第15話 終わりの始まり
少し焦げ付いた野菜炒め定食が朝食だった。量が多くて残してしまい、ごめんと謝ると、母は朝から穏やかに笑っている。これから歩まなければならない修羅の道に、母を巻き込みたくはないので、できるだけ笑顔で返した。にしても、今日の野菜炒めは少し焦げすぎている気がする。それに、ちょっと油が多かった。
リビングで新聞を広げる父を素通りし、家を出た。あったかい紅茶で頬や手を暖めたい季節だ。コンビニに寄り、雑誌とコーヒーを購入した。飲みたいものは違うが、世にありふれている常識から外れた行動をしているためか、ユキさんに関するものに手を伸ばしづらかった。
早めに大学に着き、トイレの個室にこもる。後ろめたすぎて、講義室で開く気になれなかった。
──人気DJ、禁断の恋。
白黒の写真も文字も、葬式をイメージさせる色でしかない。
見覚えのありすぎる車で、顔を近づけるふたり。重なる唇ははっきりと撮られなかったものの、親密な関係にしか見えない。
記事を読んでいくと、ユキさんだけでなく、僕に関するものもかなり調べ尽くしている。普段から飲んでいるもの、生活リズムなど、嘘の中にほんの少しの本当を散りばめているものだから、違うと否定しづらいのだ。これが週刊誌のやり方だ。あまりにも汚い。ユキさんの記事にも、間違っているところが多い。そもそも、関係者Aって誰だ。付き合っていることは、僕もユキさんも第三者へは話していない。
「え…………」
──大学生が飲み終わり、捨てたペットボトル。DJユキが仕事で関わっている飲料。
──関係者Bによると、DJユキの載っている雑誌を二冊購入したのとのこと。
──裏では合コンに誘われ、参加するユキの恋人。お気に召す人はいなかった模様。
──関係者Cによると、女性にはあまり興味がなさそうだった。早く帰りたそうにしていた。
変な声が出た。頭が真っ白になる。雑誌を袋に入れ、鞄にしまう動作さえどうやったのか覚えていない。
念を込めて思い出せと頭を叩き、念や思いが伝わったかのように一本の線に繋がっていく。バイト先でのシュリンク作業、浮かれ気分でレジに持っていった僕、店長の不思議そうな顔。レジを打った店長。店長。
合コンのセッティングをした雷太君。最近は彼の様子がおかしく、あまり彼とは話していない。まさかとは思いたくはなくても、友人を疑いたくはなくても、これも因縁の線に繋がっているのではないか。
講義をさぼるなんて、今まで有り得なかったことだ。確かめなければ。できるだけ早い段階で。
すぐに電話をかけた先は、雷太君だ。電話越しの気怠そうな声に、苛立ちが募る。
「ちょっと話があるんだけど」
『……中庭で』
学校には来ていた。意図的に僕に会いたくなかったのか。中庭にいて数分遅れてやってきた。
「久しぶり」
「おう」
「単刀直入に聞くけど、この前、合コンを開いたのって雷太君だよね?」
「…………それが?」
「誰かの指示? タイミングがよすぎるんだけど」
「何のことだよ」
「あくまで推測だけど、本当は誰かからお金もらってたんじゃないの? 雷太君は僕を呼んだのだって、わざわざ僕である理由はなかった。雷太君は友達が多いしね。僕にやけに絡んできた女性の自称大学生が、本当の合コンの幹事」
「……………………」
「どういう経緯で来た人? それくらいなら言えるよね? 会えるものならもう一度会いたいんだけど」
「……………………」
気まずい顔なんて見たくなかった。真っ向から怒って、違うと否定してほしかった。赤くなる顔は、今までどんな感情をひた隠しにし、僕と顔を合わせられないほど後悔していたのか。
