第12話 初めての……

 カラオケでの一件以来、ユキさんとの間が縮まった気がした。ユキさんは僕を晴弥君か晴弥と呼ぶ。僕は相変わらずユキさんのままだけれど、いつかは『雪央さん』と本名で呼んでみたい。

 画面の光で、彼からのメールだと思ったが、相手は雷太君だった。珍しい。彼とは大学で会っているので、メールはほとんどしない。

──合コン行かね?

 最近、僕を困らせる質問トップに君臨している。ちなみに次に鎮座しているのは、ユキさんの「またくすぐっていい?」だ。本気なのか冗談なのかも分からずに上手い返しが思いつかなかったので、「喜んで」と返したら、お腹が膨らんだソラの画像が送られてきた。お腹いっぱいで満たされているのだろう。

──いやだ。

 人間、素直が一番なのかもしれない。電話がかかってきた。

『なんで行かねえんだよ』

「いきなり? お酒好きじゃないって言わなかったっけ?」

『頼む、人数合わせだ』

「他にいなかったの?」

『お前は無料でいい』

「え?」

 無料。タダ。ゼロ。魅力的な言葉の反面、只より高いはなはないという意味が隠されている。経験上、安ければ安いなりの理由があるのだ。

『臨時の金が入ったんだ』

「バイトとか?」

『まあ……そんな感じ。お前に気があるって女子がいて、ちょっとでいいから付き合ってくんねえ?』

 一番断りづらい理由を持ってこられた。この男も経験上、分かっていて誘っている。

「……ちょっとだけなら」

『よっしゃ。明日な』

 言いたいことだけを言い、雷太君はさっさと電話を切ってしまった。詳しいことは大学で説明があるんだろう。憂鬱でしかない。こんなときは、ユキさんからもらった画像を見るに限る。彼女自慢というフォルダを開いた。

 ふと思い、顔を上げた。ユキさんからたくさんの画像をもらうが、自分からは返したことはない。試しに、窓越しに映る星空を撮影し、彼に送ってみた。

──可愛い。

 可愛い?

──星空が、ですか?

──ううん。晴弥が。

 どういう意味だろう、と送った画像を開いてみる。何気に名前で呼ばれた。うれしくて、クッションをぼすんとした。

「あ」

 窓に映るのは星空だけではない。ぼんやりした見知った顔が散りばめられた輝きを見上げている。

──いつもパジャマを着ているの?

──パジャマです。柔らかくて好き。

──晴弥の肌も柔らかかったけど。

 ふう、と熱い息が漏れた。下の辺りがもぞもぞして、居心地が悪い。部屋には誰もいないのに、怖くなって布団に潜った。

──ユキさんの手は、男らしかったです。ちょっとときめいた。かっこよかった。

──俺が? 眼鏡が?

──うーん……どっちも。

──眼鏡かあ……そっかあ……。

──どっちも!

──今度、またいろんなことをしようね。

 毎回最後に爆弾を軽く添えてくるあたり、もはやわざとなのではないかと頭を悩ます。

 男の性だ、仕方ないと言い聞かせても、眠りにつけないほどの熱が沸き起こり、どうしようもなく、ついに禁断の行為に手を伸ばした。


 手を伸ばした先にあるグラスは汗が流れ、そっと布巾で回りを拭いた。

「こういうの、気になる?」

「なんか、落ち着かなくて」

 店に入った瞬間からアルコールの匂いで満たされていて、辺境の地に赴いた気分だ。やはり、断るべきだったのかもしれない。目の前の女性が、うっとりとカクテルを見て口をつけた。どう見ても同年代には見えない。化粧の仕方も、仕草も、持っているブランドの鞄も。それでも大学生だと言い張る女性に「そうですか」と淡々と答えた。それが一番炎上しない、揉めないやり方だろう。

