第14話「鞆の浦へ」

 瀬戸内海を、船団が往く。

 足利あしかが尊氏たかうじ旗下の軍勢は、備後国びんごのくにともの浦に向かっていた。


 同地は遠き万葉集まんようしゅうの頃から『潮待ちの港』として知られる水運の要所である。

 瀬戸内海の中心に位置するこの浦は、満潮のときは東西の船を吸い込むように引き寄せ、干潮のときは吐き出すように押し出していく。潮の流れを用いた航海では、鞆の浦まで行き鞆の浦から発つというのが常識になっていた。


「なんだ弥五郎、悪いもんでも食ったか」


 船の端で重茂しげもちがぐったりしていると、並走していた船からひょっこりと師泰もろやすが顔を出してきた。

 調子を崩している様子は見受けられない。世の中は不公平だと、重茂は神仏に文句を言いたくなった。


「船酔いだ、放っておいてくれ」

「なんだ、またか。お前、九州に落ちるときも酔ってたな」

「どうも俺は、水に嫌われているような気がする」

「考えすぎではないか。お前以外にも酔ってる奴は多いぞ、曽我そが師助もろすけとか、立花たちばな殿とか」

「いらん、その情報は。大事なのは他の誰が酔っているかではない。俺が酔っているかどうかだ」


 余計な情報を脳にしまいこみながら、重茂は嘔吐感と必死に戦っていた。

 今のところ備後国の辺りまでは足利に味方する者が多く、合戦が起きる様子はなさそうだが、この先も海路で往くのは危険な気もした。


(陸路だ。人間は陸で生きるものだし、歩いていくのが道理というものだろう)


 自分でも無茶苦茶な理屈だと分かってはいるが、何かしら考えていないと辛いので、あれこれと益体もないことを思い浮かべてしまう。


(しかし)


 と、師泰と同じ船に乗っているであろう直義ただよしのことを思い浮かべる。


(こういう状況で直義殿が狙われたら、なかなかにまずかろうな――)


