序説「よくあること」
カタカタと渇いた風が風雨に曝されて色褪せた隙間だらけの扉を震わせていた。
内部には同じ色をして薄く砂に覆われるか隙間も見えぬ程に目地が詰まった床板。
家具はキィキィと軋んではいたが、誰の手も入っていない廃屋のせいか。
まだ原型を保っている。
「(神様どうか神様どうか神様どうか)」
ブツブツと口内で誰にも聞かれぬよう呟くのは金糸で太陽の意匠を刺繍した外套を羽織った少年だった。
歳の頃は15、6くらいか。
その如何にもナヨナヨした体付きはモヤシボーイの称号を得られてしまいそうなくらいに貧弱そのものだろうが、そう見目は悪くない。
緩いカーブの掛かったくすんだ灰金の眉上の金髪には一筋黒い髪が尻尾みたいに頭部の頂点から一房垂れ下がっており、片目を隠している。
全体的に良家の子弟のような雰囲気を滲ませており、彼の羽織る外套からしても上等であり、傍目から見れば、何かの組織に入っている良いとこの坊ちゃんと見えるに違いない。
背丈が女子供と大差無い事こそが彼にとっては問題なのかもしれなかったが、それを今指摘する者が彼の傍にいるわけでもなく。
「―――」
不安そうな声を押し殺して少年はチラリと自分のいるキッチン横のクローゼット内部から見える部屋の先に視線を移した。
カシャカシャと紙袋が漁られる音。
家主だろうか?
いや、違う。
キッチンで紙袋に顔を突っ込んでいるのは奇妙な程に枯れ木にも似て細った体を引きずる四足歩行の動物であった。
所々の皮膚は厚ぼったく紫色でブヨブヨと腐ったかのような玉虫色をしており、体と外を繋ぐ肛門や性器からはダラダラと悪臭を伴う濁った液体が染みていた。
不意に首を突っ込んでいた躰がピクリと止まって、ゆっくりと顔が上げられる。
充血して黒く変色した瞳。
奇妙な程に大きく変形したと思える口元の乱杭歯。
所々の毛が抜けた肌はやはり腐っているような色をして……しかし、鼻だけは艶々と輝いている。
傍目から見ても四足の死体の化け物。
それがキッチンの台の上から静かに床へと着地した。
スンスン。
鼻が慣らされる。
カウチがあるリビングはクローゼットと鉢植えとディスプレイらしき罅割れた正方形の何かが壁に掛かっているだけだ。
木造の二階建て。
それもロフト付き。
上階への階段は奥に存在するが、出口は正面玄関とリビングの窓の二か所のみ。
何よりも問題なのは……クローゼットから全ての場所が遠いという事か。
「(ああ、神様……僕、食べられてしまうのでしょうかッ)」
想像力豊かな彼の目には数分後の自分の死体を喜んで喰らっている四足獣が見えた。
だが、飛び出したところで少年の脚力では逃げ切れない。
もし脚や腕でも怪我しようものならば、一瞬で追い付かれて噛み付かれるのは分かっていた。
結果として、その犬の死体がヨタヨタと細い脚で歩いてくるのを待つしか出来なかった事は寿命を縮めたのか伸ばしたのか。
カウチの周辺を嗅ぎ回った狗は其処からゆっくりとクローゼットに近付いてくる。
逃げる場所は無い。
洋服こそ入っていないが、その後ろは壁だ。
それも外に続く単なる分厚い板だ。
祈る手。
しかし、汗は隠しようもなく外套の下で流れ。
その匂いを逃す程、獣の鼻は悪くなく。
クローゼット内の瞳とクローゼット外の瞳がガッチリと交錯した。
「―――ッッッ」
その肉体が飛び出すよりも先に獣がクローゼットにそのまま飛び掛かる方が早かった。
痩せっぽっちなガリガリな獣ならば、腕力で何とか押し退けられるかとの犠牲者になりそうな少年の考えは瞬間的に跳んだ獣がいた場所の床板が粉々に弾けた事で絶望的に否定される。
ギュっと目を閉じて、外套に包まったまま突撃して何とか相手に弾かれようと脚に力が込められた時、ドキュッと彼の背後の壁とクローゼットを突き抜けて、銀のようにも見える不可思議な刃紋が飛び出し、彼の頬の皮膚を僅かに裂いて血を滴らせながら……クローゼット直前の獣の顎下をまるで魚の串焼きみたいに突き刺していた。
ギュオァラァ!!!!?
