禊(みそぎ)の雨が降りる

 窓の外には、ブルーグレーの柔らかなカーテンが夜空に幕を下ろしていた。人払いされた城の食堂で、燭台の炎がオレンジ色の光る波を紡ぎ出す、長いテーブルに用意された夕食の上へと。


 食器のぶつかる音が小さく響いていたが、ラム肉のソテーの皿に、ヒカリのフォークとナイフとふと置かれた。


「神か……」


 付け合わせの野菜の上にため息をもらすと、夕日をにじませた海のようなグラスの水を一口飲んだ。ローズマリーの香りを楽しんでいたリンレイは手を止め、顔を上げて、


「どうかしたか?」


 数人が間に座れるほどの距離があるテーブルを挟んで、冷静な水色の瞳とクルミ色のそれは一直線に交わったが、ヒカリは膝の上に力なく手を下ろすと、薄手の袖がふわふわと頼りげなく舞った。

 

「自分が信じていない存在になるなんて……」


 科学技術の発展した惑星で、人身御供ひとみごくうの生活。そこから救い出してくれる存在は何もなかった。


 対するリンレイは宗教ばかり、神に祈りを捧げる日々。マッシュポテトの滑らかさを味わい、興味深そうに聞き返す。


「なぜいると思わぬ?」

「神さまがいるのなら、なぜ戦争は起きるんだい?」


 ヒカリの声はどこまでも冷ややかだった。ナイフとフォークがテーブルの上にコトンと置かれると、リンレイは頬杖をついた。


「そうだな? 人の心の成長を望んでいらっしゃるのかもしれん」

「人の心の成長?」


 夏の食卓に雪が積もったような白い花は、花瓶の中からふたりの話にそっと耳を傾けているようだった。


「そうだ。何もかも神が人間にしていては、それこそ操り人形で、自身の意思がないではないか? 戦争から何かを学び、同じことはしないように、人間に努力をして成長して欲しいのではないか? 神の御心みこころは神のみぞ知る、だがな」

「そんな考え方もあるんだな」


 ヒカリはそう言って、腕組みしていた手を解いた。青やピンクの彩りの花びらが、晴れ渡る盛夏の空へ乾いた風に吹き上げられ、舞い踊っているような鮮やかなサラダへと、フォークを伸ばす。


 それと入れ違いに、リンレイはグラスに手をかけたまま、水面みなもに映る自分の顔を見つめたっきりになった。


「私もあることを考えておって、答えを見つけようとしているが、どうにも出ないことがある」

「どんなことだい?」


 心地よい野菜のシャキシャキ感と、大地と太陽が作り出した恵みの青が程よい苦味が、ヒカリの中に広がる。


 リンレイがグラスをぐるぐると回すと、ろうそくの炎をキラキラと反射させ、波間に揺れる夕日のようだった。


「昔からの言い伝えで、双子は凶事だというものがあってな。それが原因で戦争などというもになってしまったからな。これをどういい方向へ解釈すればいいかと悩んでいてな」


 文明が発展していないばかりに、抜け出せない迷路に入り込んだままの少女に、少年がさっきとは逆に手を差し伸べた。


「それは違う。医学的に説明がつくよ。不吉でも何でもない」


 クズリフ教という囲いの中で生きてきた教皇は、異世界から来た少年に聞き返した。


「医学的とは何だ?」

「生物学的っていう意味だ」

「生物学的?」

「身体的に説明がつくってことさ」

「では、どうなると双子が生まれるのだ?」


 聞き返したリンレイの前には、フライドエッグが皿にふたつ盛られていた。それを間にして、生物学的に真面目にヒカリの説明が始まる。


「精子と卵子が受精する時に、ふたつ同時になると、双子が生まれるんだ」

「受精とは何だ?」


 がしかし、途中から話がおかしな方向へ転がり出した。


「それは、男と女がセック◯する――」

「せっ◯すとは何だ?」


 不思議そうに小首をかしげ、リンレイは途中でさえぎった。またからかっているのかと、ヒカリは一瞬思ったが、夕方前の騒動を思い返すと、文句も引っ込んだ。


「本当に知らなくて聞いているんだよな……」


 燭台の明るさだけの食堂。十六歳の少年と少女がふたりきり。話の内容は、教皇にとっては神秘の世界だが、神の御使いにとっては、れっきとしたR17である。続ける言葉がどれを選んでも恥ずかしいものばかりになり、ヒカリは口をつぐんだ。


「…………」


 リンレイの瞳は手前に置いてあった卵から、遠くに座っているヒカリへと映った。


「説明がまだだが、どうした?」


 少女がやけに純真無垢に思えて、自分がよこしまな存在になった気がしたが、少年は小さく咳払いをして、


「あ……男と女が結びつくってことだな」

「そうか。素敵なことだ」


 世界にひとつしかない宝物でももらったように、リンレイは珍しく微笑んだ。色のついた話をしているというのに、何のけがれもなく素直に受け入れた、大人たちを相手に駆け引きをする女教皇を前にして、ヒカリはボソボソと言ったが、その顔はどこか嬉しそうだった。


「あどけない少女みたいに心が澄んでいるのに、僕を論破するんだから、君は本当におかしな人だ」

「何か言ったか?」


 花瓶に飾られた花を、花嫁が持つブーケに勝手に置き換えて、夢見心地で見つめていたリンレイは我に返った。


 ヒカリは答えもせず、細い指先で後れ毛を耳にかける。


「とりあえず、それは置いておこう。とにかく、自分の存在を否定するのはおかしいってことを言いたかったんだ」


 虫の音と少し湿った夜の風に、リンレイの声が乗る。


「なぜだ?」

「すでに存在しているという事実が起きている。それを否定したら、理論的に説明がつかないじゃないか? 矛盾が生じる」


 哲学者みたいなことを言う少年。少女は普段自分が使いもしない言葉で、論破してきたヒカリに、正直な気持ちを口にした。


「理論……事実? 面白い考え方をするんだな」


 小さい頃からあった、出来るだけ無駄のない――合理的な考え方。それなのに、でこぼこ道みたいな高低差のある、無駄な思考回路をしている少女に言われるとは、ヒカリはカチンと来て、言い返してやった。


