夜勤明けで変なテンションになっているとはいえ、勢いに任せて変なものを買ってしまったかも……)


 暑くもなければ寒くもない冷房の切れた秋の車内で、彼女はしきりに自分の買ってしまった『メンズリップ』について考え事をしている。

 感染症対策の関係で、電車の窓という窓はこの春から開け放されていた。

 窓が開いているせいで、地下鉄特有のごうごうという風を切る走行音がかなり大きく響いている。

 ……が、そんなものにも彼女はもうすっかり慣れた。

 世の中はいつも予測不能な方向に変化し続けているし、多くの人々はそれに戸惑いながらもいつのまにか新しい世界に慣れていってしまっている。

 ──あまりに大きすぎる変化に翻弄ほんろうされて、力尽きて立ち止まってしまった人たちを置きざりにしながら。


 さて、そんな不安で不穏ふおんな情勢下の昨今さっこん

 彼女はといえば、非常事態のあれそれで手取りを大きく減らしつつも、何とか暮らすことだけは出来ている状態なのだった。

 メンズリップは高かった。お財布が結構痛んだ。なにしろ990円もしたのだから……。


(こんなの買って、蒔田さんにドン引きされないといいなあ。

 いや、でも今回はまだマシなハズ……。

 ちょっと前には男の人用の服一式、夜勤明けのテンションで買ってプレゼントしたら驚かれたんだし……)


 彼女の心の中で「やりすぎたかも」という気持ちと「いや、前に買ったものよりはまだマシ」という考えが戦っている。

 ──ちなみに先日の彼女は、夜勤明けに某大人気餃子屋チェーン店とアパレルブランドがコラボしているロンTやらイージーパンツやらを見てしまい、


(──なんか似合う気がする!)


 ……というインスピレーションに突き動かされ、思わず買ってしまったのだった。


(……アレをおくった時の蒔田さん、めちゃめちゃ微妙な顔をしてたな……)


 彼が微妙な顔をしたのも当然のことだった。

 彼が好きなのはあくまで各種飲食系チェーン店の無料のオマケである。

 一面に目玉のついた餃子がプリントされた有料の服のことは好きではない。

 普段の彼の服装にしたって、


「安価で買える適当な服を組み合わせただけで、小生しょうせい服に何のこだわりもないです。モブです。むしろモブになりたいんです」


 という思想こだわりが目で見てわかる感じなのだ。

 そんな彼が、目玉餃子服を貰っても喜ぶワケがない。


 ……ある日突然家を破壊するレベルの突風に襲われて、貴重なお洋服が全部バリバリにけて、乳首が出てこまっている……とかなら話はまた別だろうが……。




(ケアをするときは相手の個性や生活リズムよく考えて方法や内容を選ばなきゃ……って、いつも考えてるのになあ……)


 彼女はため息をついた。

 仕事ではいつも気を付けているのに、夜勤明けの買い物タイムには変なテンションを押さえきれず妙な暴走をしてしまう……。

 看護師の彼女が常々反省している(そして、反省はしているが多分絶対になおせない悪癖である)ことだった。


(餃子服事件の二の舞になりませんように……)


 と、頭の中で両手を合わせて神様に祈りつつ、彼女はカバンの中をゴソゴソとさぐる。

 そして、ドラッグストア名がプリントされた紙袋からくだんの商品を取り出してみた。

 パッケージもリップ本体も灰色だ。

 少しだけラメが入っているように見えるそれを、彼女はまじまじと見つめる。


(……メンズリップ、かあ)


 ──家の中でデスクワークばかりしている彼氏の顔色が、普段から悪い気がするだとか、自宅デートでキスするたびに唇がガッサガサになっているのが分かるからだとか、色々と言い訳は思いつく。

 ……しかし結局のところ、自分がただ彼の唇に何か塗る口実が欲しいだけだという本音は、彼女自身も自覚していた。


(血色アップ成分と、潤いアップ成分と、縦ジワ補正成分などが仕事をして、男性の唇を自然にいい感じに見せてくれる……らしい、って店頭のポップに書いてあったな)


 ……そんな「らしい」で埋め尽くされた曖昧あいまいなものを買ってしまった。

 990円もするものを。

 約1000円もするものを。

 感染症騒ぎのなんやかんやで月々のお手当が減っているというのに……。


(……高かったけど、もし蒔田さんが嫌そうにしていたら押し付けないようにしなきゃなあ。

 気遣ったつもりの行動で凄く悲しませちゃうなんてこと、もう嫌だし……)


 と、彼女は目を伏せ、半年ほど前にあったことを思い出す。

 ──感染症がらみのあれやそれやで看護師という仕事のリスクが激増したことを理由に、彼女が彼に恋人状態の解消を切り出したことがあったのだ。

 その時の彼はもの凄い剣幕で怒り、「なんでそんな方向に思い詰めるんだ!」と、彼女の申し出を切り捨てたのだった。

 恋人としては引き留めて貰えて嬉しいような、それでも万が一自分が感染して、恋人にも感染させてしまったらと思うと恐ろしいような……そんな複雑な気持ちだった。


(……いつも『リスク』を恐れるあの人のことだもの。

 あの時はてっきり「分かった。仕方ないな」って答えると思っていたのに……)