「……悪かった」
「そんな言葉……聞きたくなんてなかった……」
「金がなかったんだよ」
「いくらで僕を売ったの?」
「…………数万」
「安い友情だったね」
数年間の付き合いだったけれど、もっと長いように感じられた。鞄につく彼からもらったプレゼントは、儚く揺れる。本当に、嬉しかった。もう過去形。
「さようなら」
大学に来たくないとも思わない。むしろ、何が何でもトップの成績で卒業してやろうという気持ちが強くなった。こんな雑草根性が僕の中にあるとは、僕自身思わなかった。鞄についてあるキーホルダーをむしり取り、廊下に設置されているゴミ箱に投げ捨てた。窮余の中にも、少し前を向く勇気が沸いた。皮肉すぎる。
次に向かう先は、日々お世話になっている場所であり、ナオキさんとも出会った場所だ。いい思い出だけ留まっていてほしかった。店長は本の整理をしていて、僕に気づくと、驚きながらもにこやかに振り返る。
「どうしたの? 今日はバイトの日じゃないよね?」
「お話があります」
鞄から出した雑誌に、店長の目が泳いだ。分かりやすい。
「この雑誌は見覚えがありますよね?」
「……………………」
「違うなら違うと否定して頂いて結構です」
口が開き、また閉じる。
あのとき、レジを打ったのは店長だ。確か店内にはお客さんがほとんどいなかった記憶がある。僕が雑誌を二冊購入したなど、知っている人物は限られていた。
「その……なんだ……」
「僕の情報はいくらでしたか」
「…………すまん」
こういう人だと見抜けなかった自分にもがっかりした。姉さんの人を見る目が養われているという褒め言葉は、積み木以上に簡単に脆く崩れ落ちた。積み木と違うのは、積み上げることは不可能だということ。子供の頃、一生懸命に積んだ積み木を横を通った父に振動で全壊された記憶がある。父は焦りながら……一緒に組み立ててくれた。
「すまん……本当に。お金がなかったんだ……」
「……がっかりです。そんな人だとは」
「子供もいるし妻もいる。妻は妊娠しているんだ」
「理由になってない。ただの言い訳です。家族のために、僕を犠牲にしたんですね」
他の従業員たちも集まり出した。心配そうに、人によっては野次馬のような視線を向けてくる。
「将来性のある子供を育てるのは、君には理解できない。とても大変なんだ」
「……今度はパワハラですか。バイトは辞めます。お世話になりました」
「待ってくれ。そんなつもりじゃ」
「ゲイである僕に対する侮辱です。あなたの言う通り、僕は好きな相手とも子供ができないし、あなたの思う一般的な家族は理解できません。そんな人の元で、仕事をこれからも続けていけません」
言い争い以上に僕の秘密に一驚した社員たちは、固まるしかない。僕だって、好き好んで知られたくはないし分かってほしいとも思わない。ただ、それぞれが好きに恋愛をしているように、放ってほしいだけだ。
「お世話になりました」
形ばかりの挨拶を交わし、踵を返した。雨が降って汚いものを流してくれたらいいのに、生憎今日は晴天だ。しかも雲一つなく、太陽が欠けることなく顔を出している。
以前ペットボトルを捨てたゴミ箱があり、僕の捨てた空ボトルだけが無くなっていたのは気のせいではなかった。わざわざ拾って写真に収める行為は、どんな思いでカメラを向けたのだろうか。あの二人と同じように、空のペットボトルが黄金色に輝く金銭にでも見えたのだろうか。彼らにとって僕は薄汚れた貨幣で、価値があるようように見えて人としての価値はゼロだとレッテルを貼られた。
猛烈に姉さんに会いたくなった。
──何してる?