「君に言われるなんて、心外だな」


 さっきまでは、大人にも通用しそうなことを言っていたのに、感情をあらわにしているところを見て、リンレイは可愛いと思った。


「ヒカリは知識があって頭はいいが、勝ち負けにこだわるところは子供だな」

「からかったな?」


 氷のやいばで刺すような視線を向けてきたヒカリに、テーブルの向かい側で、リンレイは両手を大きく横へ振った。


「違う。この気持ちを表す言葉が見つからぬが、お前と神に感謝する。こうやって出会えたから、楽しい時間を過ごせるということをな」


 ふたりの間にあった、ろうそくの炎が心なしか明るく温かくなった気がした。


    *


 ブルーサファイアのような月が夜空を彩り、近くを流れている小川で、時々魚が飛び跳ねては、水音を向日葵ひまわりのように鮮やかに残してゆく。


 食後のベランダで、ハンモックの独特の揺れと包容力に身を任せ、普段よりも遠くに空があるのに、浮いているというミスマッチ。視界に映るのは、青い月と星空ばかり。


 そこへ、少しくぐもったリンレイの声が入り込んできた。


「人は弱いと知っているか?」

「どんな意味でだい?」


 遊線が螺旋を描く独特の声は、空へ少しこぼれ落ちるが、ほとんどは自分の身へと降り注いた。リンレイは起き上がって、テーブルに置いてあったフルーツジュースに手を伸ばす。


「自身の気持ちも自分で変えられないほどだ」

「他人の気持ちは変えられないと聞くが、それは初めて聞いた。変えられるじゃないか?」


 自身の気持ちを変化させる。当然なことだと、ヒカリは思った。しかし、宗教団体のおさは、謁見の間にある玉座のそばでいつも堂々と横たわっている分厚い本を、脳裏の中でめくる。


「そうか? こんな話が経典の中にある。エシャロット王の話でな」

「どんな話だい?」


 ヒカリは聞き返しながら、記憶の引き出しを全開にして、


(僕が知っている話だろうか?)


 データを浅い部分に流し続ける。甘くトロピカルなジュースがのどに落ちてゆくと、リンレイは話し出した。


「神から預言を受けたモーゼという人物が、エシャロット王に奴隷解放を求めるのだ」

「あぁ」


 すぐにデータは見つかったが、この話は長く、女教皇がどこを言ってくるのか、理論派少年はまだ話の腰を折らずに、うなずいただけで待った。


「しかしながら、神に何度も行くように言われて来たモーゼの要求を、エシャロット王は拒み続ける」


 ヒカリはハンモックからさっと上半身だけで起き上がって、冷静な水色の瞳は、リンレイの白い薄手のローブへと落とされた。


「それなら、僕も読んだ」

「そうか。ヒカリはどう解釈したんだ?」


 思ってもみなかったことを聞かれて、ヒカリはいぶかしげな顔をした。


「解釈って……。そのままだろう? モーゼが神の力を借りて、海を切り裂き、奴隷とともにエシャロット王から逃げた」

「文章のままだな」

「他にどんな意味があるんだい?」


 青い月明かりを浴びる紺の長い髪と水色の瞳は、海に咲く花のようなえも言われぬ美しさで、リンレイは素晴らしい絵画でも見ているような気持ちになった。


「神はエシャロット王に気持ちを変えるよう、モーゼを通して機会を与えていたのだ。しかし、エシャロット王は自身が間違っていると気づいても、頑なに拒否をし続けた。執着心という悪に支配されてな。自分の気持ちを変える力もないほど、時には人は弱いということだ」


 ブラウンの髪が風に揺れると、リンレイのまわりに星屑を散りばめたように蛍火が横へ流れていった。


 月影が差し込むバルコニーで奏でられるのは、虫の音の小夜曲セレナーデ。心地よさで、ヒカリは思わず目を閉じた。


「そういう見方もあるんだな」

「神のもとで人は生きている。人一人では生きていけないのだ」


 降るような満天の空へ人は行くことはできても、神の手のひらから脱出したのではなく、やはり神が創り出した世界の中で生かされているのだ。ビックバーンを起こしたのは誰かという疑問が生まれるのだから。


 首の後ろで結んでいた髪からひとつ指先で抜き取って、瞳を開けたヒカリはさらさらと頬へ落とした。十二月の冷たい海から、夏盛りの別世界へと飛ばしてきた力を振り返る。


「神のもと……メシア。そうなると、僕がここに来たことも意味があるってことになる」

「何か言ったか?」


 リンレイは頭上を横切る流れ星の奇跡から視線を外した。説明のしようがない。本当かもわからない。だから、ヒカリはハンモックにもぐりながら首を横に振った。


「あぁ、いや、何でもない」


 リンレイは残っていたジュースを一気に飲み干し、両腕を上げて大きく伸びをした。


「そろそろ夜も深い、眠るか」

「僕の部屋はどこだい?」


 ヒカリが起き上がりながら言うと、気にした様子もなく、女教皇はこんなこと口にする。


「今宵から、眠る時は私と一緒だ」

「えぇっ!?」


 十六歳の少年は驚き声をあたりに派手に撒き散らし、ハンモックから転げ落ちそうになった。何とかバルコニーの石畳にぶつかるのを免れたヒカリを、リンレイは不思議そうな顔で見下ろす。


「なぜそんなに驚いているんだ?」


 優等生――生徒会長のように、ヒカリは正論を展開しようとしたが、


「男女七歳にして同衾どうきんせずだ! 一緒の部屋だなんて――」


 宗教団体の長――教皇は途中で言葉をさえぎった。


「お前と私は神の御使と巫女だ。男女ではあらぬ」


 冷たい床に足を下ろして、業火が燃え盛る胸の内を冷静な水色の瞳で抑え込んでいるのが、月影に映し出されていた。


「僕は御使ではなく、人間の男だ」

「それはさっき見たからわかる」


 夕暮れ前の水際で起きた乙女事件――いや全裸事件が鮮やかに蘇った。表情のひとつひとつが、あの妙な間が、クルミ色の瞳の行き先がどこへ向かっていたのか。何もかもが。心臓がドキっとしたのがスイッチみたいに、ヒカリの顔が一気に火照った。


