第10話 尾灯の意味

 軽い箱と茶色の缶を持ち、戦場へ続く階段を下りていく。武器になるようなものは、片手で持てる大きさのハーブの缶だ。けれど、暴力で解決しようとは思っていない。分かり合えるとも思っていない。ただ僕は、大好きな人との約束を果たしたいだけだ。

 リビングに行き、二人に、主に父親に見せつけるように、二つの土産をテーブルに置いた。

「この前、ハーブのお店に行ってきた。一緒に食べよう」

 お茶の誘いというより、悪を成敗するヒーローにでもなった気分だ。僕の正義をどこまでも貫いてやる。たかだかお菓子なんかじゃない。

「……まあ、そうなの」

 嬉しいときの声色じゃない。判断に迷っているときの声だ。

「食べよう」

 譲らない。絶対に。

 新聞を読む父親は、ページもめくらず固まっている。言いたいことがあれば言えばいい。病気でも、悪魔でも。あのときの僕とは違う。今は、信じてくれる人がいる。

「……虫歯にはなるなよ」

 折りたたんだ新聞を置いて立ち上がるとき、確かにそう聞こえた。聞き取りにくかったのは、椅子の脚が床を擦り、音が重なってしまったからだ。

 母に出かけてくると言い残した父親は、車の鍵を持って外に出ていってしまった。

「二人で食べましょうか」

「…………うん」

 ハーブティーは僕が準備した。今からハーブティー缶とクッキーを持って父親と対峙してきますという、つまらない家庭内事情にも、何百倍にして優しさで返してくれた。ハーブティー缶に書かれているレシピよりもおすすめの飲み方をこと細かく。さらに、クッキーはハーブティーに浸しても美味しいと。こだわりがすごい。

「これは何のハーブ?」

「レモンバームとかカモミールとか、頭痛に利くブレンドティーだって。頭怪我して、これがいいって言われた」

 ハーブクッキーを浸して食べると、ハーブの味が濃くなった。

「誰と行ったの?」

「ちょっとした、知り合い」

「学校のお友達?」

「社会人」

「あらまあ」

 急に羞恥が込み上げてきて、温めのハーブティーを多めに口に入れた。

「いい人なの?」

「うん。すっごく。お礼がしたいんだけど、何もできなくて。お金がないし」

「何もお金だけじゃないわ。私なら、こうしてお菓子を食べられる時間があるのって、それだけで嬉しいものよ」

「……あの人は何を考えているんだろうね」

 自分で押しつけたルールなのに、あの態度に拍子抜けしてしまった。人間は誰かを好きになるように、あの人の心にも変化が訪れたのだろうか。

 まったりとお茶の時間を楽しんだ後は、部屋に戻ってさっそくメールをした。

──ハーブクッキーもハーブティーも、とても美味しかったです。母も、すごく気に入ってくれました。

──また行こうね。次はどこに行きたい?

 少し困る文面だ。嬉しいからこそ、なお複雑。謙虚すぎるのもネガティヴを与えてしまうので、お言葉に甘えることにした。

──水族館とか、猫カフェとか。生き物は好きです。

──分かる。俺も好き。猫カフェはなあ……俺、彼女いるから。

 一瞬どきっとしたが、次に送られてきた画像でぜんぶ吹っ飛んだ。テレビの隙間から覗く猫の姿は、きっとソファーの上で撮ったものだろう。僕は瞬時に保存した。そして何気にテレビが大きい。

──匂わせ系ですか……そうですか。

──今、流行りの匂わせ系彼女だよ。

──すごく、すごく可愛らしい……。

──ふふ、自慢だからね。

 匂わせ彼女の話で盛り上がる中、次は水族館に行く流れとなった。嬉しくてどこかへ飛んでいってしまいたい。神様は試練ばかり与えてくるけれど、これも試練に繋がる何かが待ち構えているのではと、ネガティヴ思考を捨てきれない。そんな僕の考えをばっさり切り捨てるかのように、猫の肉球の画像も送られてきた。有り難く、保存した。


