第46話「建武三年の夏(結)」

 阿弥陀が峰を含む京近郊の敵に足利あしかが軍が相対する中、重茂しげもちは戦から離れることになった。

 特に負傷したり不祥事を起こしたりしたわけではない。滞っていた論功対応を進める必要が出てきたのである。

 武士であれば基本的に戦いはできるが、論功行賞の対応にあたれる者は限られてくる。こう一族は――重茂はそういう限られた者だった。


 足利方に少しずつ余裕が出てきたということでもあるが、重茂個人としてはむしろ余裕がなくなりそうである。

 なにしろ、今回足利についた武士は前代未聞の規模なのだ。それらの論功をさばいて恩賞を出さなければならない。


「殿は強力な助っ人を呼んでいると言っていたが……」


 論功に関する仕事は東寺とうじの一角で行われている。

 尊氏たかうじの指示を受けた重茂がその場に近づくと、あちこちから怒声が聞こえてきた。


「いつになったら俺の手柄を確認してくれるんだ!」

「こちとらそろそろ国許に帰らないとまずいんだぞ、近場の連中がこぞってウチの土地を横領してくるって話なんだからな」

「正式な恩賞がすぐに出せないのは分かるけどな、軍忠状だけでもできねえもんか」


 手続きに対する不満の声が各所で飛び交っている。

 それだけではない。


「貴様、なにを勝手に書いている! それはこちらで確認すると言っていただろうが!」

「誰だこれを書いた奴は! 字が下手過ぎてまともに読めん! 東寺の坊主に今すぐ読み書きを教えてもらってこい!」

「書状の類はきちんと国ごとに分けておけと言っただろう。乱雑に置くな! 誰か整理しろ!」


 訴えに来ている武士たち以上に殺気立っているのは、対応に追われている側の武士たちだった。

 こなさなければならない仕事が山積みだからだろう。不満の声が上がる度に、彼らの剣呑さは増しているようだった。


「おや、重茂殿ではないか」


 そんな中、一人の男がゆったりと声をかけてきた。

 足利氏に仕える同輩・伊勢いせ盛継もりつぐである。同輩と言っても、盛継は重茂よりかなり年輩だ。世代としては父・師重もろしげに近い。


「盛継殿。ここは――」

「皆、元気に働いているだろう」

「元気というか、なんというか……」


 盛継はどこかとぼけたところのある男だった。

 伊勢氏は足利氏の内向きのことを任されている一族だったが、公的な仕事をこなす高一族と比べると、より私的なことをこなすことが多かった。だからか女房衆や子供たちと接することが多いらしい。このおおらかさは、そういう環境に身を置いているが故なのかもしれない。


「もしや、殿が言っていた助っ人とは盛継殿なのか?」

「いやいや。私などとてもとても。というか、一人二人でどうにかできる状況ではない」


 そういって盛継は何人かの人物を示してみせた。


「あそこにいるのは長井ながい挙冬たかふゆ殿。帝の新政の折には雑訴決断所に務めていた」


 喧騒の中にあって、挙冬は異様とも言えるほど静かだった。

 まだ若い。重茂よりも年下なのではないかという見た目である。

 しかしその双眸には、周囲の喧騒を切って捨てるような凄味が宿っていた。


「あちらにいるのは二階堂にかいどう一族の者たちだな。ほら、中央で多くの書状に囲まれているのは行珍ぎょうちん殿だ」


 行珍は法名で、元々の名前は二階堂行朝ゆきともという。

 こちらは重茂よりも年輩で、何度か顔を見たこともあった。

 彼もまた武士であり、足利に味方して戦にも参陣しているが、武士にしては落ち着きがあって分別を弁えていると評判の人だった。


「そしてあれが――」

「うむ。あの方は俺も知っている」


 最後に盛継が示したのは、行珍より更に年輩――盛継と同じかそれ以上の年齢の老人だった。

 眼光の鋭さだけで人を殺せそうな威を備えているその老人の名は、太田おおた道大どうだい。元の名は時連ときつらという。

 かつて信濃守しなののかみに就いていたことから、人々からは信濃入道殿と呼ばれている。


「皆、鎌倉の名奉行として名を馳せた一族だ」


 鎌倉幕府は北条ほうじょう氏がトップに立っていたが、無論北条氏だけで構成されていたわけではない。

 足利氏もそうだが、北条氏と繋がりを持っていた構成員というのも多数いる。

 特に、能吏として要職に就き、鎌倉幕府による統治を支え続けた一族がいた。


 源頼朝みなもとのよりともと共に鎌倉幕府を打ち立て、頼朝死後も存在感を発揮した十三人の宿老がいる。

 その中には京出身の公家もいた。元々政権などというものを運営したことのない坂東武者が、どうにか鎌倉幕府という組織を運営できたのは、彼らの存在が大きかったと言っていいだろう。