 その予測は完全に外れてしまったのだった。

 彼と彼女はまったく別個の人間で、気遣うポイントもこだわるポイントも違う。

 当時の彼女は『万が一にも彼を感染リスクにさらしたくない』ということで頭が一杯で、まさかあんなに彼に悲しまれるとは思わなかったのだが……。


 ……なんてことを考えているうちに、電車のアナウンスが東S宿に到着したことを告げる。

 彼女はロングスカートをひらりと揺らして立ち上がり、迷うようなそぶりを見せた。そして、少しためらうような足取りでゆっくりと電車を降りるのだった。




 ☆




(キレーな秋の空だなあ……青くて雲一つないや……)


 明治通り沿いにある東S宿駅の出口で、彼女はぽかんと空を見上げて立ち尽くす。

 彼に連絡を入れたところ、どうやらリモートワーク中の息抜きの散歩に出ているようで、外で待ち合わせようという話になった。


(ニュースでは散々S宿が変わった変わったって聞くけど、こうしてみると普段と何も変わらないや)


 人はちょっと減ったかもしれないけれど……と、彼女は考える。


 ──2020年のS宿といえば、

 西S宿の都庁とは別にデジタル空間の『バーチャル都庁』を稼働させようという企画が持ち上がり、

 K舞伎町のビルに入っているテナントはゴッソリ減って、

 西武S宿駅の正面にある巨大電気屋やS宿西口の食堂街も閉鎖して、

 KOデパートレストラン街の伝説のパスタ屋も閉店……。

 そんなこんなの色々があって、都市としての魅力が薄れつつあるとされている時期だった。


 ションボリしたニュースにことかかなくなっている街なのだから、さぞかし周辺環境も悪化していることだろう……。

 と、区外在住の人たちからは思われがちだ。


 しかし、都市部ド真ん中のボロマンションに住んでいる蒔田いわく、


「治安はそんなに変わらないし、前から人気だった近所のラーメン屋には相変わらず行列が出来ているぞ」


 ……とのことだった。


 S宿は元々ホストや某おっかない自由業の方しか住んでいない怖いマンションもある区なのは事実だが、それ以上にこの一帯のエリアは昔から住んでいる地元民や小さな商店も多い。

 人攫ひとさらいや無差別に人を殺傷する無敵の人がゴロゴロいて、


「K舞伎町に行くなら時計を付けた腕ごと、指輪を付けた指ごと持って行かれる覚悟で行け」


 なんていわれていた戦後のS宿に比べれば、今なんてまだまだ平和なものだ……そんなことを言いながら、いつも通りの生活を続けている人も多い街であるのも事実なのだった。


 そんな話を蒔田としたことを思い出しながら、彼女が散歩中らしき人の行きかう明治通りをぼんやりと眺めながら待っていると……ほどなくして彼は現れた。


「蒔田さん!」


 と、彼女はいつものように彼の名前を呼び、ぱっと顔をほころばせる。

 彼のもとに駆け寄ろうとして……すぐに立ちどまり、目を見開いた。


(ぎ、餃子服……!?)


 ──大きな買い物袋をひっさげた彼は、なんと目玉のついた餃子が大きくプリントされた白いロングTシャツと、同じ餃子の小さいバージョンが一面にプリントされたにぶい金色のイージーパンツという格好をしていたのだ。


「……それ、着てくれたんですね……」


 と、彼女は内心の動揺を隠しながらつぶやいた。

 餃子服を着てくれていた彼にもビックリしたし、そんな彼を「カッコいい」とおもってしまった自分にもビックリだった。

 彼は「まあな」と軽くうなずきながら、彼女の前に立つ。

 マスクで顔の大部分が隠れている彼は、普段のモブAっぽさが嘘のようにこじゃれたニーチャンになっていた。


(めちゃくちゃハマってる……まさかこんなに餃子模様の服が似合う人がいたなんて……!)


