第五節

それから奴がどうしていたのか、俺は気を失っていたから知らない。


気がつけば、俺の上には布団が掛けられ、額には濡れた手ぬぐいが乗っている。


「やぁ、気がついたか?」


月星丸はうれしそうな顔で微笑みかけた。


「びっくりしたぞ、急に倒れるんだもん。腹は減ってないか? 俺もまだ飯を食ってないんだ」


近寄ろうとするので、慌てて飛び起きて背中を壁にぶつける。


「どうした?」


そう聞かれても、俺には答えることが出来ない。


ずり落ちてきた手ぬぐいで顔を拭いてごまかす。


「そこから一歩でも近づいてみろ、すぐに叩き斬るからな」


月星丸の表情が、ムッと変化した。


「分かったよ。俺は今まで通り千さんとの関係を変えるつもりはないから。千さんも今まで通り、普通にしておいてくれればそれでいい」


月星丸は、俺の茶碗に飯をよそった。


「追っ手の目も誤魔化したいんだ。俺は男の格好のままでここに居座るからな」


茶碗を差し出されても、受け取った時に手が触れそうで怖い。


「なんだよ、さっさと受け取れ」


膳の上に椀が置かれて、ようやく俺は安心してそれを持つことが出来る。


気分を害したのか、奴は自分の飯をあっという間に平らげた。


「じゃ、先に寝るよ。おやすみ」


狭い長屋で、居間の出入り口側で寝られたら、俺は外に出られないじゃないか。


茶碗と箸を持ったまま固まった俺に、月星丸はフンと鼻息をひとつならして背を向けた。


翌日から、俺の生き地獄が始まった。


朝起きれば目の前に女がいる。


壁に張り付いて息をするのが精一杯の状況だ。


話しかけられても、もう何を言っているのかよく聞き取れないし、答えられない。


何を言われても上の空で返す。


それだけでも心臓が爆発しそうだ。


月星丸は完全に俺に避けられているにもかかわらず、態度を変えようとしない。


イラついてはいるけれど。


奴が背を向けた隙に、部屋の外へ飛び出した。


長屋の木戸門を抜けて、俺はようやく一息つく。


参った。


参ったとはまさにこのことだ。


月星丸が女と知ってからは夜も落ち着いて眠れない。


睡眠不足で足元もおぼつかず、ズキズキと頭も痛む。


俺はようやくたどりついた草の茂る土手の上に横になると、久しぶりに安心して目を閉じた。


外へ飛び出して避難してきたものの、結局することは何もなく身の置き場もない。


いつもの飯屋で飯を食い、銭湯に行って暇をつぶし、たまたま通りかかった寺の境内でやっていた芸者の見世物をぼんやりとながめる。


そうしてようやく、日が傾き始め辺りが暗くなってきた。


俺はため息をつく。


そろそろ家に帰らなくてはいけない時間だ。


精一杯帰宅が遅くなるように、町境の木戸門だけはくぐっておいて、後は道ばたに座っている。


暮れかけた通りを急ぎ足で過ぎる人々は、イラついて不機嫌な浪人の相手など、するわけもなかった。


十分に日が暮れ、月も昇った。


俺はようやく重い腰をあげると、長屋へと戻る。


寝ている月星丸に気づかれぬよう、そっと引き戸を開けて中をのぞき込む。


こいつはまた土間側の方で寝てやがる。


俺は気づかれぬようにそっと居間に上がると、寝ている月星丸の足元を息を殺してまたいだ。


「おかえり」


ビクリとして振り返ると、月星丸は布団の上に起き上がっていた。


明かりをつける。


「なぜそんなにも避ける。それほど俺が嫌か」


いつまでも逃げていても仕方がない。


俺は腹を決めると、どかりとそこに腰をおろした。


「頼むから出て行ってくれ」


「上手くやってると思ってた。俺は、少しはあんたに気に入られてると、そう思ってた」


月星丸はうつむいた。


深いため息をつく。


俺だってそう思ってたよ。


「騙しやがって。女だと最初から分かっていたら、こんなことにはならなかった」


「俺はもう女は捨てたんだ! 男だと思って見てくれ!」


「女だろ!」


「なんで男だとよくて、女だとダメなんだ!」


月星丸はうずくまり膝を抱えた。


「女に生まれたくて生まれてきたわけじゃない。かといって男に生まれたかったわけでもないけど」


灯りに照らされる月星丸の横顔が、苦しげに揺れる。


「俺は俺自身になりたくて外に出た。あそこじゃ人を見るのは全て男か女か、どこの生まれで誰の子か、そんなことばかりでその人自身に興味のある人間なんて一人もいなかった。俺は一度でいいから自由になってみたくて、死ぬ気で外に抜け出したんだ」


月星丸が、俺を見上げる。


「あんたに嫌われてんのなら、もうこの世に未練はない。どうせ死ぬなら、あんたの手で斬ってくれ」


月星丸がにじり寄る。


俺は恐怖にかられ、ビクリとして思わず刀を抜いた。


そこまでされて近づこうという者はいない。


動かなくなった奴の目の前に、俺は抜いた刀を突き立てた。


「俺が嫌いなのは女であって、お前ではない」


「どういうことだよ」


「俺は、俺はなぁ……」


呼吸が荒い。


息を整える。


こんなことを自分から誰かに言うのは生まれて初めてだ。


「女が苦手なんだよ!」


四つん這いになったままの月星丸が俺を見上げる。


俺は額に浮かんだ汗をぬぐった。


言ってしまってよかったのか悪かったのか、もうどうにでもなるようになるしかない。


「俺が嫌いなんじゃなくて、女が嫌いなのか?」


「女なんて、くそ食らえだ」


「悪い思い出でもあるのか? こっぴどく振られたとか?」


騒ぐ心臓の鼓動の方が大きくて、まともに会話している場合じゃない。


「女なんて、ロクなもんじゃねぇ」


それを聞いた月星丸は盛大に笑った。


「なんだよ千さん、そんなことか。千さんが女嫌いとは思わなかったな」


月星丸は、にこにことうれしそうに座り直す。


「大丈夫だよ、俺は千さんに女として悪いことはしない。なんならついでに、その女嫌いを俺が直してやるよ」


奴は布団にもぐり込んだ。


「だから出ていったりしないで、ちゃんとここにいろ。ここはあんたのうちだろ?」


月星丸は、平気で寝転がって背を向ける。


「なんだよ、そんなことか。安心した」


こいつには、コトの重大さが分かっていない。


この俺の女嫌いの程度を理解できるような奴は、そうはこの世にいないのだ。


俺はまた深い深いため息をつく。


この病だけは治らない。


俺は行き場のない背を壁にあずけたまま、一夜を過ごした。

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