こんなこと、機械には出来ないでしょう? 1


 看護師の彼女が病棟の廊下でようやくポケットにくくり付けた腕時計に目をやった時、時刻は00:10になっていた。


(あーあ。病棟で年越しちゃった……)


 場所はS宿。時刻は深夜。夜景の見える静かな病棟びょうとう


(カウントダウンしそびれちゃった……仕事中だから仕方ないか)


 そんなことを思いながら、彼女は看護用回診車をカラカラと押して、病棟の廊下ろうかを歩く。


 ──夜勤帯やきんたいの看護師には、たまたま平和な日の勤務だったとしてもボウッとできる時間などない。


 病棟入りした後の情報収集と日勤ナースとの申し送りののち、補液交換や吸引、与薬よやくの合間に、十数分の食事休憩しょくじきゅうけいを交代でとり、その後も目の回るような量の仕事をこなしていたら、日付が変わってしまっていることなどしょっちゅうだ。


 彼女が時計から顔を上げれば、ナースステーション前の大窓おおまどから副都心の夜景をみることが出来た。


(綺麗だなあ)


 何度見ても見飽きることがない美しさだ。

 世の中にあるものはなにごとも経験すればじきに慣れて飽きて色あせるものばかり思っていたが、案外そうでもないらしい。

 夜景にも、命を預かる責任にも、彼女はいまだに慣れることがない。

 急性期病院きゅうせいきびょういんということもあり、急変や患者さんの不穏ふおんが起きれば夜でも騒々しいのが彼女の勤める病棟だ。

 この時間は現場にいるスタッフが少ないこともあって、新人の彼女は常に張り詰めた気持ちでいる。


 ……それでも、今日は平和な夜だった。

 大きな急変や不穏もなく、日中はポーン、ポーンと鳴っているテレメータの音も、今は患者さんの安眠の為に最小限のものに切り替えられている。


(年末年始で患者さんの数自体少ないからかな……。

 このまま穏やかな感じで終わってくれるといいけれど)


 と、そんなことを考えながら彼女が回診車を押しながら歩いていると、そんな彼女のそばを通りがかった同僚が、自分の回診車を押しながらそばに近づいてきた。


「──笹野原大丈夫? 今日最初の休憩じゃなかった?」

「え? ……あ。忘れてた。休憩10分減っちゃったー」


 と、よく気の付く同僚に指摘され、彼女は思わず苦笑する。そしてナースステーションの中にカートを停めて手を洗い、仮眠室へのかぎを取った。


(うー、少し頭が痛いな……早く髪をほどいてホッとしたい……)


 まとめ髪のお団子だんご頭を作る時に、髪を強く引っ張りすぎてしまったせいかもしれない。

 小さな不調を感じつつも彼女は決してそれを表情には出さず、ステーションの中にいた夜勤リーダーに軽く引継ぎをして、休憩室で自分のバッグを取り、病棟を出たバックヤードにある真っ白な仮眠室に入った。


(……狭い……)


 何度見ても同じ感想をいだいてしまう。

 寝るためだけに作られた仮眠室は、当たり前だがとても狭い。

 まどとベッドとロッカーが一つずつある部屋は、ベッドだけで大部分が埋まってしまっている。

 あまりの狭さに息苦しさをおぼえた彼女は部屋のカーテンをなんとなく開けて、め殺しの窓から見える夜景をぼうっと眺めた。

 電気のスイッチをパチンと消せば、病棟と同じように鮮明な夜景が浮かび上がる。

 従業員用ということもあって、こちらの窓はかなり小さいが。


(新年なのに社畜の証が光ってる……どこもかしこもお疲れ様だな……)


 そんなことを考えながら、お団子にまとめていた髪をほどく。

 スマホをカバンから出して、電源を入れてベッドの上に投げた。

 なんとなく、すぐに眠る気分にはなれなかったからだ。


(全然眠くないや……まだ12時だものね)


 ──16時間勤務の看護師の場合、夜勤帯の休憩はだいたい24時から2時、2時から4時、4時から6時までの6時間の間に交代でとる事が多い。


 朝の6時以降は経管栄養・注入準備および実施、採血、バイタルチェックなどなどのタイムリミット付きの業務が一気に始まるため、交代であっても休憩をとる余裕がなくなってしまうからだ。


 しかし、夕方ごろから全力で働いていた人間がいきなり24時きっかりに眠ることができるかというと、それはやはり難しいのが現実だ。

 就業前に仮眠をとっているものも多い中、労働開始から8時間経った程度では、疲労こそあるがまだ大して眠くない人間が大部分である。

 そんな理由もあって、一般的に24時から2時の間に休憩をとる看護師は、眠らずに過ごす者も多かった。

 もちろん、夜勤に慣れてすぐに眠ることができる看護師もいる。

 しかし彼女は、笹野原はそうではなかった。

 働き始めたばかりの彼女には、まだ慣れていないことがいくつもある。

 勤務中に眠ることにも、命を預かるプレッシャーにも、夜景の美しさにも慣れていない。

 だから、眠れない日の夜勤帯の彼女は、こうしてベッドに横になりながら窓の外の夜景を眺めるのが日課だった。


 虹色のネオンサインに、ずらりと並ぶ大量のオフィスビルの窓明まどあかり。

 高層ビルには必ず設置するよう義務付けられている、低光度ていこうど赤色せきしょく航空障害灯こうくうしょうがいとうも沢山見えた。

 いつ見ても非現実的なくらい綺麗で、まるで異世界のような光景。


(夜景といえば……ナイトプール結局行けなかったな……。

「デートしに行こう」って夏に約束したのに、いつのまにか冬になっちゃった)


