第13話「狙うは彼の首」
華やかなる都の中にあって、世俗の喧騒が及ばぬ
帝。
後に
庭から差し込む僅かな陽の光が、後醍醐の相貌を微かに映し出している。
鎌倉幕府との戦いに身を置いた経験からか、彼には帝でありながら武者を思わせるような気配を持ち合わせていた。戦乱の中で伸び続けた威容ある髭は、その象徴ともいえるだろう。
しかし、そんな後醍醐の眼差しは輝きを失っていた。
すべてを支配するはずの男は、深い憂いに見舞われていたのである。
脇に控える近習たちも、皆どこか不安そうな表情を浮かべている。
恐怖の根源は、西国にあった。
「――
後醍醐の正面には、何人もの武者がいる。
その中の一人が、呼びかけられて面を微かに上げた。
後醍醐と鎌倉幕府の戦いにおいて、雲霞のごとき鎌倉軍を
彼の戦ぶりは、諸国の武士たちが鎌倉幕府に向けていた信頼感を大きく揺るがし、やがて時代を変えた。
「直答を許す。諸国の乱について、改めてそちの意見を聞きたい」
「……」
正成は、茫洋とした表情のまま口を閉ざしていた。
そんな彼の態度に、後醍醐の近習たちが険しい視線を向ける。
正成は元々「河内の武者」としか言いようのない存在で、帝の側に仕える立場としては、お世辞にも良い血筋とは言えない。彼の存在価値は、ひとえにその卓越した戦略家としての実力にあった。
その力を頼んでの後醍醐の問いかけである。答えないのであれば、正成の存在価値は紙切れ以下になると言っても良い。
「楠木殿」
「――お静かに」
咎めたてるような近習の声を、正成は片手で制した。
「それがし、必死に考えてございます。本日こちらに来るときも、ずっと懸命にない知恵を働かせて考え込んでおりました」
「妙案は、浮かんだか」
「うーん」
正成はおもむろに腕を組んで、首を大きくひねった。
その動き方はどこか狂言めいていて、見ようによっては相手を馬鹿にしているようにも取れる。
しかし、正成の表情は真剣そのものだった。冴えない風貌で威圧感の欠片もなさそうな男だが、その口が紡ぎだす言葉には妙な力がある。
「やはり、足利殿を叩き潰すよりほかにはないですな」
「
「
と、そこで正成は隣にいた武者に視線を転じた。
まだどこか若さを残したその武者は、名を菊池
尊氏たちと多々良浜で戦った菊池
「国許には弟が残っておりますが、まだ若輩者。足利殿の相手は、荷が重いかもしれませぬ」
「――正確な報告が入らないうちは、生きていると見た方が良いでしょうな」
正成の言葉に、場の空気が重くなる。
京はつい数ヵ月前、足利勢と後醍醐の軍勢による戦禍を被ったばかりである。
九州に逃れる寸前、尊氏は後醍醐方の武士・
尊氏が生きているなら、京に戻ってくるに違いない。
そうなれば、この都は再び戦場になる。
「尊氏を討てるか。正成」
「討てるかもしれませぬ。そこは、まだ見込みがあります。問題はその先ですな」
「問題……か」
「左様、その先。諸国の乱は、ますます勢いを増すかもしれませぬ」
「世を乱しているのは、足利殿ではないか。足利殿を潰せば、凶徒どもも鎮まるであろう」
近習の一人が異論を唱えると、正成は鷹揚に頷いてみせた。
「今、もっとも世を乱しているのは間違いなく足利殿でございましょう。しかし思い出してくだされ。そもそも此度の乱は、鎌倉殿の遺児――
もともと尊氏は、後醍醐に敗れた
尊氏が諸国の乱の元凶というわけではない。尊氏が朝敵になる前から、反乱は各地で起きていた。
「正成の申すところはもっともである」
場の空気を抑えるかのような後醍醐の声に、近習・武者たちは口を閉ざした。
「だが、今は先のことを話しても仕方がない。皆、まずは足利討伐に全力を注げ」
「はっ……」
後醍醐の言葉に、正成たち武者一同は深く首を垂れる。
その場は、それで解散ということになった。
それからしばらくして、後醍醐は一人庭先に降りた。
武者たちも近習たちも、皆その場を去っていて、残っている者は誰もいない。
「つまらぬ芝居に付き合わせたな」
「必要なことかと、存じます」
庭の小池の端にある大きな岩。その影から、正成が顔を覗かせた。
「皆、目先のことで手一杯になっている。尊氏一人を倒せば諸国の武家は観念して従うと見ているのだ」
「問題の本質を忘れないようにする。それは、大事なことでございましょう」
「世を鎮めるという意味では、以前そちが述べた案の方が良いのだろうな。義貞を捨て、尊氏を取る」
「過ぎたことを申し上げました」
尊氏が後醍醐方の軍勢に追い落とされて程ない頃、正成は後醍醐に尊氏との和睦を提案した。足利方が義貞討伐を名目に掲げている以上、義貞には犠牲になってもらう必要がある。しかし、それだけの価値はある案だった。
諸国の乱を鎮められるのは、足利尊氏以外にいない。仮に義貞が尊氏を倒したとしても、義貞が尊氏の代わりを務めることはできない、という判断である。
「――朕も、どこかでそのことを考えていた。義貞も悪い男ではないが、世を鎮めるに足る格は持ち合わせておらぬ。義貞の持つ格というのは、朕が与えたものに過ぎぬ。それだけでは、武家は靡くまい」
尊氏が持つ力は、尊氏個人によるものだけではない。