「あぁ、もう! ルールはルールだ。規則は規則だ。結婚もしていないのに――」


 再び言葉はさえぎられて、


「そうか。それなら心配いらぬ。仕来しきたりでな、巫女と御使は契りを交わすのだ」


 ヒカリは珍しく大声を上げ、


「契りっ!?!?」


 腰掛けていたハンモックから、派手にずり落ちた。


「いたたたた……!」


 テーブルに置いてあった飲みかけのジュースはこぼれ、髪を縛っていたリボンはスルスルと床に落ち、腰をさすっている純粋な少年の背後で、ハンモックが揺れ続ける。


 彼とは正反対で、白いローブを夜風になびかせ、リンレイはブラウンの髪をかき上げた。


「どうしかしたのか? さっきから落ち着きがないようだが……」


 手やブルーのローブについた砂埃を払いながら、ヒカリは立ち上がる。


「さっきのセック◯の話は知っていたってことか?」

「ヒカリがそんなに動揺するとは気になるな。どういうことをするのだ? 具体的に」


 立ち上がった少年は背が高く、女教皇は下からのぞき込んだ。


 これで3回目だ――

 ヒカリはそう思った。氷雨でも振ってきたような冷たさが、顔ののぼせを一気に消し去り、腕組みをして、少女をにらみ返した。


「僕のことをからかっているんだな? 今から九つ前の会話が理論からはずれる」


 リンレイは珍しく微笑んで、青い月を見上げた。


「そんなふうに覚えているのだな。そんな前の会話など普通は覚えておらぬ」

「そうか。僕と兄さんが特別なのかもしれないな」


 兄弟で共に生きてきて、何個前の会話が何だった。何という本の何ページ何行目に載っていた。それが普通に通じていた。しかし、他の人は違うのだと、今知った。


 少女は興味が湧いた、頭がいい少年に。しかし、どう形作られているのかが気になった。知りたいと思った。だが、自分がついていけないほど精巧だった。


「神からの贈り物なのだろう」


 神々こうごうしい人物にでも出会ったようで、リンレイはのどの奥が急に痛くなり、視界が感嘆の涙でにじんだ。ヒカリはあごに指を当て、思考時のポーズを取り、ポツリポツリとつぶやく。


「当たり前のことが、違っているってことか。感謝をする……か」


 生きていることが当たり前なのではなく、生きていることがすでに奇跡なのだ。一秒ごとに奇跡は起き続けている。そんな世界の中で人は生きている。目からウロコが落ちるとは、まさしくこのことだった。


 虫の音は優しくささやき、星空は柔らかな光のベールをふたりにそっとかける。夜風に揺れる木々の葉は、月明かりをゆったりと揺らした。


 広い宇宙の中で、科学技術と宗教というそれぞれ違う銀河から神の力で連れてこられて、同じ星雲へと混ぜられたようだった。


 ふたりを軌道の違う惑星に乗せて、くるくると回り、近づきそうになっても、すれ違って、遠くへ行き、めぐりめぐって出会いそうになっては、また離れてを繰り返す。


 ふたりきりの不思議な時間と空間――


 こぼれたジュースがテーブルから落ちる音で、リンレイは我に返り、両手を腰に当て、軍の指揮をるように堂々たる態度で言った。


「話は元に戻るが、私とお前は人間同士だ。仕来りに従う必要はない。ただな、まわりの者はそう思っておるから、ベッドはひとつしかないぞ」


 先に部屋の奥へと歩いてゆく少女の後ろ姿に置いていかれて、ヒカリは青い月を見上げ、ため息をついた。


「はぁ〜。神さまは僕に何をさせようとしているんだろうか?」


 斜めがけした藤色のストールが、瑠璃の夜にえていた――


    *


 部屋の仕切り向こうを、ろうそくひとつが間接的なオレンジの光で淡く包み込む。白い天幕は夜色に染まって、ふたりを窓からもドアからも目隠しする。


 花の女王と呼ばれるイランイランの香りが華やかで芳しく誇り、花畑にでもいるような錯覚に落ち入れさせる。


 シーツの上に腰掛けるふたりの距離は微妙。リンレイは気にせず、枕の近くに座っていた。


「どこから来たのか、聞いてもよいか?」

「僕自身も信じられないが、カナリラという惑星からだ」


 ベッドの足元エリアを陣取っているヒカリは、窓の外を眺めるふりをして、同じ歳の少女を視界に入れないようにしていた。


「惑星とは何だ?」


 価値観の違い。ヒカリはあごに手を当てて、説明するための言葉を探す。


「そうか。地動説とかもないのか? 宗教? ん〜?」

「難しいことを聞いたか?」


 心配しているリンレイに顔をのぞき込まれて、ヒカリは思わず振り返った。


「いや、そうじゃない。大地のことだ」

「カナリラという土地から来たのだな」


 ろうそくから光の加減で透けて見えるリンレイのネグリジェから、慌てて視線をそらし、不自然にならないように、ヒカリは質問を投げかける。


「ここは何て言う場所だい?」

「パトラシアン教国きょうこくの東だ。西が保守派」

「クズリフ教にパトラシアン……? 聞いたことのない名前だ」


 情報は手に入ったが、記憶の中には合致するものはどこにもなかった。純粋な少年の気持ちなど知らず、リンレイは膝上丈のネグリジェでも、鎧兜を着ている時と同じように足を組み替えた。


「そのカナリラというところはどんなところなんだ?」


 ヒカリの瞳は氷の刃のように鋭くなって、綺麗な唇からは遊線が螺旋を描く猛吹雪を感じさせる冷たい声が響いた。


「人の命も顧みず、研究を行うところさ」


 リンレイは驚いた。窓の外を見つめたままの紺の長い髪を持つ少年が、どんな日々を送ってきたのかと思い、身を乗り出すと、シーツのしわがヒカリの近くにできた。


「両親はどうした? 身を売られたのか?」


 振り返りはしなかったが、真正面を向いたヒカリの瞳には哀傷の色がにじんでいた。


「最初は別の惑星に住んでいたんだ」

「何という名前だ?」

「スティニっていうんだ。だけど、今はもうない」


 惑星は大地。それがないとは、文化が発展していなくても、リンレイは天変地異の予感を覚えた。


「ないとはどう言うことだ? 名前が変わったのか?」

「違う」


 ヒカリが首を振ると、白いシャツの肩で、リボンが解けた髪がサラサラと揺れた。


「核という強い兵器が世の中にあって、それを使った戦争が始まったんだ。だけど、ある日惑星が爆発するという知らせがみんなに広まったんだ」


 祭り上げられたとしても、教皇として人の上に立っているリンレイは、何の武器も持たない人々の姿がすぐに思い浮かんだ。


「大混乱であっただろう?」

「そうなんだ。それでも、他の惑星へ逃げようとした。だけど、その途中に両親とは離れ離れになって、カナリラに兄とふたりで来たんだ」


 冷静な水色の瞳で、悲しみという激情の炎がゆらゆらと燃えているようだった。隣に座る少年は十六年という人生で、平穏な暮らしとは無縁。リンレイはこの国の未来を見ているようで、仕切りの向こうで揺れるろうそくのオレンジ色をぼんやり瞳に映した。


