第20話「無敵」
無知とは幸福に他ならない。
知らないということは幸せなことだ。もし世界が終わることを知らなければ、今も私は昨日と変わらない時を過ごすことが出来ていたはずだ。
他のことだってそう……自分が嫌われていることも、口が臭いことも、明日テストがあることも、恋人の不貞も……どんなことだって知らなければ幸せなままでいられる。
それでも知りたいと思ってしまう。知ったところで傷つくだけだとわかっているのに、真実を求めてしまう。
人はかくも愚かな存在だ。
だから最も幸福であることは、無知ではない。幸福であるための一番の資質……それはマゾであるということ。
かくいう私はドMだ。
職業はプロボクサー。現フェザー級のチャンピオンで、すでに三階級制覇している。二十六戦、二十六勝、二十四KO。プロになってから負けたことは一度もない。
スタイルはインファイター。接近戦を得意とし、自ら相手の懐に入って闘うスタイルだ。そして私はインファイターでありながらも、カウンターを得意としている。しかし相手の攻撃をかわして攻撃するわけではない。私のカウンターは肉を斬らせて骨を絶つ。相手の攻撃をあえてもらうのだ。しかもただもらうのではなく、こちらからもらいにいく。相手がモーションに入って、腰が回りきる前にもらってしまう。そうすればダメージはかなり軽減出来る。そしてそこに必殺の一撃を入れるのだ。
私にとっては痛みもまた喜びである。だから相手の攻撃に臆することなく前に出ることが出来る。それ故に身につけることの出来た変則的なスタイルだ。しかしそれが強さの理由ではない。私の強さの秘密は別にある。
私は誰より辛い練習をする。私は自分を追い詰めることが大好きだ。皆が逃げ出したくなるような辛い練習も望むところで、ボクシングならではの地獄のような減量も苦ではない。性格もとにかくポジティブ。どんな逆境だって楽しむことが出来る。それが大きな逆境であればあるほど燃え上がる。
すなわち私の強さの秘密、それは変則的なボクシングスタイルでも圧倒的な練習量でも強靭なメンタルでもない。
私が強いのはドMだからだ。
多くの人がマゾヒズムは変態的な性質だと考え、マイナスのイメージを持っているだろう。しかしそれは大きな間違いだ。
例えばSMクラブ。どんなイメージがあるだろう。一流の成功者たちが、お忍びで通っているイメージはないだろうか。
そういうことなのだ。マゾであることこそ成功の鍵。マゾは失敗を恐れない。攻撃されることを恐れ踏みとどまることはなく、果敢に前進することが出来る。辛い努力も下積みも苦にしない。逆境を楽しみ、どんなときも前向きでいられる。
すなわちマゾは無敵だ。
そういえば、かの人も言っている。汝の敵を愛せよ。右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せと。まさにマゾならではの発想だ。
すなわちマゾとは愛。全てを受け入れ、ありのままを赦す、理想の精神状態だ。
そんなマゾで無敵の私ではあるが、今は流石に危機的な状況にあった。
問題なのは世界が終わることではない。世界が終わろうとしている中、私は自宅のトイレの中に閉じ込められているという事実だ。
世界が終われば、もちろん私は死ぬことになる。そうなる前、残されたわずかな時間でやっておきたいことだってあった。次の防衛戦が終わった後に飲もうと思っていた高級ワインを開けてしまうのもいいし、あえていつもと同じトレーニングをこなすというのもストイックでかっこいい。
それなのに私は今、トイレの中で便座の上に座っている。世界の終りを目の前にして、ここから離れることが出来ないでいる。
理由は簡単だ。想像を絶するほどに酷い下痢だからだ……
今朝、目覚めてから腹痛が酷く、便意がとどまることを知らない。お腹にほんの少し力を入れるだけで、液状の便が溢れ出してくるといったありさまだ。いくら世界が終わるとはいえ、この状態でトイレを離れることは出来なかった。
ちなみに私はマゾではあるが、うんことかは好きではない。それはまた別のジャンルだ。
それでもやっと、少し便意が引いてきた。飲んであった下痢止めの薬が効いてきたのだろう。それにもうこのお腹の中には出すものなんて、何も残ってはいないはずだ。
すでにお尻は拭いてあったのだが、念のためもう一度拭いてから立ち上がる。そしてズボンを上げ、私はトイレから出た。
「ふぅー」
狭いトイレから解き放たれた開放感に、大きく息を吐き出す。
