第33話「重茂、南へ(参)」
河内の情勢調査も兼ねて、せわしなく各地で話を聞いて回った。
「どうも活気がありませんな。河内と言えば流通も盛んで人々も活気づいていると聞いておりましたが」
聞き取りを繰り返す中で、治兵衛が複雑な面持ちを浮かべた。
河内は帝方に味方する楠木党の根拠地である。
ただ、だからと言って手放しに喜ぶことはできない。
彼らは皆、やせ細っていた。
ここ最近は飢饉が続いており、それに加えて朝廷からの徴税や戦まで発生している。
民は明らかに搾取され過ぎていた。為政者側が要求するものに応えるだけの余力がない。
「山門との戦、早めに終わらせなければ危ういかもしれんな」
「というと?」
「物流が盛んな河内でこの有様なのだ。近隣諸国も同様――あるいはもっと酷い状態なのかもしれん。となれば兵粮の確保が難しくなる。近隣で掠奪しようにも、できるものがないとなれば――軍勢の維持ができなくなる」
足利は大軍を率いて京まで上ってきた。
おかげで帝の軍勢を圧倒することはできたが、大軍には大軍のデメリットもある。
「それは山門も同じでは?」
「奴らは自分たちの本拠地にいる。日頃からの蓄えがあるなら、我らよりはずっと長持ちするだろうよ」
足利の軍勢も、九州・四国等でかき集めた兵粮はある。
ただ、それでも半年は持たないだろう。九州や四国でも帝方との戦は続いているので、新たに送ってもらうというのもあまり期待はできない。
「それで、楠木一族の居場所は分かったのか」
「はい。
「城にこもっているわけではないのか」
正成が討たれたという報告は既に入っているはずだった。
であれば、軍勢を率いて要害の地に立てこもるという選択肢もあり得る。
「兵は募っていたそうですが、集まりは芳しくなかったようです。どこも人が足りていないようです」
「この様子では、さもありなん」
楠木一族のことを聞き回っていたせいか、少し前から重茂たちは後をつけられていた。
つけているのは武士の郎党と思しき者たちである。と言ってもせいぜい数人程度で、こちらに手を出してくる様子もない。
あまり尾行が上手いわけでもなく、腕っぷしも立ちそうにない。重茂たちも気づいていながら放置していた。
だが、楠木館に向かおうとするところでにわかに人が増えた。
「待たれよ」
楠木館の手前で、館からやって来た騎馬武者に止められた。
後ろは後をつけてきた者たちで塞がれている。
「この先にいかなる御用がおありか」
重茂は郎党に背負わせた桶を指し示した。
「我が名は
尊氏の名を出すと、周囲の男たちは色めき立った。
憎き主の仇である。その使いである重茂に向ける眼差しは、自然と憎悪が混じったものになる。
しかし、眼前の武士は違っていた。
「足利の、重茂殿と仰せられたか」
「いかにも」
「某は
「承知した。ここで待たせていただく」
重茂たちは、近場にあった岩にゆっくりと腰を下ろす。
それを見届けると、正房は男たちに何かを指示し、自らも野に腰を下ろした。
「高殿は湊川で戦われたそうだな」
「いかにも。神宮寺殿は?」
「戦った。戦っているうちに殿とはぐれて、新田軍と合流した。その後も戦ったが、結局敵わなかったな」
正房の視線は、重茂たちが持ってきた桶に注がれている。
中身が何であるのか、察しているのかもしれなかった。
やがて正房の指示を受けた男が、一人の若者を連れてきた。
湊川の戦いで正成が重茂に託した若者である。重茂は彼を、戦いが終わった後にすぐ河内へと帰していた。
「
「はい、間違いありません」
若者――
届け物は、早々に済ませた方が良さそうだった。
館の中は僅かな郎党と女子供がいるばかりだった。
重茂たちを尾行していた男たちが警戒するように周囲を固めてはいるが、それ以外の住民は皆どこか怯えた様子である。
板敷の間に通された重茂たちの前に若武者と女性が現れたのは、館に到着してしばらく経った頃のことだった。
楠木正成の嫡男・楠木
両人とも表情は硬い。重茂の持参したものが何であるか、既に予測がついているのだろう。
重茂は使者として礼を失さぬよう、頭を下げて改めて名乗りを上げた。
「主の命により、楠木判官殿の
正行の表情から悔恨の色が滲み出てくる。
それが目から流れ出る涙になるまで、そう時間はかからなかった。
酷なことだとは思いつつ、重茂は正成の首が治められた首桶を恭しく差し出した。
「お改めくださいますよう」
重茂が差し出した首桶を、神宮寺が正行の前まで運んでいく。
震える手で桶を開けた正行の表情は、完全に凍り付いた。