メールくらいは許されるだろうと、送ってみた。返事は来なかったけれど、少し気が紛れた。代わりに、入れ違いにユキさんからメールが届く。
──晴弥、仲直りしよう。
小学生だった自分は、喧嘩した友人に簡単に謝れなかった。意外と意地っ張りなんだなと、冷静に性格診断をした記憶がある。お互いに悩んで出した結果がこれだ。ユキさんは大人。僕は子供。
──仲直りしたいです。大人になりたい。子供でごめんなさい。
一歩遅れたけれど、僕も大人になりたくメールを送り返した。なのに。
──大丈夫。クリスマスに大人になれるから。
意味が分からない。そう思ったのも束の間で、画面をかち割りたい衝動を必死に抑えた。ここは無視すべきだ。大人は反省したらいい。続いて、何かあったら交番に駆け込むこと、すぐ俺に電話してと、注意書きが連続的に画面を埋め尽くした。無視と感謝の狭間を揺れ動いて、猫のスタンプを返してやった。
──電話に出て。
すぐに出ると、安心しきった声で名前を呼ばれた。初めてのおつかいが成功したみたいだ。僕も安堵の息が漏れる。
「ユキさん、ごめんなさい」
『こちらこそ。仲直りしよう。今どこにいる?』
「……バイト先」
『バイト? 学校は?』
余計に話がこじれる前に、僕は今日一日で起こった激動の時間を大まかに説明した。友人の萩原雷太に罠にはめられたこと、雇用主から個人情報を売られたこと。ペットボトルが無くなっていたのは僕が処分したものから情報を割り出すためだったこと。
「というわけで、辞めてきました。これは僕の意思なので、ユキさんは気にしないで下さい。もっと多めに入ってほしいって言われていて、どっちにしろ来年から就活が始まりますから、条件が合わなくなっていたので」
『……どこの本屋さんだっけ?』
懐かしの本屋の名前を告げる。懐かしいと思えるほど、すでに僕の中では過去になっている。
「いろいろぶちまけたら、少しすっきりしているんです。ユキさんが思っているほど、うだうだしてません」
『そうみたいだね。けれど無理は禁物。すぐに会いに行きたいけれど、ちょっとこっちもバタバタしているんだ。時間ができたら、優先して会いにいくから』
うだうだの内容は、仕事と恋愛絡みがごっちゃになっているのだろう。僕も気をつけていればよかった。浮かれていないで、もっと疑心暗鬼になってもよかった。今さらもう遅い。
家に戻る趣旨を伝え、電話を切った。今帰れば母にも心配されるし、けれどその辺をぶらぶらしたくない。急いだところで電車時間は変わらずとも、急ぎ気味で電車に乗った。
「え……」
玄関を開けた瞬間、飛び込んできたものは、母のものでもない赤いハイヒール。靴を脱ぎ捨てて、リビングに駆け込んだ。
「よっ。私が帰ってきたおかげで今夜は寿司よ。姉に感謝しな」
「…………なんで、」
「なんでって、アンタが連絡してきたからでしょうが」
「…………姉さん」
荷物を放り投げ、姉さんに抱きついた。見ての通り、お酒臭い。
「夕食食べたら帰るからね。今なら甘え放題だよ良かったな」
「うん……うん」
「何があった? ちなみに母さんは買い物。私のビール買いに行った」
ユキさんに説明した通り、姉さんにも同じく順を追って経緯を話した。芸能人の彼氏がいて、週刊誌に写真を撮られ、友情も仕事も失ってしまったと。ユキさんのときと違うのは、愚痴も交えながら話せたことだ。
「友達もいなくなった……仕事もなくなった」
「『そして誰もいなくなった』みたいだねえ。何の本だっけ?」
「アガサ・クリスティー」
「それだ」
「作られた物語と一緒にしないでよ……唯一の友達も失ったんだし」
「金で人を売るような人を友達とは言わない。それと大学なんていう狭い世界がすべてじゃないのよ。社会に出れば星の数ほど人に出会える」
「一等星はユキさんはひとりだけだよ……」
「顔写真ある? みたい」
「DJユキで検索して……わんさか画像出るようになっちゃった……」
仕事が増えるのは喜ばしいことだが、彼氏心としては気鬱だ。保存しつつ許可なく人の彼氏を載せるなと複雑になる。
「うそ、イケメン」
「性格も大らかで優しいんだよ」
ちょっとエッチだけど。
「その雑誌は私も見ていいやつ?」
「やめてほしいやつ」
「…………どんなシーン撮られたのよ」
「弟のキスシーン見て楽しい?」
「…………やめとくわ」
厳密にははっきり撮られたわけではないけれど、家族に見られるほど気まずいものはない。
「大人になると、出会いは増えるけど付き合う人は狭まるのよね。社会に出れば、ユキさんともなかなか会う時間が少なくなるよ」
「……………………」
「だからこそ、ふたりで乗り越えな。姉ちゃんだって助けてやる。でも最後に土俵に残るのはユキさんだからね」
「うん……つらいけど、がんばる」
「喧嘩でもしたの?」
「それは大丈夫。仲直りしたから」
帰ってきた母さんは僕の泣き顔を見て目を細め、今夜は寿司だとのん気に言った。おおよその事情は姉さんが話したんだと思う。姉さんも母さんも、そしてユキさんも、優しすぎる。
今が踏ん張りどきだ。カメラを持つ人や僕を暴く人からの押し出しを交わし、土俵から落ちないようにしなければならない。そのためにはユキさんの手が必要で、差し出された手は迷わず取ろう。
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