獣の声というよりは得たいの知れない化け物に相応しい奇妙な甲高い絶叫を響かせて、獣がクローゼットの扉を蹴り付けて後ろに半回転しながら飛ぶ。
「ぁ、あ―――」
『レイハウト見習い!! 突撃しろ!!!』
後方の壁の方角からの大声。
それに天の助けか。
神の奇蹟かという心地となった彼が安堵したのも束の間。
自身で後方数mまで下がっていた獣が半開きであった玄関からの突撃に首を横へ向けた時には一直線の剣の一突きで頸椎を両断。
更にそこからの振りで首を断ち切られていた。
ゴドンと肉体が崩れ落ち。
僅か頭部が蠢いた後、ダラリと舌が吐き出されてベチョリと床を汚した。
「目標の沈黙を確認致しました!! サンクレット隊長」
「さ、サンクレット!? サンクレット隊長ですか!!?」
慌ててほぼ扉が粉々になったクローゼットから転がり出るようにして飛び出した少年が背後の剣先の方を向く。
すると、その剣の先から僅かに声が聞こえて来た。
『その声はベルディクト・バーンだな?』
「は、はい!! ベルディクト・バーンです!! サンクレット隊長!! 良かった!! これで何とか切り抜けられるッ!! ぅぅう……」
『泣くな。君は自分の立場が分かっていないようだな。君もまた騎士団の一員だ。騎士ではなくとも……相応の心構えを持っていて然るべきだろう。と、言っても入りたてにそこまで要求するのも酷か。今、そちらに行く』
「うぅぅぅ……」
声が途切れ。
安堵から涙する少年の横に狗の首を両断してみせた相手が傍に寄って来た。
「ご無事で何よりです。バーンさん」
「えっと、あなたは……あ、ありがとうございました。この御恩はいつか必ずお返しします!!」
顔を上げた少年が吹き込んで来る風にフワリと待った前髪の下。
両目で自分の恩人を目に刻み付ける。
まだ少女と言って良い年齢だろう。
純金にも思える鮮やかな艶の金髪をセミロングにした少女は育ちの良さを思わせる柔和な笑みをその利発ながらも気品が感じられる顔に浮かべていた。
アメジストとトパーズ。
透明な紫と黄昏色をした左右の瞳。
右の目尻から僅か側頭部に古傷のような痕を持つ少女は少年よりも幾分か高い背で手を伸ばしてくる。
それに引っ張り上げられるように立った少年が仕切りに頭を下げる。
「本当にッ、本当にありがとうございました」
「いえ、当然の事をしたまでです。それよりもお怪我はありませんか?」
「は、はい。ちょっとフラフラしますけど、怪我はないと思います」
「フラフラ? いけません。今、お水を」
聖女だ、と。
少年は思った。
優し気な笑みで騎士団の正式な市街地での軽装備。
胸部と肘膝関節のみの簡易な軽い合金製の装甲に革製の衣服。
簡素な紺色の色合いの厚手の布地は男が纏ったなら羽振りの良い傭兵辺りを想像するだろうが、剣を鞘に戻して腰の水筒を差し出してくる少女が着込んでいるなら、正しく聖衣。
「はい……急がすにゆっくりと少しずつどうぞ」
「ぁ、ありがとうございます」
コクコクと喉を鳴らして少年が水筒から水を補給する。
そうして一息吐いた頃には外側から回り込んで来たもう一人が二人の傍にやって来ていた。
「改めて。無事で何よりだ。ベルディクト・バーン」
「サンクレット隊長ッ!! 隊長もご無事だったんですね!!」
「ああ、この状況を無事と表現していいのかどうかは迷うがな」
フィクシィー・サンクレット。
今年で17になる騎士団の大隊長は年齢に反比例して重い職責を担う騎士団の若手最有望株として名高い魔術師の雄だ。
女伊達らにと揶揄されながらも、その実績は鉄と火と剣を以て無敗。
騎士団中、魔術、剣、銃、格闘のどれを取っても全てにおいて実力は高位であり、いつか団長の座に収まるだろうと噂される女傑は決して隙を見せない。
カッチリと軽装を身に纏い。
大隊長の証である団のシンボルたる陽光の紋章を右肩の装甲に刻印された彼女の背中には今さっき少年の頬を僅かに裂いたバスター・グレート・ソード。
大陸標準において最大の1m80cmもの長さの大剣が鞘と共に背負われている。
白と紅蓮。
まるで燃え盛る白炎と紅炎を顕すかのような長髪。
魔導技術で弱視を補っているという黒曜石製の眼下を覆う半透明の極薄の
両家のお嬢様として育ったと説明されても頷けない使命感と覚悟を宿した鋭くも気高い……鷹か虎か竜かと称される苛烈な並居る者達を竦ませ続ける瞳と眼光。
何処か中性的でありながらも女性というよりは人間ではない彫像めいた英雄像のような美貌と雰囲気。
彼女と団長だけに許された白きタイには国家の威信たる術師としての権威である象徴。
大魔術師の称号の1つであるMの文字が密かに高貴を顕す紫紺で刺繍されている。
「それで君だけか? この場に他は?」
「い、いえ、残念ながら僕だけです。気付いた時には一人で荒野に……」
「そうか。だが、この3か月を耐え抜いた事は称賛に値する」
「え?」
「どうした? 何処かに水場か食料の保管庫でも見付けたから、此処に陣取っていたのではないのか?」
サンクレットの言葉に少年はベルは首を横に振る。
「あ、ぼ、僕は数時間前に此処へ来たばかりで……それに三か月? 数時間の間違いでは……」
その言葉にフィクシーがレイハウトと呼んでいた年下の部下に視線を向ける。
「あの、バーンさん」
「は、はい!! な、何でしょうか!!」
「その……本当に数時間前に此処へ来たのですか?」
「はい。此処から少し行った小高い丘の上で目が覚めて……」
その言葉に少女がフィクシーに視線を向けて首を縦に振る。
「そうか。それが事実なら……君と我々がこの世界に来た期日には隔たりがあるようだ」
「この、世界?」
「まだ色々と混乱しているだろうが、二つだけハッキリしている事を伝える」
ゴクリとベルが唾を呑み込む。
「此処は我々がいた大陸でもなければ、世界でもない……まったく別の惑星だ。そして、恐らくだが……滅び掛けている」
「え……?」
首を傾げる何も分かっていなさそうな年下の少年に彼女は自分達の拠点へと案内するついでだと隣の少女に説明するよう告げた。
自分達、騎士団。
いや、騎士団の人員が今どのような状況下に置かれているのかを。
「落ち着いて聞いて下さいね。我々は―――」
これが滅び掛けた世界での少年の物語の始まり。
そして―――生存を掛けた闘争の夜明けに違いなかった。
小さなロフト付きの一軒家を出る一行。
その背後を数百m先から見つめる複数の瞳。
―――ぁ~~~ぅ~~~ぁ~~~。
腐り掛けた脚を緩やかに動かして、その群れはゾロゾロと丘の向こうから歩き出していた。
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