悔恨の念すらない。そこには、何の感情もない。すべてがこの若武者の中から消え失せていた。
「確かに、殿の御首級です」
気丈に答えたのは、正行の母――正成の妻女である。
彼女も表情は青ざめていたが、まだ若い惣領の母として、使者の前で情けない姿を見せるわけにはいかないのだろう。
重茂は、敬意を示すため黙って彼女に深々と頭を下げた。
しかし、用件はこれで終わりではない。
重要な仕事が、まだ残っている。
「実は某、もう一つ主から命を受けております」
「……申されよ」
これ以上母に任せきりにはできない。
そう思ったのか、絞り出すように正行が声を発した。
「我が主、足利尊氏は帝や楠木殿との戦いを避けることを望んでおりました。我らが討ち果たすべきは朝敵・
重茂の、足利の真意を測るかのような視線が集まってくる。
今口にした言葉には方便が多数含まれている。しかし、尊氏が楠木党との争いを望んでいないのは本当だった。
「帝への忠義を尽くしてきた楠木党に、足利へ寝返れとまでは申しませぬ。帝との戦いの最中、そのようなことをすれば楠木党の名は地に堕ちましょう。それは正成殿の生き様を愚弄することになりかねませぬ」
「無論だ。我らは足利には屈さぬ」
悲愴な面持ちで正行は言葉を吐き出した。
それは現実を鑑みて計算した結果の言葉ではない。それだけに真情に迫ったものだと言える。
「ただ、これまでの戦いで楠木党も相当な被害が出ているものと推察いたします。足利としても、一刻も早く新田を討ち滅ぼし、帝と和解する道を探りたい。……いかがでしょう。一時、停戦の約定を交わしてはいただけませぬか」
足利も楠木も、今互いに戦っている余裕はない。
この話は、楠木にとってもそう悪い話ではないはずだった。
正行も、この提案には考え込む様子を見せた。
急遽後を継ぐことになったとは言え、今は彼が楠木党を率いる惣領である。
自分一人の感情で暴発しないだけの分別はついている、ということだろう。
「――正直なところ、河内にいる楠木党以外の武士団は、もはや私たちの統制下にはない」
しばらく迷った末に、正行は自分たちの現状を告白した。
「我らは小さいのだ、重茂殿。父は鎌倉との戦で武名をあげ、帝の元で栄達した。だから皆従った。私は違う。楠木判官の倅というだけで、何者でもない。今、この国の武士団は足利に敵対すべきかどうかで割れている」
「楠木党とだけ約定を交わしたところで、あまり意味はないと?」
重茂の問いに正行は頷いた。
楠木正成は一代で急速に勢力を伸ばした。
それだけに、累代の家人というものは少ない。
河内国で正成に従っていた武家の多くは、楠木氏に臣従したのではなく、正成という一人の英傑に従っていたのである。
無論、正成が築いた遺産はある。それを引き継いだ正行は、今後少しずつ河内での影響力をつけていくのかもしれない。
だが、今はまだそこまでの力がない。
正行は口にしないが、楠木党の募兵の成果が出なかったのは、既に他の武士団に人を持っていかれたせいかもしれなかった。
「ですが、足利との戦は避けたいところですな、正行殿」
神宮寺正房の言葉を、正行は肯定も否定もしなかった。
正行個人としては否定したいところだろうが、楠木党の惣領としては否定できない部分もある。
「――停戦について確たる約定を交わすことは、やはり難しい。しかし、我らは動こうにも動けぬ。戻って尊氏殿にそう伝えられるが良い。楠木を相手にしたくないのであれば、急ぎ帝と和睦なされることだ、とな」
十全な回答とは言い難かったが、正行としてはこれが最大限の譲歩なのだろう。
ここらが引き際である。重茂は正行に抗弁することなく「しかと伝えます」と応じた。
正行は首桶を大事そうに抱えて立ち上がる。
そして、重茂を一瞥して激情を抑えながら言い放った。
「重茂殿。我ら楠木はこれで終わりではない。いつかまた相見えようぞ」
「……」
正行の想いをいなすように、重茂は黙って頭を下げる。
面を上げたとき、正行とその母の姿は消えていた。
「許されよ、高殿。正行殿が失ったものはとても大きい。今は、あれが精一杯なのだ」
「仕方がないのだろう。ただ、一方で俺は正行殿が少し羨ましい」
怪訝そうな表情を浮かべる神宮寺正房に、重茂は続けた。
「俺は、おそらく父が死んでもあそこまで悲しむことができぬ。――正成殿は、どうやら良い父親だったようだ」
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