 端の席に座っている雷太君は、具合が悪いわけでもないだろうにお酒の進みがあまりよくなかった。彼女欲しいが口癖でも、今日は積極的に輪に入らない。

「志摩君は彼女いないの?」

「いません」

「好きな人は?」

 当たり前に交わされる会話は、僕には痛い。

「……どうでしょう」

「そこまで言って隠す? 合コンなのに」

 好意のある会話でも、ちょっとしつこいなどと思ってしまった。あまり聞かれたくない話だ。

「女性に興味がない感じ?」

 盛り上がっていた両隣が会話を止め、僕の返答に耳を澄ませる。期待を込められても、僕には返す言葉は同じだ。

「付き合いで、参加しただけなので。僕、ちょっとトイレ」

 このまま帰宅したくても、雷太君がなぜか熱い視線を送ってくるため、嘆息で返答をした。

 誰もいないトイレの個室で、僕はほんの少し端末を見るつもりで開いた。

──何してるの?

──飲み会中ですけど、帰ろうかと思ってます。

──俺は仕事終えたところだよ。いいなあ。

──お酒がですか?

──晴弥君と飲み会できるところが。

 トイレのドアを叩きそうになった。足踏みだけで耐えた僕を、誰か褒めてほしい。

──やっぱり、帰ることにします。ユキさんの文面見てたら元気出ました。

──大丈夫? 疲れてる?

──精神的に、くるものがあります。女性だらけですし、元々人数合わせで参加させられたようなものなんです。

──疲れたときは、おもいっきり甘えるといいよ。ぎゅーってして、頭を撫でられると元気が出るかも。

──されたことない……いいなあ……。

──今なら先着一名様で、俺の胸が空いています。

──予約は可能でしょうか?

──可能です。

──あの、僕の胸も空いてますので!

 しばらく経っても返事が来なかったが、僕は端末をしまい、トイレの個室を出た。

「ひっ……びっくりした」

「戻ってこないから」

 画面に夢中になりすぎていたせいか、雷太君がいた。見て分かるほど不機嫌を散らして、壁に寄りかかっていた。

「あの、僕帰るから」

「お前さ、」

 通り過ぎる瞬間、腕を掴まれた。

「お前……女に興味ねえの?」

「は…………?」

 いつもの冗談めかした顔ではなく、疑いの目をかけるような、どちらかというと探るような目で僕を映している。

「…………帰る」

 何度も友達である彼に言おうと思った。ユキさんの言葉が正解だった。言えばいいというものでもない。今の彼は、目に親の敵でもあるかのような憎々しさが宿っている。僕が何をしたっていうんだ。

 力の抜けた手からすり抜け、トイレを後にした。飲み会の席で挨拶をしてから帰ろうと思っていたが、盛り上がっているところにお邪魔するのも悪いし、さっきの女性はずっと携帯端末を弄っている。回りなんて見えていない。

 外の風に当たると、いかに雰囲気に呑まれていたのか実感した。足下の感覚が曖昧で、脳からの通信がうまく伝わっていない。入れ物の半分も飲まなかったためか、それほど強い酔いは感じない。アルコールよりも女性が飲んでいたカクテルの色が、いやに脳に染みついていた。

 軽いクラクションが鳴り、見てもいないのにユキさんだと思った。警笛であるはずでも、鳴らし方も優しいのだ。

「こんばんは。寒かったでしょう?」

「こんばんは、おかげで酔いが覚めました」

 渡された水はとても冷たい。ミネラルウォーターがこんなに美味しいなんて、思わなかった。

「どうかしました?」

「いや……」

 僕の顔を見るユキさんは何か言いたげで、見られ続けるのも恥ずかしい。反対側を見ても窓に映るユキさんがいて、もう諦めて正面を向いた。正面は正面で、ユキさんの顔が見えない。

 何も言わずに、ユキさんはアクセルを踏んだ。どこに向かうのかは告げず、ハンドルを左に切った。

 走ってからそれほど時間は経っていない。信号で数回止まるたびに、僕はユキさんを見ると、彼も僕を見ていた。切羽詰まったような顔は雷太君とはまた違った意味があって、僕と同じならいいのに、と強く願う。

「公園だ……」

 季節感のある大きな公園は、今は真っ暗でマラソンをする人が走っているくらいだ。春であれば花見、今の時期なら紅葉が見頃で、日中ならさぞかし綺麗だったろう。右を見ると、花や紅葉よりきれいな人がいる。