「戦争か。民は望んでいなかっただろうな。お前が今ここに現れたのは、やはり神の御意志なのかも知れぬ」

「どういう意味だい?」


 思わず振り向いたヒカリの瞳からは愁いは消え去っていた。リンレイは物悲しげな顔で見つめ返す。


「今日は戦争の初日だったのだ。お前と兄上が現れたお陰で、一週間延期となった。その間に、止める方法を探すようにというお導きなのかも知れぬな」


 窓から入り込む風でイランイランの甘い香りが振りまかれる。ひとつのシーツが同じ運命の海に浮かんでいるようで、ヒカリとリンレイは見つめ合う。


 まだ間に合うかもしれない。それを信じて、進まなければ。決して人間の力だけで大きく変えられるとは思っていないが、諦めきっている者に、神も手など貸さないだろう。


 ヒカリの中性的な唇が静かに動いた。 


「君はどんな生活をしてきたんだい?」

「私か? そうだな? 巫女とは言われているが、女らしさとはほど遠い生活だ」


 体の線が浮かび上がるネグリジェを着て、長い髪を下ろしているリンレイは、今はどこからどう見ても可愛らしい少女だった。


「男っぽいということなのか?」

「おそらくそうだ」


 天幕の曲線を見つめながら、リンレイは教皇の威厳をもって答えたが、まばたきがなぜか多くなった。


 さっきまでエロ妄想に突入しないように、一度も彼女を見なかったヒカリは、平然とリンレイの横顔を凝視した。


「何をするんだ?」

「剣術をする」


 冷静な水色の瞳はついっと細められた。


「何という流派だい?」

「え……? 流派?」


 リンレイの声のトーンは急に高くなった。威厳とはほど遠くなり、どこかずれている感が漂っていた。


「そうだ。是非それを聞きたい。僕としては」


 ヒカリの雰囲気は十六歳の少年ではなく、誰がどう見ても、社交界に慣れている大人の男だった。


 床の一点をじっと見つめたまま、リンレイはしばらく考えていた。そうしてやがて、戸惑い気味にこの流派を口にした。


「……無住心剣流むじゅうしんけんりゅうだ」


 どこかで聞いたことがある名前が出てきた。しかし、ヒカリの声色は少年のものではなく、遊線が螺旋を描く優雅で、どこかの国の王子さまみたいな男の色香が漂うものだった。


「どんな教えなんだい?」


 説明を求められた。リンレイは足を組み替え、ブラウンの髪を耳にかけ、妙な間が空いたが、きちんと話し出した。


「……剣を上げておろすという、たったふたつの動きで全てを学び……!」


 しかし、途中で吹き出して、ゲラゲラ笑い出した。


「あははははっ!」


 両手を口に当て、そのままベッドの上に仰向けに倒れ込む。悶えているリンレイの隣で、ヒカリの神経質な手の甲は、中性的な唇につけられ、くすくす笑い、


「…………」


 片方の手でリンレイが口をふさいでいる手をつかんで、下へ引っ張ると、


「あはははは……!」


 小さくなっていた笑い声がベッドルームに響き渡った。


「――カット!」


 完全にNGシーン。ヒカリ――夫は笑うのをやめて、笑いの渦に撃沈しているリンレイをベッドからそっと引っ張り起こした。


 乱れてしまったブラウンの髪を両手でかきわけて、妻は笑い疲れと気持ちを入れ替えるために、軽く息を吐く。


「はぁ〜……」


 落ち着いたところで、


「テイクツー、スタート!」


 すぐに、リンレイが思い出し笑いをして、


「あははははっ!」


 自分の膝の上に倒れこんだ。


「なぜ、笑っているのですか?」


 冷静な水色の瞳と優雅な笑みで、丁寧語で聞き返してきたヒカリ。沈んだリングから起き上がるように、リンレイはガバッと姿勢を戻して、この夫が何をしてきたのか、暴露してやった。


ひかりさんが剣の流派をいきなり聞いてきて、思いつかないから思わず、夕霧さんがやってる無住心剣流を言ってしまうじゃないですか。っていうか、罠にはめるからじゃないですか!」