 容易に逃げられないし、助けに行ける人数も限られてしまう。

 そういう不安から生じた、埒もない想像である。


「兄上、殿や直義殿の警固は抜かりないか?」

「ああ。殿には五郎に弥四郎・重能しげよしが、直義殿には俺や憲顕のりあきがついているからな」


 ちょうどそのとき、郎党を伴って上杉うえすぎ憲顕が姿を見せた。

 彼もまた、師泰同様平時と変わらぬ様子である。どことなく裏切られたような心地だった。


「鞆の浦では四国・山陰・山陽地方の味方が集結する手筈になっている。陸路と海路を分けられないか、直義殿に提案してみようか」


 重茂の様子を見かねてか、憲顕がそんなことを言った。

 もしその案が通るなら、是が非でも陸路の方に回してもらいたい。

 そう思いつつ、重茂はある違和感を抱いていた。


 憲顕や師泰の周囲には、彼らの郎党が何人かいる。

 いずれも、足利の軍勢としてずっと一緒に戦ってきた者たちだった。

 名前までは逐一把握していないが、顔は全員覚えている。


「……兄上」

「なんだ?」

「そこの者は、誰だ?」


 師泰の後方で弓矢を背負った軽装の郎党。

 格好は他の者たちとまったく同じで、実に自然だったが、重茂はその男の顔を初めて見た。


 男は重茂が視線を向けたときから、徐々に師泰と距離を取り始めている。

 師泰が振り返ると、他の郎党たちの中に紛れ込もうとした。


「おい、お前たち。こちらを向け」


 師泰は周囲にいた郎党たち全員に声をかける。

 それまで雑談していた郎党たちは、揃ってきょとんとした様子で師泰を見た。

 重茂が指摘した男も、不思議そうな顔を浮かべて同じように師泰の方を向く。


「……なんだ、確かにお前は見たことない顔だな?」


 師泰に圧をかけられても、男は表面上動じた様子をみせなかった。

 はて、と言わんばかりに首をかしげている。


「どこの者だ、言ってみろ」

「へえ。長門国ながとのくにの住人、すぎ太一郎たいちろうと申します」

「なぜ長門の者がこの船に乗っている。ここにいるのは足利縁の者ばかりのはずだぞ」


 師泰や憲顕の郎党は、いずれも足利の所領――下野しもつけ上総かずさ三河みかわ等の住人ばかりである。

 彼らは足利と何代もかけて信頼関係を築いてきた。だからこそ尊氏・直義の船に同乗できたのである。


「そうなのでございますか。それは申し訳ありませぬ。どうも間違えてしまったようで――」


 頭を下げながら太一郎と名乗る男が弁明する。

 本当に間違えて乗り込んでしまっただけではないか。そう思わせる話しぶりだった。


「そなた、本来は誰の手の者だったのだ」

厚東こうとう様でございます」


 突如、船を挟んで重茂が問いかけてきたことに面くらいながらも、太一郎は丁寧に応えた。

 厚東氏は長門国を代表する大身の武士である。この場合、出て来て当然の名前だった。


「そうか。では後ほど厚東殿に確認してもらおう。すまぬがそれまではこちらの船で身柄を拘束させていただくが、それでも良いかな」


 真偽の確認ができない以上、太一郎のことを信じることはできない。

 少なくとも、直義の船にそのまま乗せておくことは不可能である。


 本当に問題ないなら、重茂の提案を素直に呑むはずだった。


「へえ、それは――お断りいたします」

「なに」


 腰をかがめていた太一郎は、そのまま膝を折り曲げると一気に船外へと跳躍し、そのまま海の中へと飛び込んでいった。

 一瞬のことである。重茂は当然として、近くにいた師泰や憲顕ですらまったく反応できなかった。


「ちっ、抜かったわ。最初から問答無用で縛り付けておくべきだった」

「仕方ありませぬよ。今は曲者を追い出せたことを喜ぶべきでしょう」


 郎党たちは船から身を乗り出して太一郎の姿を探しているようだった。

 おそらくは見つからないだろう。断ると言ってからの迷いなき動きは、水練に相当の自信がなければできないものだった。今頃は大量の船の影に隠れながら、どこか陸地へと逃げているに違いない。


「何の騒ぎだ」


 それまで船の反対側にいたのだろう。

 直義が、郎党たちを引き連れて姿を現した。


「曲者が忍び込んでいたようです。逃げられてしまいましたが」

「ほう、この直義を狙ってのことだろうか」

「他に理由はありますまい」

「重茂殿がおらねば気づけなかったかもしれませぬ」


 師泰の報告に、憲顕がそっと補足を入れた。

 重茂の記憶力の良さは直義も知っている。憲顕の短い言葉で、なにが起きたのか察したようだった。


「そうか。重茂には礼を言わねば――」


 そこまで言いかけて、直義は言葉を止めた。

 視線の先には、船から身を乗り出して盛大に嘔吐する重茂の姿がある。

 礼を聞いているような余裕はなさそうだった。


「……この度の件については、鞆の浦についてから改めて話を伺うとしよう。それまでは皆、抜かりなく」

「ははっ」


 直義の命に応じる師泰たちの横で吐き続けながら、重茂はある疑問を抱き続けていた。


(長門国――誰の差し金だ?)




