未知の世界

 その日から、一カ月後のステージに向けての特訓がはじまった。

 スティーブの曲を一緒に歌うので、英語の歌詞を覚えないといけない。笑里に教えてもらいながら、何とか歌えるようになった。


 ある日、レイナが家庭教師に見てもらっている間に、裕と笑里はゴミ捨て場に向かった。

 搬入口の近くに車を止め、車から出ると、強烈なニオイがする。

 前来たときはまだ肌寒かったので、ゴミのニオイがそれほどしなかったのだ。


 笑里はたまらず、ハンカチで鼻と口を覆った。裕も、「これはすごいな」と顔をしかめる。

 作業員が、裕と笑里の姿を見て、飛んで来る。


「ちょっと、こんなところに入って来られちゃ困りますよ。探し物ですか?」

「いや、ゴミ捨て場の人たちに会いに来たんです」

「はあ?」

「あっちから入りますから」

「ちょっと、ちょっと!」


 作業員が制しても意に介さず、裕はさっさと歩きだした。笑里はあわてて後を追う。


 搬入口から一歩中に入り、笑里は軽く悲鳴を上げた。

 辺りにはハエが飛び回っていて、足元には嫌なニオイがする水があちこちに流れ出している。


「こんなところで、レイナちゃんは……」

 笑里は絶句して立ち尽くしていた。裕が肩を叩く。

「気分が悪いなら、車に戻ったほうがいい」

 笑里の耳元で、大きな声で伝える。


 笑里は頭を振った。

「私も行く。だって、あの子はここにずっと住んでいたんだもの」

 笑里の目に宿った強い光を見て、裕はふっと微笑んだ。


「あーれー、先生だっ」

 ゴミの山の麓を歩いて小屋があるエリアに向かっていると、山の上から声がした。みると、トムが手を振っている。


 トムは慣れた様子で駆け下りてきた。

 リュックを背負い、そのなかには缶や鉄くずが入っている。鉄くず屋に売るためのゴミを拾い集めているのだろう。


「こんにちは」

 裕はやわらかな笑みを向けた。

「レイナは? レイナは?」

 トムは目をキラキラさせて尋ねる。

 裕は表情を曇らせた。

「レイナは、今日は来られないんだ。ごめん」

 その言葉に、みるみるうちにトムの元気は萎んでいく。


「でも、レイナから手紙を預かって来たよ。アミちゃんにもね」

 裕の言葉に気を取り直したのか、「じゃ、こっち来て!」と二人を誘導した。


「先生の奥さん、キレイな人だね」

「そうだね」

「気分悪いの? 大丈夫?」

 心配そうに見上げられて、「大丈夫よ、何でもない」と笑里はハンカチをしまった。


 それから、「ねえ、あなたのお母さんはどこ?」とトムに聞く。

「オレの母ちゃんはいないよ。3歳の時にオレをゴミ捨て場に捨てて、どこかに行っちゃったんだ」

 トムはカラッと答える。


「そうなの……じゃあ、お父さんは」

「父ちゃんは知らない。生まれたときには父ちゃんはいなかったみたいだよ」

「そう……」

 笑里はそれ以上、何も聞けなかった。


 そのとき、アミが走り寄って来た。裕の袖をつかんで、「あー、あー」と言う。

「アミ、レイナは今日は来ないんだってさ」

 トムが伝えると、アミは驚いたような顔になった。


「あー?」

「歌のレッスンで忙しいんだろ? きっと」

 裕は「そうなんだ」とうなずいた。アミの目に、みるみる涙が貯まっていく。


「泣くなよお。レイナは俺たちのことを忘れたわけじゃないんだからさ。今日は来られなかっただけだよ」

 トムがアミの頭を優しくなでる。


「ねえ、この子、もしかして」

 笑里はそっと裕に尋ねる。

「ああ。話せないらしい。小さいころに大病を患って声が出なくなったって、レイナが話してた」

「そうなの……」


「あの子も、母親はいないらしい。働きすぎて亡くなったって、言ってた。ここには父親と住んでるらしいんだけど、その父親は飲んだくれで、時々暴力をふるうらしい」

「まあ、なんてこと」

 笑里の声が震えた。


「おい」

 そのとき、低い声が背後から聞こえた。


「ああ、ジンさん、クロ。こんにちは」

「なんでここに来たんだよ。レイナに何かあったのか?」

「いや、そういうわけじゃなくて」


 裕は三人にレイナがライブにゲストとして出ること、そこにゴミ捨て場のみんなを招待したいことを伝えた。


「えっ、マジで!? ライブに行けるの? すげえぞ、アミ!」


 トムは興奮して、きょとんとしているアミに「ライブって、すっげえ大きな建物でやるんだぞ。そこで、レイナは大勢の人に向かって歌うんだってさ。それを観に行っていいって」と説明した。


 アミはレイナに会えるのだと分かり、パッと笑顔になった。

「そりゃ、マサじいさんにも話さないとな」


 ジンにつれられてマサじいさんの小屋に行くと、マサじいさんは畑仕事に精を出していた。

 裕が頭を下げると、マサじいさんは汗を拭きながら柵の外に出てきた。


「ちょうどよかった。レイナにニンジンを持って行ってくれんか」

「ニンジンですか?」

「レイナが畑を耕して、種をまいてくれたニンジンがよく育ってな。レイナにも食べさせたいんだ」


 マサじいさんは小屋の横に積んであったニンジンを10本ほど裕に渡そうとした。


「さすがに、こんなには……うちは3人しかいませんし」

「ニンジンは日持ちするから大丈夫だ」

 マサじいさんは、そんなことも知らんのか、という目で裕を見た。


「でも、これは皆さんで食べたほうが」

「レイナは、うちの畑で採れるニンジンが好きなんだ。ここのが一番おいしいって、いつもおいしそうに食べてたんだ」

「……そうですか」

「マサじいさん、袋かなんかないの? 先生の手が泥だらけになるよ」


 トムの言葉に、「おお、そうだな」と小屋の中から新聞紙を持って来た。トムがニンジンを包んで裕に渡した。

 裕は、「レイナもきっと喜びます」と頭を下げた。


 裕がライブのことを話すと、「それは、子供たちだけで行ったほうがよさそうだなあ」とマサじいさんは言った。


「大人が汚いカッコをして行くような場所じゃないし」

「そんな、大丈夫ですよ。皆さんでいらしてください」

 笑里が言うと、マサじいさんは笑里の目をじっと見つめた。


「お嬢さん。我々にこれ以上、みじめな思いをさせないでくれ。我々は、街でやっていけなくなったから、ここに流れて来たんだ。今さら街に戻って、自分たちが負け犬だったと思い出したくなんかないんだよ」


「そんな……」

 笑里はそれ以上、何も言えなかった。

「子供たちは行かせることにしよう。街を知るいい機会だからね」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る