 ファッションオタクとしての彼女のインススピレーションがえ渡っていたとしか思えない。

 一見奇抜いっけんきばつに見える服装は、しかし第一線のアパレルブランドが手掛けているということもあって、さほど悪目立ちしていなかった。


「その、それ、普段の蒔田さんの趣味と全然違うし、模様が模様だから外できづらいだろうなって思ってたんですけど……」

「ああ。最初はウッと思ったんだが、着てみたら意外と似合うような気がしてきたので散歩のときに着ているんだ。

 似合っていると思える服を着るのは楽しいし……なにより折角君せっかくきみからもらったものでもあるからな」


 と、彼は目元をほころばせて応える。

 マスクをつけているので表情が乏しく見えるが、声がとても優しい。

 彼女は暖かい気持ちでいっぱいになった。

 本音を言えばすぐにマスクを外して彼にキスしたいくらいの気持ちだったが、外出先で気軽にそんなことが出来る時代ではない……と彼女はすぐに思いとどまる。

 ──時代が変わってしまった。

 いつ元に戻るのか、そもそも二度と元の時代に戻ることはないのかも分からない。


「あーあ……彼氏にときめいてもすぐに抱き付いたりできないなんて、本当に辛い時代ですね。

 本当は今すぐマスクイして蒔田さんにキスしたいくらいなのに」


 と、彼女は暗くなった自分の気持ちをさとられないように軽くおどける。

 彼女の様子に気付かない彼はふしぎそうに首をかしげながら、


「ますく……い? 一体なんだそれは」

「最近聞くようになった言葉ですよ。

 相手のマスクを外して、あごをクイっと上げてキスするまでの一連の流れをそう呼ぶんですって」

「なるほど、ちょっと前に流行った壁ドンとか顎クイみたいなもんか」

「じゃないですか?

 ほら、今って外でマスクを外すだけで罪悪感があったりするじゃないですか。

 そういう『悪いことをしている・されている』って背徳感もあいまって、かなり燃えるらしいですよー、マスクイからのキスって」

「……燃える理屈は分からんでもないが、俺みたいなビビリ症にはハードルが高すぎるやつだな」


 と、彼は苦笑交じりにため息をついた。


「感染症にもビビってるし、リモートワークと家デート縛り生活ですっかり引きこもり生活にも慣れてしまったよ。都内は感染者が出まくっているし、特に新宿なんか感染者数が桁違いだろ?

 今じゃ人混みの中に出るのも勇気がいるようになってしまった」

「その気持ち、分かります」

「だろ?

 俺が日課にしている散歩にしたって、このだだっぴろい明治通りを池袋まで歩いて行って帰ってくるだけだしな」

「……さかり場にはかすりもしないコースですね……そんなにいっぱい歩きまくって、一体何がしたいんです?」

「もちろん、健康のために歩いているんだ」

「なるほど」

「でも途中にハンバーガー屋があるからつい帰りに買ってしまうんだ」

「健康のための行動が台無しじゃないですか」


 なんて、とりとめもない話をしていると、彼がごくごく自然な動作で彼女の手を取ろうとして……やめた。


「……確かに、君の言う通りだな。つらい時代になった」


 と、彼は少しさみしげに笑うと、もう片方の手にげていた買い物袋を軽くかかげて見せながら、


「さあ。こんなところでいつまでも突っ立っているのもなんだし、寄り道せずにもう帰ろう。

 家の中でなら手だってつなげるし、マスクイとかいうのだってやり放題だろ?

 君が夜勤明けだって言うから、適当に食べるものも買っておいたからな」

「……あ。買っておいてくれたの、助かります。もうつかれてへとへとなので……」

「だと思った。君が普段買いそうな弁当を選んでおいたから、家で適当な時に食べよう」


 なんて話をしながら、人の気配もまばらな明治通りを二人で歩く。


 人が減って、見慣れた店も減った街。

 餃子模様の服を着て新宿から池袋までり歩くようになった彼。

 外出先では彼も彼女もマスクをしているのが当たり前になり、恋人と手をつなぐこともままならなくなった時代……。


(人も街も、変わらないものはなにひとつないんだな……)


 なんて、ありきたりの感想を彼女は抱く。

 そんなことを考えながら、彼女はふと隣を歩く彼の顔を見た。


 ──マスクで顔の大部分が隠れているが、なんとなく今の彼の顔色はそんなに悪くないんじゃないかという気がしていた。

 散歩をかなりしているというし、今の彼は前よりも少し歩く速度が上がっているように見える。体力がついたのだろう。


(もし蒔田さんの顔色が良くなっていたら、そうしたらリップクリームなんて必要ないって言われそうだな。

 ……いや、案外言い訳なんて作らなくても塗らせてくれるかも。

 でも、もし蒔田さんが嫌そうにしていたら、無理に使わないように気をつけなきゃ)


 なんて細々(こまごま)としたことを考えながら、彼女はロングスカートを揺らして明治通りを歩く。電車を降りた時とは違って、迷うことのない足取りだった。

 どんなに時代や常識が変わったとしても、もう彼女は彼から離れる気は全くないのだ。


 ……さて。


 四階建てエレベーター無しマンションのながいながい階段をのぼり、家に引っ込んだ彼女と彼が、感染症対策のために真っ先にシャワーを浴びたりなどした後。


 外で何もできなかった分を埋め合わせようとした彼に押し倒された彼女が、ごくごく恋人らしい理由で彼の唇がガッサガサなことに気付き、意気揚々とカバンからメンズリップクリームを取り出してバーンと印籠いんろうのように披露ひろうして、彼に苦笑まじりにOKされることになるのは……それはまた、別のお話なのだった。


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