 秋が深まると、いよいよ僕の好きなカーディガンの出番だ。秋らしく、薄い紫がかった色のカーディガンを羽織り、家を出た。アスファルトには色づいた葉が落ち、たった数週間の変化に人がついていけていない。その証拠に、外を歩く人たちの格好に一律がない。ユキさんは、今日はどんな格好で来るだろうか。

 待ち合わせ場所に行くと、彼は車の中で電話をしていた。僕に気づくと、助手席を指差したので、なるべく音を立てないように隣に座る。

「お揃いだね」

 電話を切ったとたん、ユキさんが突拍子もないことを言い出した。彼の視線を辿る先は、僕のカーディガン。ユキさんの着ているものは、クリーム色の優しい色。

「……お顔ばかり見ていたので、今気づきました」

「紫好きなの?」

「秋なので、秋色にしてみました」

「面白い表現だね。俺なら黄や赤をイメージするけど」

「……焼き芋の色です。いいんです。ユキさんの笑い声も聞けましたから」

「ごめん、堪えきれない」

 向かう先は、都会のど真ん中にある水族館だ。ネットで調べながら、ふたりで決めた。

「中はちょっと寒いだろうし、カーディガンはちょうどいいかもね。生き物好きって言ってたけど、苦手な動物はいないの?」

「特にないです。ユキさんは?」

「…………いないよ?」

「……………………」

「ほら、行こうか」

 チケットを二枚購入したユキさんは、僕に一枚渡した。さり気ない仕草もかっこよく見えるけれど、僕は騙されない。好きな人のことは何でも知りたいのだ。たとえそれが苦手なものでも。

「ここでペンギンの運動会が見られるみたいだね。見ていく?」

「見たいです」

 長い行列を作り、一本道を歩くだけのイベントでも、ペンギンならとても可愛く見える。たまにおかしな行動をするものがいても、微笑ましく思えるのだ。

「たまに、一匹だけ外れた行動をするペンギンがいたりするじゃないですか」

「うん」

「ああいう可愛い生き物がそういうことをしても微笑ましく思われるのに、人間が同じ行動をすれば好奇の目にさらされる」

「俺たちは人間目線だからね。もしかしたら、ペンギン同士では微笑ましいとは思われていないのかもしれないよ」

 目から鱗だ。

「好奇な目以前に、死に直結するし」

「そういえば……そうですね」

「あと十分で始まるみたいだし、先に行こうか」

 夏休みが終わったためか、思っていたよりは空いていた。ユキさんは僕の腕を取り、見えやすい場所に移動してくれる。熱が広がり、背中がかゆい。暑くなると背中がかゆくなるのは、子供の頃からだった。アレルギーなのか普通なのか分からなくて、父親に病院に連れていかれたことがあった。歯医者同様、やっぱり皮膚科でも泣いていた。

「可愛いですね。でもユキさん的には、猫の方が可愛いですよね」

「うーん……ソラかなあ」

 猫じゃない、ソラだ。きっと猫界の頂点に達しているんだ。

「ペンギンって、オス同士でペアになったり、ヒナを育てたりするらしいね」

「そうなんですか?」

「うん。いいねえ、愛だねえ」

「あ、ユキさん」

 ペンギンのコーナーに、大きなパネルがあった。

「ペンギンの恋愛事情……一匹一匹にちゃんと名前がついてるんですね」

 赤い矢印、青い矢印、亀裂の入ったハートマーク。ペンギンの写真が霞むほどに埋め尽くされている。ペンギン一匹に対し、矢印が四方八方から飛んで狙い撃ちにされている者や、矢印がないためか端に追いやられた写真、オス同士の相思相愛。