 それから数日後。

 足利の軍勢が鞆の浦に入り、今後の方針を話し合っている頃、和泉国いずみのくにで二人の男が太一郎の報告を聞いていた。


「なるほど。高師泰の弟か」

「御存知か」

「言葉を交わしたことはない。鎌倉で何度か顔を見たことがあるかもしれない。その程度の縁だが――物覚えが良いとの噂は、確かに聞いたことがある」


 フゥム、と重く息を吐きだしたのは法体の男だった。

 眼光鋭く、目が合った者に噛みつきそうな荒々しい闘気が全身から溢れ出ている。

 とても出家した身には見えない、異相の男だった。


「貴殿は?」

「足利殿と交流があったのは兄の方でな。高師直こうのもろなお・高師泰の名は知っているが、その弟までは知らなんだ」

「厄介な者というのは、思わぬところにいるものだ。貴殿の兄のように」

「今更そのことを蒸し返されるのか?」

「俺はただ褒め称えただけだ。妙な捉え方をするな、楠木くすのき殿」


 笑い飛ばす法体の男に対し、正面の男――楠木正季まさすえは苦い顔つきを浮かべた。


「分かっているとは思うが、今は互いに遺恨はなしだ」

「当然だ。でなければこんなところまで出向いてきたりはせぬ」

「そうか、失礼した。どうも俺は兄に比べると人間ができていなくてな。細かいことが、あれこれと気になる性質なのだ」


 正季は僅かに肩の力を抜いた。

 今をときめく楠木正成まさしげの弟ではあるが、彼は兄同様、英雄豪傑からは程遠い風体をしている。

 自分はただ河内国かわちのくにの男であれば良い、と思っていた。


 正季からすると、自分などより法体の男の方がとんでもない存在に思えた。

 なにしろこの男は、かつてこの国最大の勢力を誇った一族の嫡流に等しい存在なのである。


「それでどうなさるのだ、恵清えしょう殿――否、北条ほうじょう泰家やすいえ殿とお呼びすべきか」


 問われた法体の男は「恵清で良い」と鼻を鳴らした。

 後醍醐ごだいご天皇に滅ぼされた鎌倉幕府の事実上の支配者、北条一族の生き残りの一人。

 先年後醍醐天皇に対して決起した、北条時行ときゆきの叔父にあたる人物である。


「北条泰家は死んだ、ということにしておかねば帝は北条の降伏を承知すまい。俺は帝を殺そうとした男だからな」


 当初、恵清ら北条残党は後醍醐政権を倒して鎌倉幕府を再建しようと考えていた。しかし、足利を筆頭とする後醍醐政権下の武士たちによって北条の残党は次々と討たれた。

 恵清は最後の賭けとして、後醍醐天皇の暗殺を決行し、それに合わせて甥・時行を挙兵させる計画を練った。暗殺は失敗したが、時行の挙兵は『足利と後醍醐の分裂』という思わぬ成果を生んだ。


 これで北条氏の勢力が一定数残っていれば、足利・後醍醐双方を打ち倒して復権を狙うこともできたのだろうが、このとき北条氏の力は既に尽きようとしていた。

 行き詰まった北条の残党は、足利の傘下に入るか後醍醐天皇に降るかを選ぶしかなかったのである。


「……では恵清殿。これからどうされるおつもりかな」

「その弟――弥五郎重茂とか申す者がおっては、我が手の者を送り込んで直義めを討ち取るのは難儀であろう。先にその重茂を討つか、あるいは戦場で奇襲をかけるか」


 そこまで言って、恵清はゆらりと立ち上がった。


「いずれにしても、ここから指示を出していたのでは不都合が多い。俺はこれから西へ向かう」

「今、西国は足利に靡く者が多いと聞く。危険ではないか」

因島いんのしまなどには我らに味方してくれる者もいる。この太一郎などもそこの出身よ。身の潜める場所というのは存外困らぬものだ」


 太一郎が一段と深く頭を下げる。

 この男は、恵清が地頭職を得ていた因島を現地で支配していた武士の一族らしい。


「時行帰参の件、くれぐれもよろしく頼むぞ」

「承知した。楠木の名にかけて約束しよう」


 正季は、恵清・太一郎と共に密会場所である小屋から出た。

 眼前に広がるのは、瀬戸内海へと繋がる広大な海。

 聞こえてくるのは、荒々しい波の音。


 恵清たちは海に向かって真っすぐ歩いていく。

 世が世なら天下に名を轟かせていたであろう男の後ろ姿。

 それを見送りながら、正季は己の行く先に一抹の不安を抱かざるを得なかった。

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