第3章 小さな勇気の唄

穏やかな日常

 どこかでベルが鳴っている。

 トラックがゴミ捨て場に搬入するベルか、火災報知器か……。


 それが目覚まし時計のベルだと気づいて、レイナは目を開けた。目に飛び込んでくるのは、錆びついたトタン屋根ではなく、白い天井だ。


 レイナは手を伸ばして、サイドテーブルに置いてある目覚まし時計を止めた。

 やわらかい布団に、着心地のいい木綿のパジャマ。

 いつも、目が覚めてからしばらくは自分がどこにいるのか分からずに、戸惑ってしまう。


――ああ、ゴミ捨て場じゃないんだっけ。


 ゴミ捨て場に住んでいたころはトラックの騒音で起こされていたが、今は静かなので目覚まし時計をかけないと寝過ごしてしまうのだ。


 ベッドから降りて、窓のカーテンを開ける。とたんに、初夏のまばゆい光に包まれる。

 レイナはしばらく、窓の外に広がる西園寺家の緑豊かな庭や、朝から車の手入れに余念がない森口の姿を見ていた。


 西園寺家に住むようになってから、一カ月が経つ。

 キレイな服を着て、毎日のようにご馳走を食べ、毎日お風呂に入れるし、フカフカの布団で眠れる。洗濯は洗濯機がしてくれるし、食器も食洗機が洗ってくれる。


 そのうえ、西園寺家には平日は毎日家政婦さんが来て料理や掃除をするので、レイナのやることがない。夢のような生活のはずだった。


 タクマと一緒に、いつか街に住みたいと語り合った生活を手に入れた。それにもかかわらず、重たい気分がずっと続いているのだ。


 住みはじめたころ、レイナが今までのように家事をしようとすると、笑里から「そんなこと、しなくていいのよ」と何度も止められた。

 それでも何かしないと気が済まないので、せめて笑里のレッスンを受けに来た人のお茶を入れたり、ベルの散歩をすることにした。


 着替えて顔を洗い、リビングに降りていくと、「おはよう。毎朝、早いわね」と家政婦の芳野が微笑んだ。ベルが足元にまとわりついてくる。


 芳野は50代の女性で、三人の子供がいるという。レイナがゴミ捨て場に住んでいたことを知っても何も態度を変えないので、レイナは芳野をすぐに好きになった。


「今日は、目玉焼きを作ってもいい?」

「いいわよ。私が作るよりも、レイナちゃんが作るほうが、上手だからね」

「笑里さんは、あんまり私に料理してもらいたくないみたいだけど」

「ケガをしたらどうしようって心配なんでしょう。でも、レイナちゃんは器用だから大丈夫だって、そのうち分かるわよ」

「それならいいけど」


 裕と笑里が起きてくるまで、まだ時間がある。

 レイナはベルに、「お散歩に行く?」と声をかけると、嬉しそうに「ワン!」と答えた。


 ベルをリードにつないで外に出ると、森口は庭の草むしりをしている。

「おはよう、森口さん」

「おはよう。今日も早いね」

「帰って来たら、草むしりを手伝うね」

「ありがとう。車に気をつけて」


 ベルの散歩コースは決まっている。公園に向かう途中で、並んで小学校に向かう小学生の列と一緒になった。


「ベルちゃんだ!」

「おはよう、ベルちゃん」

 ベルは子供たちにも人気者で、いつも頭をなでてもらっている。

「行ってらっしゃーい」 


 ランドセルを背に駆けて行く子供たちに向かって、レイナは手を振った。

 レイナは学校に通ったことがないので、ランドセル姿の子供を見ると羨ましくなる。


 レイナは今、家庭教師に勉強を教えてもらっている。小学校に通う年齢ではないし、中学校の授業にはついていけないので、家庭教師に見てもらうのがいいと裕が判断したのだ。

 ミハルに教わって最低限の読み書きや計算はできていたので、何とか勉強にはついていけている。


 ――ホントは、アミとトムと一緒に勉強したいんだけどな。


 そう思っても、さすがにそれをお願いするのは甘えすぎだろうと、レイナは言えないでいる。


 ゴミ捨て場の住人のことを、一日たりとも忘れたことなどない。


 今すぐにでもアミとトムに会いに行きたい。ジンやマサじいさんにも会いたい。

 でも、ミハルがいなくなったという現実を突きつけられるだけなので、ゴミ捨て場に行くのが怖いのだ。


 ――きっと、二人は私がいなくなって寂しい思いをしてる。私に捨てられたって思ってるかもしれないから、会いに行かなきゃ。気持ちが元気になったら、必ず会いに行くからね。


 レイナは公園の端にある小さな鳥居をくぐって、小さな祭殿の鈴を鳴らし、手を合わせた。

 ここでゴミ捨て場の住人の無事を祈るのが、最近の日課だ。さらに、ミハルが早く戻って来るように、ミハルが元気でいるようにと、時間をかけて何度も祈る。


 ベルは、その間おとなしくレイナを待っていてくれる。

「さ、行こっか。ベルもお腹すいたでしょ?」

 ベルは嬉しそうにシッポを振った。


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