 見事に策で手中に収まった妻を前にして、夫は手の甲を唇につけて、くすくす笑い出し、


「…………」


 それっきり何も言えなくなり、彼なりの大爆笑を始めた。リンレイはヒカリの肩を軽く押して、寄りかかり、


「もう。妻に悪戯するのやめてください。っていうか、ラブラブな夫の話を無理やりここで出さないでください! 夕霧さんはこの話には出てないです!」


 深緑の短髪で、はしばみ色の無感情、無動の切れ長な瞳を持つ夫。


 が、ふたりの脳裏に浮かんだが、クイズ番組で不正解した時のブブーという音が響き、


 マゼンダ色の腰までの長い髪で、まぶたから滅多に解放されない邪悪なヴァイオレットの瞳を持つ夫。


 が今度は浮かび上がり、正解のピポーンピポーンが聞こえた気がした。


「出てるのはるなすさんです!」


 ヒカリの細い指先は、リンレイのブラウンの髪の乱れを直し、流れるような仕草で彼女のあごに優しく添えられた。エレガントに微笑み、こんなことを言う。


「仕方がないではありませんか。悪戯が私の趣味なのですから――」


 この優雅な王子ときたら、どんな言い訳だと思って、リンレイはまたゲラゲラ笑い出した。


「あははははっ! 何てことをするんだ! この夫は!」


 リンレイがヒカリの肩に顔を埋めると、彼は優しく両腕で彼女を抱き寄せた。


「カット!」


 一瞬暗転し、前の場面とはまったくつながっていないとこからスタートした。リンレイとヒカリは絶妙な距離を保ったまま、ろうそくの炎に照らし出されている。


 女教皇としての威厳を持った声が響いた。


「無住心剣流だ」

「どんな教えなんだい?」

「秘術だから、お前には教えぬ」


 リンレイの手のひらに鉄の重みが記憶として蘇っていた。異世界から来た、逃走ばかりの日々を送っていた少年は聞き返す。


「剣術が男っぽいのかい?」


 思ってもみなかったことを言われて、リンレイは不思議そうな顔をした。


「人形遊びやおままごとをするのではないのか? やってはみたがな、さっぱり何が面白いのかわからなかったが……」


 緊張感に包まれ、安眠など夢のまた夢だったヒカリだったが、アロマの鎮静作用で、ベッドの上に仰向けで身を放り投げた。


「改革派の教皇さまなのに、そういう考えは保守的なんだな」


 リンレイが振り返って、シーツの上に両手を乗せ身を乗り出すと、何かの境界線をかき乱すように、新しいシワができ上がった。


「どういうことだ?」


 就寝前でわざと消された燭台を下から見上げながら、ヒカリは自分の頭を腕枕をした。


「時代や土地によって、女らしいとかの価値観は違うと、僕は思うんだ。だから、今までのままでいい……。というか、君にしかない魅力で素敵だと、僕は思う」


 リンレイは慌ててそっぽを向いて、顔に紅葉もみじを散らし、


「すてっ! そ、そうか。褒め――いや、指摘してくれたこと、感謝する……」


 ヒカリに背を向けて、彼女はベッドに倒れこみ、枕をぬいぐるみみたいにして抱きしめた。


 いつの間にかベッドにふたりで横になっている。あらぬ想像からほんの少し逃れていたのに、恥ずかしがって口ごもっている少女がすぐそばにいると、伝染病にでもかかったように、ヒカリもぎこちなくうなずくしかできなかった。


「あぁ……」


 ヒカリにとっては気まずい空気が広がって。何も知らないリンレイとっては妙な間が広がって。ふたりにふと沈黙が降りた。


「…………」

「…………」


 静かになったら何かが始まりそうな予感を覚え、リンレイはヒカリに背を向けたまま、言葉が途切れないように質問を投げかけた。


「ヒカリには人と違うことはないのか?」


 追い詰められた冬の海で、青白い光と水流を巻き起こした力。誰もが持っているものだと信じて疑わなかった特殊能力――メシア。異空間への移動など理論で証明はできても、実際に行うことは不可能。それなのに、現実として、自分と兄はここへやって来ている。


「人と違うこと……」


 リンレイは乱れたブラウンの髪の間から、色白の綺麗な横顔を見つめた。


「何か思い当たることでもあるのか?」


 確信はどこにもない。メシアとは言い切れない。しかし、どんなことが起きようとも事実は事実だ。ヒカリはリンレイの思想に乗っ取った。


「あぁ、人と違う力を持っているということは、どんな神の御心みこころなんだろうか?」


 未知という宇宙の無重力空間で、ヒカリは答えを見つけられずにいた。しかし、教皇であるリンレイは何の支障もなく導きをもたらした。


「何も見返りを期待しなくとも、ヒカリがたくさんの人の幸せを祈ることができる人間ということであろう?」


 意外なことを言われて、冷静な水色の瞳はリンレイの横顔を思わず見つめた。頬にシーツの感触が広がる。


「他の人の幸せを? 僕がかい?」


 自身の命を守るだけで手いっぱいの日々。他の人がどうとかそんなことを考える余裕もなかった。


「特別な力を持っていたとしても、私利私欲のために使っては、効果も小さいであろう。しかし、みんなのために使えば、惑星だったか? それを丸ごと変えるような威力を発するということだ」

「君は興味深い話をするんだな」


 ディストピアに戻る可能性がないとは言えないが、戻りたいとは、ヒカリはもちろん思っていない。考えようによっては、自分と同じように移住してきた人々を平和な場所へ、メシアを使って連れてゆくという方法もあったのかもしれない。


 しかし、カルリナ星に戻れる保証はない。ヒカリは昼間の荒野で見た、何千、何万の兵士たちを思い浮かべる。


「僕がこの世界でみんなにできることか……」


 戦争によってできた傷跡の中で生きてきたヒカリ。戦争が始まる前を生きているリンレイ。彼女はできるだけ想像してみる、ベッドの隣に横たわっている少年が心に負った傷を。


「私は核を使った戦争を体験したわけではない。だから、ヒカリの気持ちをきちんとはわからんが、お前の心の傷がいつか癒えることを、私は心の底から神に祈っている。人の気持ちは人には変えられぬからな」

「君は優しい人なんだな」


 ヒカリの瞳は天井から吊るされた天幕をまっすぐ見つめたまま、ゆらゆらと視界がにじみ出した。


「普通だ。何も特別なことはしとらぬ」


 リンレイの言葉には同情や嘘偽りはどこにもなく、傲慢に何かをしてやれるとも言わず、それでも心の重荷がなくなる日を密かに望んでいるという慈愛だった。


 何の見返りも期待せず、誰かの幸せを祈る。そんな尊い気持ちに初めて触れて、ヒカリは目のふちに涙がたまり出す。


「…………」


 枕の乱れを直しながら、リンレイは話を続けた。ヒカリがいる方向とは反対を向いて。


「何事もいいことにつながるための前置きだ」


 心の隙間から、暖かな風が入り込んできて、哀傷という名の炎をあおる。しゃくり上げることはなくても、ヒカリのこめかみを涙が次々に伝い始めた。


「…………」


 真っ暗な絶望の淵に聖なる光が差したようだった。寒さに凍えるように背を丸め、紺の長い髪に埋もれて、ヒカリの綺麗な顔は、リンレイからはまったく見えなくなった。


(泣いている?)


 しばらく待ったが、涙は月影に揺れて、いくつもの筋を頬に残してゆく。リンレイはヒカリの身を心配した。


(本当に色々あったのかもしれぬな。私がヒカリにできることは、何かしてやれることは――! 父上が昔してくれたアレがあったではないか!)


