第180話「塩冶高貞の乱(玖)」
取り巻きから報告を受けて向かった先にいたのは、険しい表情を浮かべた
「
「妻女が心配か」
一族全体の進退がかかっているこの状況で妻女の身の心配とは、随分と悠長なことだ。
つい茶化すような言い方になった良忠に対して、高貞はぐっと詰め寄って来た。
「はっきり言っておくが、今の俺があるのは我が妻あってのものだ。身内だから心配しているというだけではない。彼女は俺にとっての
諸葛亮。大陸における古の国・
魚にとって水は欠かせないものであり、劉備にとって諸葛亮は欠かせぬ人材だった、ということである。
高貞にとってその妻女は、それに比するものということらしい。
「かつて
「もし男に生まれていたら、旦那より立派な武士になっていたかもしれんな」
「そうだな、そう思う」
皮肉のつもりで言ったのだが、高貞は否定することなく頷いてみせた。
そこまで言われたら、良忠としても高貞の妻女に対する見解を改めざるを得ない。
「分かった。それで、どうしろと言うんだ。言っておくが、こちらの戦力で強行突破は無謀ってもんだぜ」
塩冶邸の近辺は
脅迫状を送り付けた都合上、ある程度は警戒されていることだろう。
奇襲を仕掛けること自体はできるかもしれないが、すぐに数の差で押し込まれてしまうに違いない。
「我が屋敷にいる者たちに、機を見て決起するよう働きかける。そのまま勢いに乗って京を脱出する。もはやこれしかない」
「
元々は、高貞と
それに比べると、今回の高貞の提案はかなり性急と言わざるを得ない。
「武蔵守の動きからすると、俺が本当は人質などではない、ということはおそらく感付かれている。我が屋敷を好き勝手動き回り始めたのも、妻に手を出したのも、俺に対する挑発の一環だろう」
その点については同意見だった。
そうでなければ、塩冶邸に手を出す必要はないはずだ。
こちらが出した「塩冶
ただ、高貞の提案には頷きがたいものがあった。強引すぎる。
「挑発してくるということは、まだ俺たちの動きは掴み切れていないということだろう。こちらの動揺を誘って動かせようとしているんだ。旦那の案は、それに乗っかる形になる。危険だと思うがね」
「さっきも言っただろう、俺の妻を失うのはそちらにとっても大きな損失だと。多少の危険は承知の上で動くんだ」
それに、と高貞は続けた。
「こうしている間にも武蔵守は我々のことを探しているに違いない。あちらは目が多い。軍勢を解散させるまで見つからずに逃げ回るというのも、それはそれで危険な選択だ」
「どちらも危険なら、妻女を助け出せる分、短期決戦を挑んだ方が良いということか」
数の差もあるし、長期戦にして粘るのはあまり良くない、というのは分かる。
良忠としても人質交換作戦にこだわりがあったわけではない。その場で思いついた手を打っただけである。元々、最後までやり通せるという自信は特になかった。
戦略転換について、異論はない。
「分かった、それで行こう。決起が上手くいくよう、俺は武蔵守を釣り出しておく」
「助かる」
「それで、大和権守はどうする」
殺せるならすぐにでも殺しておきたい。
いろいろと暗躍する身の良忠にとって、あの記憶力は脅威でしかなかった。生かしておくには危険すぎる。
しかし、高貞はまだ頭を振った。
「強行突破することになる以上、手札はなるべく残しておきたい。大和権守は生かした状態で連れて行こう」
「殺して袋にでも詰めておいて、生かしてあると騙っておけば良くないか」
「それがバレて武蔵守の追跡がより苛烈なものになったらどうする。いざというとき生かした状態で押し付ければ、追跡の手も鈍るだろう」
高貞の言うことにも一理ある。
良忠としては今のうちに始末しておきたかったが、さすがに優先順位は高貞を逃がす方が上である。
「分かった、なら生かしておこう。ただ、生かしたまま旦那が
「よほど生かしておきたくないのだな。個人的な恨みなどはないのだろう」
良忠が持つ重茂への殺意の高さに、思わず高貞は苦笑いを浮かべた。
塩冶邸に運び込まれた男――
屋敷中をくまなく探したものの、どこにも見当たらない。
塩冶の家人に聞いても「いつの間にか消えていた」の一点張りである。
「率直に言うと、俺は塩冶殿が吉野に寝返っていないか疑っている」
一通りの調査を終えてから、
ここは塩冶邸の一室。普段は高貞夫妻が使用していたという居室である。
早苗の身柄は特に拘束していない。ただ、勝手に動かぬよう伝えてはいる。
少し話しただけだが、彼女は聡明な人のようだった。
余計なことをするなと言えば、状況が整わない限り妙な動きはしないだろう。
「高貞殿は、吉野方に捕まったのでは?」
「それが虚言ではないかと、ずっと考えている。できれば例の男を見つけて吐かせたかったが、叶わなかった」
できれば早苗から何かしらの情報を引き出したい。
しかし、ここに至るまで早苗は余計な情報を一切漏らしていなかった。
些細な表情の変化から「何かを知っていそう」というのが分かるくらいである。
「確かに不審な点はありました。私には話さず、密かに通じている可能性はございます」
「奥方から見て、その可能性はどの程度だと思う」
「答えかねます。高貞殿の進退にかかわること、推測はできても軽々に口にできるものではありません」
何か引き出せないかと試みても、万事この調子である。
口が堅く、頭の回転も速い。
しかし、そのおかげで師直に打てる手はなくなりつつある。
「武蔵守殿」
そこに、
早苗に待っているよう告げて、師直はすぐ表に出てきた。
「妙法院を見張っていたところ、盛んに出入りする者があり、不審に思って尾行しました。仔細は分かりませぬが、どうも洛外にたむろしているならず者どもと繋がっているようでして」
「ならず者どもの拠点は見つけたのだな」
「はい」
話を聞いて、師直は即座に決断した。
「公義殿、この場を任せても良いか」
「構いませぬが、武蔵守殿が直接向かわれるので?」
「ならず者どもの正体によっては
妙法院が勝手に匿っている者どもなら、潰したところで文句を言われる筋合いはない。
ただ、ならず者じみた僧兵という可能性もあるし、どこかしらの武士に縁ある者という可能性もある。
公義では、その場での判断が難しいかもしれない。
「少しでも不審の儀あらば、その場で叩き潰す」
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