 某夜景を楽しむSNS映えスポットのことをつらつらと考えているうちに、彼女はふと自宅で年を越しているであろう恋人のことを思い出す。


(……そうだ。蒔田さん、今ならまだ起きているかも)


 彼女はそう考えて、あたたかい布団の中にしっかりともぐり込んだかと思うと、ベッドの上に投げていたスマホをたぐりよせた。




 ★




 一方そのころ、東S宿の古マンション四階に住んでいる彼女の恋人は、特にすることもないのでぼんやりとPCで無害な動画を見ていた。

 ゲーム開発者の彼は、年末年始は休みである。

 今日は仕事ではなくただ単に意味もなく夜更かしをしていた。

 新宿のきらびやかすぎる夜景は、大量の社畜と彼のような無駄に夜更かしをする夜型人間たちが作っている。

 一人暮らしの人間であれば年末年始には帰省する者も多い。

 だが、彼は泊りがけの帰省をする気分でもなかったので、親の家には年が明けたら顔を出そうかと思っていたのだった。


「……ん?」


 彼は目をまばたいた。机の上のスマホが震えだしたからだ。不思議そうな顔でそれを手にとって画面を見ると、そこには恋人の名前が表示されていた。


(……今日は夜勤なんじゃなかったのか?)


 彼は不思議そうに首をかしげながらも通話ボタンをタップする。

 スマホの画面は真っ暗だが、弾んだ声が聞こえてきた。


「あけましておめでとうございます。……電話、かけちゃいました。蒔田さんの声が聞きたくて」


 いつも通りの彼女の声に、彼は安心するのと同時に笑ってしまう。


「本当にかけちゃったのか……あけましておめでとう。

 そっちの休憩室は暗いのか? 画面が真っ暗だぞ」


 と、彼が言うと、そうなんです、と彼女が笑う。


「ここ、病棟の仮眠室なんです。

 あ、あんまり騒ぎすぎると外に音が漏れちゃうかもしれないから、ヒソヒソ声でしゃべってもらえると嬉しいです。寝る前に顔が見たかっただけだから」

「わかった。今の時間は……一時ちょっと前か。まさか本当に電話してくるとはなあ」

「だって、本当に浮気してるかもなんて思われたら悲しいもの」


 スマホの画面は真っ暗なのに、彼女がほほふくらませている姿が見えた気がして、彼はますます苦笑を深める。そして、


「あの時は済まないことをしたな」


 と、12月のデート中にあった会話を思い出した。


 ──独身の新人看護師には、思い通りの休日を選ぶ権利はあまりない。

 何でもない平日であればそれなりに選択肢があるが、祝日や土日は家族持ちの職員の希望が優先されることが多いからだ。

 新人ナースとして過酷な1年目を何とか乗り越えつつある彼女にとって、それはごく当然の常識だった。

 だから、彼女が12月半ばのデート中に「クリスマスもお正月も夜勤なんです」と伝えたら、彼がなんとも複雑そうな顔をして「……そうか」とだけ答えた時、彼女にはその理由がわからなかった。


「なんですか? そうか、って」

「いや、君に限ってそれは無いのは分かっているんだが……夜勤を言い訳に不自然なまでに祝日がらみのデートの約束をすべて断られて、変だと思っていたら水面下で浮気をされていた大学時代の知人の話を思い出してしまい……」

「なんですかそれ。

 私は浮気じゃないですよ、本当にただの夜勤です。

 イベント系の休日が全然取れないのだって、普通の新人あるあるですよ? 新人看護師には人権が無いんです!」

「大丈夫大丈夫、君が忙しいって話はいつも君から聞いているから知ってるよ。会いたくても会えないのは仕方ない。

 ただふっと会話の流れで思い出しただけで、まあ可能性はゼロではないよなあと」

「ちょっと疑っちゃってるんじゃないですか!

 うーん、でも仕事中だって証明をするのは難しいんですよね……。

 あ、そうだ。夜勤のお休み中に、ちょっと通話するっていうのはどうでしょうか? 深夜の休憩室からなら通話できますよ」

「いや、いいよ。仕事中だろ?」

「休憩時間ですってば。通話しちゃいます。もう決めました!

 ドタバタして休憩時間がなくなっちゃったら無理だけど、楽しみにしていてくださいね」


 ……と、そんなやりとりが過去にあって、そして本当に電話してしまったのが元旦の今という時だった。

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