「後ろに移動しない?」

「はい」

 後部座席には、猫のぬいぐるみが座っている。ユキさんは端に避けて、僕との距離を詰めた。何度か会っているうちに、今は緊張に歓喜も入り混じって、欲求が果てしない。見てはいけないものを見てしまいそうになる。

「父親に、会わないことにした」

「心を決めた感じですね」

「ああ。俺や母さんが未来に向けて歩き出していたのに、それを壊されたくない」

 一呼吸おき、また口を開いた。

「今日、どうしても晴弥君に言いたいことがあった」

「ユキさん、とっても緊張してます」

「うん、ものすごい緊張してる。こんなに声が震えるのって、初めてのラジオ以来かもしれない」

 心が備わっていない笑いが、車内に響く。

「いつも、心を通わせてくれてありがとう。電波を通して、側にいて、導いてくれる。同時に、自分の不甲斐なさに、腹が立つときもある。なぜあのときああしなかったのか、後になって後悔の連続だよ」

 ため息混じりに呟いても、絵になる人だ。

 真剣な話をしていても、意識が別の方向に取られてしまい、集中力にヒビが入ってしまった。

「その、晴弥と……、セックスしたい」

「……………………」

「……………………」

 ん?

「ん? え?」

「違う間違った。いや一概に間違いとはいえないんだけど……駄目だパジャマのことは違うんだ、あのさ、そうじゃなくて」

「と、とりあえず落ち着いて下さい。僕も落ち着きます。全然、落ち着かないけど……っ」

「俺と、付き合ってほしいって、言いたかった」

「……………………」

「……今の俺、めちゃくちゃかっこ悪いよな」

「いつも通り、かっこいいですけど……」

 長身をこれでもかと縮こませ、顔を両手で覆い隠してしまった。

「ユキさん……したかったんですか」

「それは忘れて……」

「いろいろ先走りましたね……」

「うん……」

「よろしくお願いします」

「ん?」

「僕も……その……同じ気持ちです。ずっと……」

「ほ、本当に? パジャマ姿をおかずにするような男だよ? こんな俺とできる?」

「あの……そっちの話ですか……? 付き合って、の返事です……」

 二度目、ユキさんは唸りながら顔を両手で塞いだ。一回目より身体が小さくなった気がする。

「ユキさんって……性欲強いんですね」

「はっきり言わないでよ……諸々ひどいんだから」

「嬉しい……」

「それは、どっちの嬉しい?」

 さすがに学習したのか、隙間から覗いてきた。

「どっちもです。僕のことを好いてくれていたことも、……諸々強いところも」

「え、本当に?」

 子犬みたいだ。尻尾がパタパタしているのが見える。

「ユキさんはへんたい。インプットしました」

「違うって、ちょっとえっちなだけだよ」

「ええー、そんな発言聞かされてちょっとって」

「試していい?」

 背中に回された手が微かに震えている。距離をなくし、太股に手を置いた。

 ユキさんの熱い手が頬に当たり、親指でくるくると回される。僕が顔を上げると、柔らかな唇が重なった。先ほどの会話など微塵も感じさせない、性の匂いもしない、暖かな思春期の子供のような行為だった。

「ユキさんって……」

「なに?」

 えっち以前に、とってもピュアな人。もっと性欲に忠実な行為をされるのかと勝手に期待をしてしまった。発言と行為が真逆に進み、僕は少し物足りない。それがふわふわしていて、気持ち良い。

 この日は触れ合うだけに終わり、わたあめの中にいるかのような空気を味わった。初めてのキスはマシュマロみたいで、けれどユキさんからしたらアルコールくさかっただろう。

 普段はご両親と挨拶させてほしいというユキさんは、今日に限って何も言わない。やましいことがあると、隠したくなるものだ。

「じゃあ……また」

「はい……」

 照れもあってか、顔を見て挨拶ができない。駅まで送ってもらい、車が見えなくなるまで見送った。

 初めての朝帰りに、母はなんと言うのだろう。ちょっぴり大人の階段を上り、少し自信のついた僕は、やってくるかもしれない父との戦闘に備えて鍵を差し込んだ。

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