 数少ない、今は亡き父からの素敵なプレゼントを思い出した。ピンとひらめいているリンレイが背後にいるとは知らず、ヒカリの冷静な水色の瞳はまぶたに閉じ込められたまま、シーツを静かに涙で濡らす。


「…………」

「こうすると涙は止まるのだ」


 リンレイは得意げに言って、両手ではって行って、ヒカリに近づいた。十六歳の少年と少女。ふたりきりのベッドの上。ヒカリは驚いて涙も止まり、さっと開けた。


 充血した瞳に映ったのは、リンレイの左手がヒカリの体の上をまたいで、シーツに押し付けられたところだった。


 視線を上げると、リンレイは横向きで、ブラウンの長い髪は重力に逆らえず落ちていて、顔はドアップになって、まるで挨拶でもするように、自分の唇に彼女のそれが触れた。


「っ!」


 いきなりキスをされたヒカリは珍しく息を詰まらせた。リンレイは得意げな顔で、ヒカリの瞳をのぞき込む。


「ほら、涙は止まったであろう?」


 幼い娘が泣いているのを止めるための、父親の手口を、同じ歳の少年に模倣してしまったリンレイ。彼女を前にして、ヒカリは声がひっくり返りそうになりながら、心臓がばくばくと早鐘を打ち出した。


「きっ、君は大胆なんだな」

「どういう意味だ?」


 恋愛を知らない少女は不思議そうな顔をして、離れていこうとした。


 事実と可能性だ。ヒカリの恋愛とは。あるパーセンテージを越せば、言動を起こす。だから、他の人からはいきなりに見えても、彼の中ではきちんと段階を踏んでいるのだ。


 ヒカリは少しだけ起き上がり、リンレイの顔に近づいて、優雅に微笑み、


「双子が凶事じゃないって、話のことさ――」


 少女の唇をヒカリはそっとふさぐと、ベッドの上にふたりとも倒れ込んだ――


    *


 ――青い月はいつの間にか西へ傾き、ふたりの素肌を包み込んでいたろうそくの炎は吹いてきた風に消えてしまった。


 毛布をかぶって眠っているリンレイの隣から、ヒカリは起き上がった。脱ぎ捨てた服が散らばる床の上を歩いてゆく。


 色白の肌を覆い隠す布はどこにもなく、裸のまま月明かりが差し込むベランダへと出た。紺の長い髪がひんやりとした夜風に揺れる。


「メシアを持っている僕に……」


 部屋の中へ振り返って、寝息に耳を傾けた。


「君も含めてこの世界のみんなに何ができるのだろうか?」


 あごに手を当てて、脳裏に土砂降りのように今までのデータを流し出す。


「期限は一週間。宗教、神、御使、メシア、政治……? 成功する可能性が高い方法?」


 神に与えられたメシアとデジタル頭脳を駆使する時間がしばらく続いたが、ヒカリはリンレイが眠っているベッドに静かに潜り込んで、一緒に眠りについた――


    *


 ベルガモットの爽やかな香りが、心地よい眠りを誘う三日目を迎えたベッドの上。リンレイは素肌に毛布をかけて、うつ伏せでいたが、聞いたこともない言葉に、隣にいる少年ではなく男に思わず身を乗り出した。


「立憲君主制?」


 ヒカリの細い指先は、ブラウンの長い髪のほつれをといた。


「卓上論でしかないけれど、僕はそれがいいと思うんだ」

「どんな制度だ?」


 クルミ色の瞳には色はなく、今はただただ教皇という真剣さを持っていた。


「王がいるけど、民衆から選んだ議会が政治を行うんだが……」

「うん……」

「意見が分かれた時は、王が議決するんだ。民主主義だけだと、急いでいる時などは無駄に一般市民が苦しんだり、迷ったりすることがあるらしいんだ。それとは反対に、王制だと、権力が集中しすぎて、一般市民の意見が届かないことが多くなる」

「だから、立憲君主制ということか。なるほどな」


 ピロートークで語られる内容としては、不適切だったが、戦争が一旦停止の期限はあと四日。学べることは学び、実践できるものとそうでもないものを吟味して、指揮を執らなくてはならない。時間がない。


 ヒカリが天井を見上げると、コシがあるのにしなやかな、紺の長い髪がベッドにあちこちに淫らになだれ込んだ。


「今回の戦争だけれども、ふたつに分かれる前に、不穏分子を予測して、政治を安定させるという方法で起きなかったのかもしれない。外交もそうで、隣の国から攻め入られそうな要因は失くすようにした方がいいらしい」

「さすがだな。全て覚えているから、読んだ本から必要なものがすぐに取り出せるんだな」


 本で読んだだけであって、それが国を動かす力になるとは言い切れない。冷静な水色の瞳は陰りを持った。


「実際に役に立つかは別だけど……」

「そうか? 可能性の問題なんだろう? ならば、役に立つ可能性はゼロではない。そうだろう?」


 素直で前向きな生徒の言葉を聞いて、ヒカリはそっと瞳を閉じた――


    *


 明日で期限の一週間となる前夜。オレンジスィートの甘く爽やかな香りが、ベッドに横たわるヒカリとリンレイの上に漂う。


 脱ぎ散らかした服の上へ、遊線が螺旋を描く優雅な少年の声が降り積もる。


「それから、大衆心理というものは、ほんの些細なことで、黒が白になるらしい。君がみんなの信頼を得る何かが起きれば、それが起こる可能性はもっと上がる」


 肩までかけた毛布から出した両手をギュッとつかみ合って、リンレイはぼんやり首をかしげる。


「信頼を得るもの?」


 教皇とは名ばかりで、ただの巫女である十六歳の少女。大人たちを従わせることができるもの。脅したりする恐怖政治では維持は長く続かないことが目に見えている。そうではなく、人々が心の底から感動したり頭を下げたりするものだ。


 ヒカリはあごに指を当て、青い月明かりが柔らかなベールのように斜めに差し込んでいるのを眺める。


(彼女に対するみんなからの信頼が上がること……? 他の条件……? それが成功する可能性が高い……かもしれない)


