第1話 その名は銀の月
ぎしっ、ぎしっ――。
青く、ほの暗い部屋の中でベッドのきしむ音が痛々しく鳴り響く。ひときわ
そこには一匹の獣。
そして餌があった。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
獣は餌を、時に荒々しく、時には激しく打ち付け喰らっていた。ただその行為は、生きとし生けるものが行う
捕食者たる獣は餌である獲物に対して、己のあせりや苛立ち、憎しみや悲しみといった負の感情のすべてを
何度も何度も繰り返される、
そう、これは陵辱。
それがこの部屋の日常だった。
獲物は少女だった。
獲物である少女は幾度となく繰り返されるこの実父の行為に、すでに何も感じなくなっていた。いや、感じていないと思わなければ生きてはいけないのだろう。それは彼女が自分を守るための無意識な行為。
自己防衛本能。
少女は自分の心の扉を固く閉じ、鍵をかけて部屋の片隅で目を閉じ震え、膝を抱えて泣いていた。泣き声は誰にも届かない。その叫びは心の扉、
誰にも?
そう、だれにも。障壁は完全に外部とのつながりを断ち切っていた。
言うなれば、そう、今の彼女は人形、なのだ。
その人形をもてあそぶ、ひとかたまりの獣。何の反応も示さない
叩きつける。
注ぎ込む。
その行為が、さらなる感情をこの男にもたらす。それはずっと終わることはない。終えてしまうとそれはあふれ、自分が壊れてしまう。自分を守るために、やめることのできない無意識の行為。
自己防衛本能。
自分より弱いものをなじることによってしか得ることの出来ない優越感。男は心の部屋の隙間から入り込んでくる感情に抗う術をもたなかった。それは部屋の中で凝り固まり、男の自我とはかけ離れたものとなる。
それが獣の名であった。
毎日繰り返されるこの行為は、それでも一時の
それは誰にもわからないが、非日常と日常が反転し、終息する。
それが悪夢の終わり。
一時の平穏の始まりであった。
いつも、なら。
ただこの日だけは「いつも」とは違った。それはつまり、平穏の始まりを拒否することと同義。自己防衛本能の扉は暴力ではないこえによって打ち破られていた。
「聞こえる……」
その痛々しくよわいものから発せられたのは、透明な言葉。この空間には似つかわしくない、意味を持たない言葉。今まで何の反応も示さなかった少女が発した、ただのひとこと。
そのただのひとことは不幸にも、獣の昏い光をひときわ強くした。部屋の空気が青暗いものから、怒りのように、欲望のように、赤黒いものに変わる。
ひときわ叩きつけられるのは、さらなる言葉。
ひときわ注ぎ込まれるのは、己が欲望。
そしてはき出されるのは、毒。
それらを打ち付ける、音、音、音。
それはただ、壊すために。
しかし少女はそれすらも関係なく、言葉を繰り返す。
彼女はまだ、人形。
「声が……聞こえる……」
繰り返す、声。
――壊れてしまえばすべてから解放される、の。
少女のそんな声に反応するかのように、行為は続く。
「声が……聞こえる……」
そしてまた繰り返す、声。
――――壊してしまえばすべてから解放される、の。
少女の声など無視するかのように行為は続く。いや、むしろそんな行為とは無関係の反応すら
永遠に続くかと思われる
ただ、現実にはそんな凶暴さを持ったベクトルは長続きしない。次第に音は荒々しい
毒のある言葉。
いや、かろうじて人語になっている、毒か。そう言った方がより近いかもしれない、そんな相手を傷つけることしかできない言葉。それは、真の毒。
そんな毒ですら、もう届いていない。少女には、もう、何も、届いてはいない。
「フフフ……そう、なの……」
――壊してしまえば!
ただ一つの『声』を除いては。
――壊してしまえ!
少女のうちにこだまする、ただひとつの
――壊せっ! 壊せっ!
壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せ壊せっ!
コワセ――――――――――――っ!
少女はこえに、呼応、した。
こえはきこえなくなった。
それは――銀の月。
声が聞こえなくなったとき。
ここにはもう、何の音も残されてはいなかった。
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