「なんていうか……エグいね」

「パネル更新中の文字がまた物議を醸しそうです。ペンギン業界には、人間の常識は一切通用しないですね」

「しかもこれ以上更新することなんてあるのか。恋愛は自由って思ってたけど、若干引いている俺がいるよ……」

「同じです……」

「ひとりを一生涯かけて愛する方がいい」

 ぽつりと呟いたユキさんの言葉だけれど、次に行こうと肩を叩いたのと重なり、変な誘惑が身体を蝕んだ。

 巨大な水槽を優雅に泳ぐ魚たち、小さな水槽で漂うクラゲ、僕たちの目を引いたのはクリオネだった。丸い水槽の上に設置された動画で捕食シーンが何度も流され、知らない方が幸せなこともあるととても勉強になった。

 次のコーナーに行こうとしたとき、ユキさんの足が止まった。どうしたのかと見上げても、水族館の青白い光のせいか顔色ははっきりと分からない。でもユキさんがかっこいいのは光の加減は関係ない。

「俺さ、」

「はい」

「晴弥君にどこへ行きたいか聞いたとき、動物園って言われなくて心底良かったと思ったんだ。アレがいる確率が高いし」

 アレ、とは。

 壁に備え付けてある看板には、律儀に『爬虫類コーナー』とでかでかと書かれていた。ヘビの絵付きで。

「あー、あー、なるほど。ユキさん、あー」

「本当にね、これはね、なぜこの惑星に生まれてきたか理解できないんだ」

「大丈夫です。僕がついてます」

「頼もしいね……かっこいいよ」

「……ユキさんみたいなかっこいい人に言われても。行きましょうか」

 背中を押しても、子供の駄々っ子のように動かない。その横を素通りして中に入る親子連れ。多分、まだ小学一年生くらい。ユキさんは横目で一瞥した後、死んだ魚のような目で少しずつ足を進めた。いろいろと思うところがあったのだろう。

「ユキさん、その、怖かったら僕の腕を掴んでていいですよ」

 僕の精一杯のかっこつけに、一秒もかからずユキさんは僕の腕を掴んだ。色気のある掴み方というより、命綱を引っ張るような掴み方で。それでも、僕はうれしい。

「樹上性のヘビは神経質だったり臆病な性格が多いんですよ。このふたつの性格って紙一重ですね」

「そうだねー」

「あのヘビ見たことある……卵しか食べないヘビだったはず」

「そうだねー」

「ユキさん?」

「そうだねー」

 すんでのところで出かかった言葉を飲み込んだ。もしかしたら、ユキさんにくっついてもらえるチャンスは、またとないかもしれない。そんな意地悪な考えが浮かび、自己嫌悪に陥った。もう出ようなんて、言葉にできなかった。

「ね、お願いがあるんだけど」

「なんでしょう?」

 ユキさんの手が下がっていく。肘の当たりにあった手は、今は手首を掴まれていて、白昼夢でも見ているんじゃないのかと、緑色をしたヘビと同じく固まってしまった。グリーンパイソンは何を思って僕たちを見ているのだろう。目が合いすぎだ。ユキさんは、カエル状態になっている。

「これなら歩けるかもしれない」

 何か反応を示さなければならないのに、固まったのは僕の方だ。僕の方がヘビに睨まれたカエルだった。

「も、問題ないです」

「良かった。ほら、次に行こう」

 気の利いた言葉も出ず、カーディガンの上からではなく直接触れている箇所に、全神経が集中している。ひんやりとした室内でも、ユキさんの手はあたたかい。手の冷たい人は心が暖かいなんて言うけれど、あれは嘘だ。冷たくても暖かくても、ユキさんはほんわかした茶目っ気のある人。

 ヘビが苦手と言いつつも、トカゲのコーナーも早歩きで素通りし、出口を目指した。ユキさんにとっては天国に見えていると思う。出口付近がクリオネのコーナーに繋がっていたようで、流氷の天使に出迎えられた。捕食シーンは、僕は見ていない。