鎌倉幕府が誕生してから、武家というものが生まれてから足利一族が代々培ってきた力。それを継承しているのが足利尊氏という存在なのだ。武家はその足利歴代の力にこそ服す。
それは、新田義貞個人ではどう足掻いても手に入らない力である。そして、それは後醍醐すら手に入れられない力でもあった。
「確かに尊氏を受け入れれば天下静謐は叶えられるであろう。新田の者たちも、義貞の子息を後々取り立ててやるという形で報いれば良い。だが、無理だ。尊氏一人なら朕が抑えることもできようが――」
「――
「然り。あの者がいる限り、朕は尊氏を受け入れることはできぬよ」
後醍醐と尊氏は、どこか相通じるところがあった。
互いに傍流の身として生を受け、嫡流たる兄の死によって家を継ぐことになった。
公家と武家。率いる者こそ違えども、二人はどこか自分に似たなにかを相手に見出していたのである。
だが尊氏は、北条時行に攻め込まれた直義を救うため、後醍醐の命を待たず鎌倉へと進発した。
これを、後醍醐は許すつもりだった。しかし、直義は後醍醐の意向に逆らう形で尊氏を鎌倉に留めた。
そこから、後醍醐と尊氏の行き違いが始まったのだ。
「尊氏離反の元凶は直義にあると言っても過言ではない。加えて、尊氏は直義のためなれば朕の命令をも無視するところがある。直義がある限り、朕と尊氏の和解は不可能である」
「となれば、取り得る手立てはそう多くはありませぬな」
正成の視線を受けて、後醍醐は沈思した。
どういった選択肢があるのか。それは、理解しているつもりでいる。
「……尊氏に勝てるというのは、偽りではないな?」
「見込みがあるのは間違いありませぬ。ただ、厳しい戦になりましょう」
「戦の最中、直義を討ち取ることはできるか」
「我らが直義殿を討ち果たせば、尊氏殿はこちらに靡かなくなります」
「下手人は、どうにでもできよう」
後醍醐の瞳が冷たい色を帯びた。
帝王たる者が持つ、無情さを抱えた冷たさだ。
「尊氏殿が、惜しゅうございますか」
「そちの提案を、何度も考えた。朕が帝位を守りつつ世を鎮めるためには、やはり尊氏が必要だ」
「そのための障害を取り除く、ということでございますな」
「朕を惨いと思うか、正成」
「いささか」
「朕も、そう思う。だが、惨いことをしてでも為さねばならぬ」
後醍醐は正成から視線を外し、植え付けられていた木の枝を力強く握りしめた。
その手のなかで、枝はへし折れる。後醍醐はそれを悲しそうに見つめた。
「朕は、ただこの手に皇位を掴みたかった。兄の子が良き年になるまでの間だけだなどと、我慢できなかった。だから鎌倉に訴えた。訴えが届かぬと分かり、強引な手段を取った。だが、まさか鎌倉が――北条が本当に滅びるとは思わなんだ」
後醍醐が手を開くと、折れた枝は池の中に落ちた。やがて、頼りない様子で浮かび上がる。
彼は、本来中継ぎの天皇だった。兄が亡くなり後を継いだが、兄には既に子がいた。いつかは皇位を引き渡す。それが廷臣と鎌倉幕府の総意だった。それに納得できなかった。最初はただそれだけだったのだ。
「朕は浮かれていたのだろう。武家は弱く、簡単にひれ伏す。これで我が手に皇位を――この国を得ることができたと。だが、それは思い違いであった。皮肉なものだが、尊氏が朕のもとを去ったことで、ようやくそれに気づくことができたのだ」
「気づいた上で、なにを望まれますか」
後醍醐は枝を失った木を撫でながら、池に落ちた枝を拾い上げた。
正成は、その様子をじっと見つめている。
「古来の朝議に限界がきて、武家というものが生まれた。武家に限界がきて、北条が滅びた。今、世は公武――公家と武家が共に力を携えていく段階に来ている」
大きく両腕を広げ、後醍醐は高らかに叫ぶ。
「これは試練だ。足利の力を借りて武家を倒しただけでは、不十分だった。足利をこの手で制し、公武すべてを本当の意味で従わせてこそ、これからの世を導くことができる。朕はその真なる導き手にならねばならぬ。それが、世を一変させてしまった者としての責務である」
ぎろりと後醍醐は正成を見た。
かつて皇位を望み、鎌倉幕府に無謀極まりない戦を仕掛けたときのような目つきだ。
「惰眠を貪るだけで人は成長せぬ。考え、動いてこそ進歩する。公家をいかにして従えるか。武家をいかにして従えるか。朕の親政において省みる点はいくつもある。それを検討し、新たな段階へと進めることができるのは、朕のみである。余人に任せては、その分だけ政が――世の進みが遅くなる」
そこまで言い切って、後醍醐は口を閉ざした。
言うべきことはすべて言った、ということなのだろう。
正成はしばらく沈思し、やがてゆっくりと口を開いた。
「帝は、すべての武家を従えると仰せでしたな」
「うむ」
「それは、その枝も同様でございましょうか」
言われて、後醍醐は手にしていた枝を見つめた。
手放しても良い。そう思う反面、握り締めた手は石になったかのように動かなかった。
「同様である」
「されば、その枝を直義殿の首に突き立てましょう」
普段と変わらぬ穏やかな顔つきのまま、正成は事もなげにそう言い放つ。
その言葉の意味するところを察して、後醍醐はゆっくりと頷いた。
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