第弐拾弐節

まだ日が高い。


昨日からの疲れと睡眠不足のせいか、体が重たい。


家には戻れぬとしたら、俺の行く先は一つしかなかった。


いつも賑わいの絶えない万屋の裏門へ回り、俺はそこから中に入る。


勝手知ったる万屋だ。


いつもの自分の部屋に入ると、そこに横になった。


どれくらい眠っていたのだろう、コトコトという物音に気づいて目を覚ますと、丁稚が膳の用意を終えて出て行くところだった。


萬平が入れ替わりに入ってくる。


「ちょうどお話があったので、ようございました」


出された膳に、萬平は箸をつける。


「月星丸の件はもう終わったぞ」


椀の汁をすする。


萬平は笑った。


「そんなことではありませんよ、新しいお仕事の依頼です」


「月星丸のところへはいかぬ!」


萬平はきょとんとした顔で見上げた。


俺は箸で魚の身をイライラとほぐす。


「おやまぁ、何をおっしゃっているのやら。そんなことではございませんよ。いつもの用心棒の仕事です。男の家に入り込んだまま帰ってこない娘を連れ戻すのに、同席してほしいという依頼です。座っているだけでよいお仕事でございましょう?」


特段腹が減っているわけでもないのに、俺の箸を口に運ぶ速度が速い。


「月星丸さまに関する件は、おかげさまで片がつきました。今夜はその慰労のつもりでございましてね」


突然、萬平は笑い出した。


「そりゃあもう破格のお礼をいただきましたよ。後で帳簿をご覧になってみて下さい。しばらくは笠どころか、裏家業もしなくてよろしいかもしれませんよ。大体お侍という方々は、モノの相場というものに興味がございません。この間など、店に来られた……」


萬平は、侍相手の商売がどれほど儲かるかという話しを、延々と続けている。


今回の件でどれほどの大金をつかんだかは知らぬが、やはり依頼主が誰だか知っているのは、萬平だけだ。


「そなたは月星丸が家斉公の娘と知っておったのか」


「最初の依頼はそうではありませんでしたよ」


始まりは、葉山の訪問からだった。


「身元を明かさぬ依頼など、珍しくはありません。お礼さえいただければ、人助けは当然でございましょう」


だがその直後に、別からの同じ依頼が入った。


「先日お目にかかった藤ノ木さま。あの方こそ、以前うちの長屋にお住まいであった方でございます」


その藤ノ木から、姿を消した姪を探してほしいとの依頼だった。


「その方こそ、月星丸さまでございました」


葉山の依頼はあくまで人探し。


探し終え、身を引き渡せばそれでお終いだった。


「しかし、藤ノ木さまからの依頼は、お連れしろとのことでございました。それで私は一計を案じたのです」


葉山とその一行から逃れた月星丸が、あの夜、藤ノ木の店から出てきた萬平と出会ったのは、本当に偶然だったという。


「月星丸さまは、私の顔を見てとっさに逃げようとなさいました。しかし、お待ちなさいと声をかけた私を、振り返ったのでございます」


萬平は、懐から白い小さな匂い袋を取りだした。


「この藤ノ木さまの調合なさった特別なお香。この香りに、月星丸さまが気づかれたのです」


月星丸の母は、藤ノ木の妹だった。


生活のために自ら遊郭へと出向いた藤ノ木は、妹には苦労をかけまいと、金を渡し身支度を調えさせ、店子として奉公に行かせたのだという。


「そこでの働きを認められた葉月さまは、そこの家の養女となり江戸城の奥へと上がることになったのです」


しかし、そこで手がついた。


「よほどお美しい方であったのでございましょう。奥に上がって半年も経たぬうちに、目利きの者に推薦され、上様のお手がついたとのことでございました」


知り合いも友も、味方となってくれるような者の何もない中、葉月は月星丸を産んだ。


「ご本人は、男の子を望まれていたそうです。奥での立場を守りたいのなら、女子より男子を望むのは、当然でございました」


しかし、産まれたのは女だった。


「その頃の葉月さまは、出産での疲れからか、多少気の触れたようなところも、見受けられたそうにございます」


葉月は産まれてきた女の子に、あえて『月星丸』という男子の名前をつけ、男として育てた。


「奥の者たちは、それを笑って見ておりました。産まれてくる子どもが男か女かは、一番の関心ごと。葉月さまのお産みになった子が、女子であったのは誰もが存じておりました」


それでも、葉月は女に生まれた月星丸を男として育てた。


「やがて、藤ノ木さまの支援もむなしく、葉月さまは自ら命を絶たれました。月星丸さまのお世話を任されたのは、奥につとめる御目見以下の者から、問題ばかりを起こして、行き場をなくした女中たちばかり。奥に上がりお手がついても、しっかりとした後ろ盾のないものの扱いとは、そのようなものでございます」