「秋らしく、秋の味覚にちなんだジェラートがあるみたいだね。食べない?」

「食べたいです。塩ジェラートが美味しそう」

「えっ」

「え?」

「秋だよ?」

「……焼き芋味のジェラートで」

「うそうそ。好きな味にしなよ」

「じゃあ、塩か……焼き芋」

 僕の財布は永遠の眠りについているのかもしれない。塩と焼き芋味のジェラートとひとつずつ購入したユキさんは財布を出そうとする僕に無理やり持たせ、結局ユキさんが支払ってしまった。

「……社会人はずるい」

「社会に出ると、なかなか奢ってもらえないよ? 甘えるときは甘えるべき。ところで晴弥君は塩系のお菓子は好き?」

「好きです。塩大福とか塩アイスとか、塩パンとか」

「晴弥君分かってるね。いろいろ食べても結局はシンプルなのたどり着くんだよ。疲れたときの塩ロールパンは最高だね。ジャムもバターもつけずに、軽めに焼いてそのままを味わうんだ」

 やや早口のユキさんは、塩ジェラートをスプーンですくった。塩系デザートが好きなのは把握済みだ。生放送のラジオで、彼は力の入るあまり十五分も塩系デザートについて語っていたから。

「ほら」

「ひっ……」

「なに今の悲鳴は」

「い、いただきます……」

 僕と間接キスをして気持ち悪くないのだろうか。そんな不安も簡単に吹き飛ばし、僕に食べさせたスプーンでユキさん自身も塩ジェラートを食べた。

 焼き芋味のジェラートは、芋の塊が皮ごとごろっと入っていて、とにかく主張が激しかった。ねっとりとしていて柔らかく、ジェラートと一緒に食べると濃さが強調された。

「……食べますか?」

 ユキさんが気にしないのであれば、僕は同じようにスプーンを差し出したい。にこにこの彼を見ては、厚かましいネガティヴは消し去ってもいいのかと思う。

「願いが叶って良かったね」

「うう……はい」

「今日、秋の味覚は絶対に食べようと思っていたから」

「……………………」

 意思の疎通には少し時間がかかるが、勘違いのまま終わらせることも大切だと学んだ。ふたりで半分こをして食べ終えた後は、土産コーナーに寄った。僕は特に欲しいものはなかったが、ユキさんはペンギンのボールペンやクリアファイルを真剣に眺めている。そんなユキさんを、僕も真剣に眺める。

「浮気は良くないよな……うん」

 手に持つクリアファイルを棚に戻した。そういうこだわりは、きっと仕事にも影響しているんだと思う。真面目で貫くユキさんを、ますます好きになった。

 お土産は買わずに、日が傾いたところでユキさんが送っていくと言ってくれた。本当は、正直言うと、もう少し一緒にいたかった。

「お父さん、帰ってきてるかな?」

「今の時間はまだです」

 急に出た父親の話。前に、ユキさんはお互いに父親には苦労するねと言っていた。家族の話を持ち出す勇気は、まだ僕には備わっていない。

 車の中の沈黙は、今は怖くなくなった。何か話さないといけない雰囲気はなく、それはユキさんの穏やかに吹かせる風が心地良いおかげだ。あと少しでお別れをしなければならない。次の約束を取りつけたい。

「ちょっと忙しい仕事が続くから、しばらく会えないかもしれない」

 顔面に岩石を食らった気分だ。遠回しのさようならか、言葉をそのまま信じるなら、時間は過ぎてもまた会おう、か。

 当然のように家まで送ってくれたユキさんは、寂しそうな顔で「勉強頑張ってね」と言った。満たされる言葉ではなかったけれど、「テストも頑張ります」と伝え、正真正銘のさようならをした。

 角を曲がる直接、車の尾灯が数回点滅を繰り返し、僕は何の合図だったか考えているうちに涙が引っ込んだ。

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