とりあえずはテレビが見たかった。実はこの下痢のせいで、私はまだ世界が終わる詳しい理由を知らない。せめて自分が死に至るその理由くらいは知っておきたかった。
しかし私がテレビの電源を入れたその瞬間だった。
また、波が押し寄せてきた。
私は駆け足かつ慎重な足取りでトイレへと戻る。そして急いでズボンを下ろし、便座に座った。その瞬間、ピチピチと小さな爆発音のようなおならと共に汁が出る。もうそれは液状の便と形容出来るほどのものですらなかった。
「はぁーー」
長いため息をついた後、お腹に力を入れてみるがもう便は出ない。それをしっかりと確認してからウォシュレットのボタンを押す。うまく水に当たるようにと軽くお尻を動かしながら念入りに掃除をして、ボタンから手を離した。そして仕上げにトイレットペーパーで出来るだけ優しく拭く。拭きすぎのせいで、穴の周りがヒリヒリと痛んだ。トイレットペーパーを見ると、ほんの少しだけ赤くなっていた。
「ふぅー」
ひとまずの危機を乗り越えて、私はもう一度大きくため息をついた。
さて、どうしたものだろうか。目をつむり思考する。
私は今まで、どんな危機的状況も楽しんできた。そして乗り越えてきたのだ。最後の最後で屈するわけにはいかなかった。このピンチも、この状況すらも私になら楽しめるはずだ。
私は生まれながらの、ナチュラルボーンマゾではなかった。そんな私がこのマゾヒスト的な考え方をするようになった理由を思いだす。
それは私がまだ幼く、児童養護施設で暮らしていたときのことだった。そこに一人の若い女の先生がいた。彼女はとても信心深い人で私に言った。
「どうして空はあんなに綺麗なんだと思う? どうしてお花はあんなに色とりどりに美しく咲くんだと思う?」
いつも一人で本を読んでいた頭でっかちの私は、本で得た知識を得意気に語った。空が青いのは光の屈折の問題で、花は虫に花粉を運んでもらうためだとかそんな感じだ。
「頭がいいのね」
彼女は私の頭をなでながら言ってくれた。
「でもね。そういうことじゃないの。この世界を私たちが美しいと感じる理由を聞いたの」
「理由?」
まだ幼かった私には違いがよくわからなかった。
「先生はね、やっぱり神様がいると思うんだ。どの宗教のどんな神様かはわからないけど、私たちの幸せを願ってくれている神様はきっといると思うの。それ以外に世界がこんなに美しい理由は説明出来ないもの」
そう言って微笑むと、彼女はさらに言葉を続けた。
「きっと……神様は願っているだけなのよ。私たちの幸せをね。この美しい世界を私たちに与えて、さぁ、幸せになってごらんって。だからあなたも幸せになって、こんな素敵な世界を与えてくれた神様の願いを叶えてあげよう」
なるほどと思った。幼い私は、彼女の考えを全面的に受け入れることにした。そして幸せになるために、神の与えてくれたこの世界を余すことなく楽しんでやることに決めた。神が私に与えてくれた世界を楽しむためツール、五感と心をフル活用して。私は痛みも、悲しみさえも楽しんでやることにしたのだ。
そうして今日まで、そのように生きてきた。
もし彼女が言うような神が存在するのなら、私を見て喜んでくれていたはずだ。そんな私がこの程度の状況に屈するわけにはいかない。神の期待を裏切るわけにはいかない。
しかしそんな私の思いとはうらはらに、また波が迫ってきた。多くの敵をKOしてきた私ですら、この波には抗うことが出来ない。私は観念して少しだけお腹に力を込める。おならばかりが豪勢に出て、肝心の便のほうは穴の周りを湿る程度だ。
「ふふふ」
自然と笑みがこぼれた。
まるで今の状況は三流脚本家の描く喜劇のようだ。それでも私になら楽しめるはずだ。三流喜劇の陳腐さも滑稽さも、私にならそのままの形で楽しめる。
私は世界をありのまま楽しむことが出来るのだ。
私は決めた。この喜劇を楽しもう。この三流喜劇の主演男優として、精一杯おどけてみせよう。
そしてそんな私を見ている神がいたのなら、笑ってくれたらいい。
そうと決まれば、これからなすべきことは一つ。戦うことだ。最後に立ちはだかる敵は最強のボクサーでも、世界の終りでもない。
今、私の前に立ちはだかる敵は便意。
精一杯戦ってやろう。世界が終わるその瞬間まで果敢に戦い抜いてやろう。
そしてその全てを楽しむこととしよう。
それこそが私の生き様だ。
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