 予測がつかないリンレイの隣で、ヒカリは可能性を導き出していた。


 触れ合う肌の距離は一週間前とは違って、吸いつくような相性の良さを感じるが、それももうだいぶ慣れてきた。沈黙が広がっても、焦りも気まずさなども生まれない。


 科学技術の発展のためなら人の命も顧みない惑星で逃亡生活の毎日。それなのに、博識のヒカリ。リンレイは当たり前の疑問を持った。


「しかしなぜ、人権もないような土地で、本など読むことができたのだ?」


 ヒカリの中性的な唇から、こんな摩訶不思議な話が出てくる。


「兄さんがいつも知らない女の人にもらってきたと言って持ってきていたんだ」

「ヒカリの兄上は何度聞いてもおかしな人だな」


 リンレイが珍しく笑うと、ラベンダーの香りがふたりを追憶へと導くように細く細くシーツの上に影を落としていた――


 翌日――戦争一時停止、最終日。泉の清らかな水音と鳥のさえずりに包まれた緑の中で、リンレイは夏空の瑠璃色を物憂げに眺めていた。


「そうか……」


 ヒカリは遠い地平線を横切る白い雲が風に流れてゆく様を見渡し、教皇の方には決して向かなかった。


「君に僕は救われた。だから、僕が君を救う番だ」


 狂気に満ちた大人たちによって、死線をさ迷わせられた日々。メシアを使って逃げ出した挙句、別世界で異端者として捕まえられ、自由がやってくることもなく、また死へと向かっていきそうだった。


 そんな自分を自由の身にしてくれた少女。彼女の望みを叶えたい。人々の未来が自分の経験した過去と同じ道をたどらないよう、精一杯のことを、ヒカリはしたい。


 冷静な水色の瞳とクルミ色の瞳は一度も交わることなく、リンレイは日差しの下でブラウンの髪をかき上げた。


「かたじけないな」

「それじゃ、さっき言った通りに頼むよ」


 素っ気ないほど、一言言い残して、ヒカリは水際から去っていこうとした。紺の長い髪が背中を見せたのを、戦乙女のサバサバとした声が引き止める。


「誓いの印だ」


 乾いた夏風に、ふたりの髪は強く吹かれ、唇が優しく出会うと、新しい始まりを予感させるように、梢から鳥たちが飛び立ってゆく。


 お互いの肩がすれ違う位置で、唇の温もりはあっとう間に消え去って、リンレイは力強く微笑んだ。


「達者でな」

「君も元気で」


 ヒカリとリンレイは別々の方向へと歩いてゆく。ただの少年と少女ではなく、メシア保持者と国を統治する教皇。この一週間は、神が多くの人を救うための術のひとつだったのだ。とふたりに答えが出ると、やはり一緒にはいられない運命だった。


 城の中へとヒカリが消えてゆくと、渡り廊下を目指していたリンレイの声が響いた。


「誰かいるか?」

「はい、陛下」

「至急、謁見の間に重鎮を集めろ!」

「かしこまりました」


 一気に城の中が慌ただしくなった。


    *


 そうして、一時間後、中庭にある謁見の広場に、リンレイのクルミ色をした瞳は注がれていた。


 ザワザワと民衆たちがさざ波を起こす。それを間に挟んで向こう側には、同じ高さのバルコニーに、保守派の教祖が立っていた。久しぶりに姿を見た妹、シルレ メデューム ルトゥリック。


 まだ距離は遠くはっきりとは見えない。しかし、両派の長が集まった貴重な時だ。リンレイは鎧兜に身を包み、シルレは赤と金糸の刺繍がされたローブをまとい、これから起きることを見届けようとしていた。


 人々の視線が集まる先には、白いローブに青と紫のストールが彩りを添え、堂々たる態度で立っているヒカリが、広間の中央にある舞台にいた。


 金の王冠をいただいた紺の長い髪が風になびくたび、中性的というよりは両性具有を人々に容易に連想させ、色白の肌と整った顔立ちが神の御使だと後押しするような神聖な雰囲気が漂っていた。


 冷静な水色の瞳が人々に向けられると、畏敬を感じて民衆は黙り込んだ。その時だった、ヒカリが立っている高台に、もう一人上がってきたのは。


 ヒカリはホッとした。マゼンダ色の長い髪を持ち、邪悪なヴァイオレットの瞳をした人が無事に自分のそばへ、リンレイとの打ち合わせ通りやって来たことに。


 しかし、振り返ったヒカリは、そこで見た光景に驚いて、手に持っていた水晶をはめ込んだ金のしゃくを、思わず落としそうになった。


「兄さん! なぜ、ドレスを着ているんだい――?」


 水色のフリフリドレスに、肘までの長い白の手袋。乙女の憧れ、ガラスのハイヒールを履いてはいるが、歩き慣れているはずもなく、ルナスは小刻みに近づいてきた。落ちそうになった銀のティアラを指で直しながら、含み笑いをする。


「うふふふっ。女性の方たちが似合うと言って僕に着せてくださって、そのままこちらに連れてこられたというわけです〜」


 異世界にいきなり飛ばされたというのに、女装している兄はやはり、シリアスシーンを平和な日常に変えてしまう、月の魔法使いのようだった。


 緊張感もどこかへ行ってしまい、ヒカリは一息ついて背筋を伸ばした。


 今や人々の注目はルナスとなっていて、ヒカリは金の笏でカツンと石畳を大きく鳴らした。静まり返った群衆に、遊線が螺旋を描く優雅で独特な響きのある少年の声がかぶさった。


「神の御言葉みことばだ。そなたたち、よく聞くがよい。このまま両派の争いを続ければ、さらなる凶事が訪れるだろう。木々や水は枯れ――」


 ヒカリの脳裏に、核爆弾が落とされたあとの荒野が浮かぶ。


「疫病がはやり――」


 遺伝子情報は破壊され、


「地は割れ――」


 惑星が爆発を迎え、


「空は落ち、一人残らずこの世からいなくなるであろう」


 大気もなくなって、全員が惑星から脱出した。それが、ヒカリが生まれた、今はどこにもない星の話だった。それは脅しでもなく、事実――過去だ。


 人々の表情は驚愕に染まった。


「えぇっ!?」

「そ、そんな!」


 ヒカリの冷静な水色の瞳は隙なく群衆に注がれていた。驚いていない人々があちこちで見受けられる。


「すぐに争いを止めるがよい。忠告はただ一度きりだ」


 言うことはこれで全てだった。多少はひっくり返せても、信じない人間もいるだろう。これではすぐに元へ戻ってしまう。教皇への人々からの信頼を上げることもできないだろう。だが、ヒカリには勝算があった。