 政務を司る政所まんどころの初代長官として、初期鎌倉幕府で重きをなした大江広元おおえのひろもと

 広元に次ぐ政務の重要人物として様々な沙汰にかかわった二階堂行政ゆきまさ

 頼朝の乳母の甥として挙兵前から頼朝に協力し、幕府設立後は訴訟を司る問注所もんちゅうじょの初代長官として活躍した三善康信みよしのやすのぶ


 長井挙冬は大江広元の、行珍は二階堂行政の、そして太田道大は三善康信の後裔である。

 彼らは代々鎌倉幕府の要職に就いて、その技術を培ってきた。彼らは単に子孫というだけでなく、先祖代々培われてきた技能の継承者でもあるのだ。

 言ってしまえば、事務官僚のエリート集団なのである。


 彼らは鎌倉幕府に属していたが、武士の政権運用に長じたその技能は、幕府を滅ぼした後醍醐天皇にとっても必要なものだった。

 故に、彼らは幕府滅亡後も後醍醐に登用され政権の運営に携わることになった。

 今は後醍醐の政権も崩れつつあるが、それを崩した足利氏もまた、彼らの力を必要としている。


 高一族や伊勢一族は、足利氏に仕えてその家政機関の運用に携わってきた。

 だが、さすがに武家政権全般の運用の心得というものはない。

 尊氏が鎌倉幕府以来の官僚一族に協力を依頼したのは、当然の流れだったと言っていい。


 この場を取り仕切っているのは太田道大らしい。

 盛継に伴われて挨拶した重茂を、道大はじろりと睥睨した。


「武蔵権守殿の弟か。――仕事の経験は?」

「雑訴決断所に務めていた兄の手伝いと、戦では着到帳の管理・軍忠状の手続きの補佐なら」

「では足利殿御一門および家人の軍忠状のとりまとめをお願いする。既に数多届け出があったが、まとめられていないのだ」

「あくまでまとめるだけで良いのですな?」

「未だ戦は終わっておらぬ。各々の軍忠をまとめることはできても、真偽の確認、恩賞充行・所領安堵の決定まではできぬ」


 それで話は終わりということなのか、道大はすぐに別の人と話し始めた。

 新入りに構っているほど暇ではない、ということらしい。


「お互い大変だとは思うが、頑張ってこうではないか」

「そういえば、盛継殿はなにを?」

「書状作成に必要なもの――紙や墨汁の手配、あとは証人の呼び出し等をしている。これがまた面倒でな」

「ああ、それは……」


 血は流れないが、神経は削られていく。

 そういう場所に、重茂は来てしまった。




 既に軍忠状は大量に持ち込まれていた。

 本来なら妥当性を確認して申請者に返却しなければならないが、今は戦の真っ只中である。確認できることには限界があった。

 故に、今は種類別にまとめて後日の手続きを速やかに行えるよう準備を進めておくしかない。


 どのようにまとめるかの指示はなかった。

 そこは重茂の裁量に委ねられている、ということなのだろう。


「とりあえず御家ごとに分けておくか。一門か家人かでも分けておいた方が良いだろうな――」


 足利一門は数が多い。尾張おわり足利・吉良きら畠山はたけやまを筆頭に、細川ほそかわ仁木にっきといった宗家に近しい一族から、やや距離のある一族までいる。彼らはそれぞれ独自に家人を抱えており、それぞれの御家を構成していた。

 よく知らない者はその一門の多さや構成のややこしさにつまずくが、幸い重茂は宗家だけでなく各一門の主だった面々のことは把握していた。立場上自然と知る機会が多かったのもあるが、持ち前の記憶力によるところも大きい。


「これは、太郎左の字だな。尾張殿のところのか……備中福山城のときのだな」


 名前だけ知っている者の軍忠状もあれば、身近な者たちの軍忠状も多い。

 どこか懐かしむような思いに囚われそうになる。しかし、そうなる度に『討死』という文字を見つけて現実に引き戻された。


 何度も顔を合わせたような者も、たくさん討ち死にしている。

 彼らの死は一種の軍忠として、こうやって記録に残されていくのである。


「弥五郎殿」


 いくつもの軍忠状を確認しているうちに、声をかけてくる者がいた。


「――四郎左」


 高四郎左衛門尉師冬もろふゆ。重茂とは昔馴染みで、兄弟同然の相手だった。

 臨時の大将として一軍を任されていたが、戦況の変化と軍の再編によって、先日ようやくその任を解かれた。


「ようやく、時間が取れたのです。やっとどうにか――できました」


 師冬が差し出したのは、とある男の軍忠状だった。


 比叡山延暦寺にこもる新田にった義貞よしさだ討伐のため、内外に様々な問題を抱えながら、最後まで勇敢に戦った大将。

 仏罰への恐れを乗り越え、他の将への敬意を忘れず、仲間を労わり、その身を犠牲にして戦い抜いた勇将。

 その男が過ごした苦難の日々に対する称賛が、その軍忠状には込められていた。


 男の名は、こうの豊前守ぶぜんのかみ師久もろひさと記されている。


「――」


 それは不意に来るという憲顕のりあきの言葉を思い出す。


 言葉にならないものが、胸の奥底から湧き出てくるような気がして。

 重茂は、しばしその書面に見入ってしまっていた。


 師冬も、なにも言わない。じっと重茂の様子を見守っている。


「……四郎左」

「はい」

「確かに承った。……かたじけない」


 師冬は黙って深々と頭を下げ、そのまま去っていった。


 周囲の喧騒は続いている。

 しかし、重茂の耳には何も入ってこない。


 他のすべてがどうでもいい。

 それくらい、目の前の軍忠状のことしか考えられなくなっていた。


「――かきしるす、もののふどもの、たかき名で、いとうれしきは、豊前の名なり」


 いつか詠んだ即興の歌。

 これは、嘘偽りのない本心から出たものだった。今更ながら、重茂はそれを思い出していた。


 もう、豊前の名を見ることはない。

 彼の軍忠は、これでおしまいなのだ。


「弥四郎。お前はよくやった」


 だが、と重茂は天を見上げる。

 そこに師久がいるわけではない。しかし、他にどこを見れば良いか分からなかった。


「だが――これで終わりなのだな」


 夏の青空は、胸に穴を穿つくらい青々としていて。

 なんだか無性に、その中に消えてしまいたい気持ちになった。

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