家斉公の奥好きは有名だ。


一度手をつけられただけで放置される女中など、数え切れないという。


「そんななかで、月星丸さまは大変都合のよい打ち出の小槌でございました。一度袖を通しただけで、払い下げられる着物にかんざし、毎日のように豪華な品が届けられ、それを女中たちが気心のしれた仲間に配るようになり、あれよあれよという間に大きな力を持つようになったのでございます」


奥のなかで面倒が起きても、月星丸付きの女中に頼めばすべて片がついた。


あらゆることが『家斉公の姫のため』を口実に、好きなように動かされた。


「そうなると、それを気に入らないものが出てくるのは必然のこと。成人前の子どもで、ましてや女中あがりの格下から産まれた女子になど、気にかける者などございません。それは月星丸さま付きの女中たちにとっても、同じことでございました」


元服を迎える前までの子どもなら、いつ何時、病や怪我が原因で命を落としても、不思議はない。


「ましてや今の上さまとくれば、ご自分の子どもの数など数えておられぬお方。元服を迎えるまでが、月星丸さまの寿命と決まっていたのでございます」


姫として、ろくに教育も受けず、作法も知らぬまま、男として育てられた月星丸は、やがて自分の身に終わりが近づいたことを知る。


「藤ノ木さまは、正直あきらめておいででした。いつか奥に通じる者たちの口から、月星丸さまの訃報を聞くものと、覚悟しておいでだったのです」


ところが、その月星丸が城から抜け出した。


「それが、誰の手引きであったかは分かりません。女中の一人が面白がって手助けをしたかも知れず、単なる偶然が重なっただけのことかもしれません。ですが、月星丸さまは城を出られました。奥にいては手を出せぬことでも、外に来ればお助け出来ることもございます」


上さまの姫が城から抜け出たとなれば、その責任は簡単には免れない。


奥の女中たちは、もはや城の中で死んだことにしようかと企んだ。


「そのためには死体が必要でございました。月星丸さまが城に戻れば、それは生きていようが死んでいようが、どちらでもよろしかったのです」


生きて戻るより、死体で戻った方が扱いやすい。


「月星丸の命を狙うのは、奥の者たちか」


「えぇ、脱走を許した罪をとがめられることを避けるため、病に伏せっているとお触れを出している間に、死体で取り戻したいと考えた、月星丸さま付きの女中たちでございます」


葉山が呆れるのも分かる。


上さまの姫を見殺しにするわけにはいかないが、それが身分の低い、先のない姫となれば、どちらに転んでも意味などない。


「ですが藤ノ木さまは、月星丸さまを生きて戻すことを望まれました」


「なぜだ」


「そこが商才のある者と、ない者の違いでございますよ」


奥を制するものは、次の将軍、ひいてはこの世を制する者。


「月星丸さまが城に戻れば、そこに女中が必要となります。藤ノ木さまは月星丸さまに知恵をつけさせ、元の女中を追い払うつもりでございます」


そしてそこに、自分の息のかかった新たな女中を送り込む。


そのなかから、上さまの気に入りそうな娘を、目に触れるようにすればよい。


「それが奥の始末というものにございます」


俺はため息をついた。


いずれにせよ、月星丸の運命などそのようなものだ。


「それでお前は儲かるのか?」


「藤ノ木さまからの、月星丸さまに関するご注文を、一手に引き受けさせていただきます」


「あぁそうか、よかったな」


俺はため息をついた。


萬平がこういう話しを俺にするということは、本当に月星丸の、いや、藤ノ木からの依頼に片がついたということなのだろう。


ならばあの家を手配したのも、藤ノ木ということか。


「千之介さまも、お疲れさまでございました」


萬平がにっこりと微笑む。


そうだ。俺にはもう、終わった話なのだ。


最後の漬け物に箸をつけ、食事も終わった。


「荒らされた長屋は、直させるように手はずを整えております。今しばらくは、こちらにおいでなさいませ」


「あぁ、そうさせてもらおう」


「それで、次の用心棒の依頼の日時でございますが、この方は……」


仕事を選べる立場にないとはいえ、よほどつまらん仕事を引き受けてしまったものだ。


「それでは用心棒の件、よろしくお願いいたしましたよ」


「相分かった」


萬平が出て行く。


俺は一人部屋に取り残される。


月星丸が身分を明かさず、戻りたくもなかった理由は、これか。


だがしかし、生まれついてしまった身分だけは、どうあがいても変えられるものではない。


次の用心棒の仕事は、明日の暮れ時だ。


それまですることは何もなかった。


俺は布団を取りだして敷くと、もう一度眠りについた。

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