 今までなら、あてにしなかった、非科学的なことを使う。


 神の御使として、仕上げをする。ヒカリはそっと目を閉じ、メシアという特殊能力を発揮しようとする。どうすれば使えるのかはわからないが、今ここで使うことが、成功する可能性が高くなる方法だ。


(水が流れてゆくように、どこかにたどり着いて……)


 この世界へと飛ばされる前に、冬の海で溺れたふりをしたルナスを救うために思い浮かべた言葉。しかし、何も起きなかった。


(できない。今じゃないといけないのに……)


 ヒカリの中に焦りが生まれる。これで失敗すれば、自身と兄の身の自由はなくなるだろう。リンレイの信頼も急降下し、望まない戦争は起き、いずれは同じ過ちへとたどり着くかもしれない。


 感情に流されるのではなく、冷静に理論立てる。力を使いたい。そこへとつながる物事の順序。


(誰かのためにだ!)


 バルコニーから自分を見つめているだろうクルミ色の瞳を思い出す。


(リンレイ、君のために……)


 それでも何も起きなかった。人々のうかがう視線とざわめきが重圧のように押し寄せてくる。


(やはり神さまはいなかったのか?)


 ヒカリは疑い出す。しかし、リンレイが話してくれたことが脳裏をよぎった。


 信じ続けるということは、弱い人間にはずっとすることはできない。いっとき信じなかったとしても、最後は信じると決めて戻ってきた時、神は何の文句も言わず、笑顔で迎え入れてくれるのだと。それが信じ続けること。


 だから、最後は信じる。すると、ヒカリの視野は自然と広くなり、大きな力を使う者にふさわしい物事の見方を思い出した。


(そうだ! 今いるこの世界の人々と、これから生まれてくるたくさんの人たちのために、神さま、どうか力をお貸しください!)


 ヒカリのうちで、青白い光を帯びた雫がぴちゃんと水面に落ち、波紋をいくつも描いたイメージがはっきりと浮かび上がった。地鳴りのように大地が揺れ出し、人々は落ち着きなくあたりを見渡し始める。


「な、何だ?」

「地震か?」


 ヒカリとルナスの足元に昼間にも関わらず、光るターコイズブルーの水流がぐるぐると幾重もの円を描き出した。神秘的な泉に立つ聖なる存在のようだった。


「あれは何だ?」

「晴れてるのに水!?」


 まるで二匹の龍のように水流は、ヒカリとルナスを乗せて、晴れ渡る夏の空へと向かって螺旋状に登ってゆく。


「うわぁぁっ!」

「飛んだ!」


 竜巻のような旋風が巻き起こり、人々は両腕で顔を覆った。視界の隙間で、鮮やかな水色の光は膨張し続けていたが、持ちこたえられなくなったように、四方八方へ閃光を発しながら飛び散った。


「うわぁぁっ!」


 眩しさに耐えきれなくなって、人々は目を閉じると、驚嘆の叫び声を上げた。


 紺の長い髪は青白い光で縁取られ、上へとゆらゆらと登っている。ヒカリとルナスには重力はもう無意味で、それはこの世界からつながりが完全になくなることを暗示していた。


 ヒカリは見下ろした、バルコニーに佇む鎧兜を着たリンレイを。もう二度と会えなくなる前に、遠い場所へ行ってしまう前に、彼女の姿を脳裏に強く焼きつけ、小さくつぶやいた。


「さよなら。僕の初恋の人――」


 ヒカリの頬を一粒の涙がつたい、石畳の上にポツリと落ちた。忘れ形見のように。そうして、次がこぼれ落ちることはなく、人々がどよめいた。


「消えた!」


 リンレイが腕をはずすと、ヒカリとルナスの姿はもうどこにもなかった。クルミ色をした瞳の中で夏空が涙で揺れる。


「ほんに神だったのかもしれん。もう二度と会うこともあらぬ」


 人々の前から姿を忽然と消すと、話半分で聞いていたが、本当のこととなってしまい、鎧兜の中にある胸の奥へ、少女の恋心は二度と開かないようしっかりとしまった。


 ヒカリとルナスを支えていた水流は、空に虹を描いて人々の上にスコールのように降り注いだ。それはまるで、神が人を歓迎する時に降らせるという、みそぎの雨のようで、神の加護が人々に与えられたようだった。


「神だ、神だ!」

「天へ帰られたのだ!」


 石畳にヒカリが残していった涙はあっという間に雨にかき消され、双子の兄弟がこの時代にいたという証拠はなくなった。ただ、人々の記憶に、神の使いとして語り継がれるだけとなった。


 そうして、ヒカリが計算した通り、人々からの信頼は女教皇へ送られ始める。


「リンレイさまの予言は正しかった」

「リンレイさま、万歳!」


 何もかもが、あの冷静な水色の瞳と紺の長い髪を持つ少年のお陰だ。お礼を言うことはもうできないが、彼が体験した過去へとたどり着かないよう、全力で統治するのみだ。それが、お礼がわりとなるのだろう。


 目に染むほどの青空を見上げている、クルミ色の瞳は涙が溜まりきれなくなって、頬を雫が伝い出した。顔を触るふりをして、リンレイは手のひらで拭う。


「姉上?」


 数年ぶりに聞くのんびりとした少女の声が、リンレイを無理やり笑顔にさせた。


「シルレ、久しぶりだ。元気だったか?」

「どちらに泳いでいるんですか?」


 ヒカリの兄もそうだったが、この妹もシリアスシーンには向かないと思い、リンレイは泣くことも忘れて、思わず微笑んだ。だけとって、魚に勝手に変換した妹を前にして。


「相変わらず元気そうだ」


 右へ向けと言えば右へ向く群衆と化した人々に命令を下す。誰も傷つかない世界を存続させる導きとして。


「戦いは終結だ――!」


 割れんばかりの拍手喝采となり、歓喜の声が怒涛のよう、いつまでも押し寄せていた――――

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