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「大きな物語」について
リオタール『ポストモダンの条件』(1979)にて提唱。
以下『アートスケープ』ウェブサイトの引用
「科学がみずからの依拠する規則を正当化する際に用いる「物語、語り口narrative」のことを意味する。上記のような含意から、同書のなかでは、同じ意味として「メタ(=上位)物語métarécit」という表現が使われることもある。
リオタールによれば、従来人々は科学の正当性を担保するために「大きな物語」としての哲学を必要としてきた。ここでいう「哲学」とは、真偽や善悪を問う際の「基礎づけ」を担う知の領域を指し示している。リオタールは、このような「大きな物語」に準拠していた時代を「モダン」、そしてそれに対する不信感が蔓延した時代を「ポストモダン」と呼んでいる。つまりポストモダンとは、この基礎づけとしての「哲学」が有効性を失った、言い換えれば「大きな物語」が終焉した時代だというのである。1980年代以降に「ポストモダン」という言葉が浸透するにつれて、「大きな物語の終焉」というキャッチフレーズは、それ以前の時代からの断絶を強調するための格好の用語として広く人口に膾炙した。しかし上記のように、そもそもこの言葉を広く知らしめた『ポストモダンの条件』において、「大きな物語」という言葉が科学の正当化をめぐる議論において用いられていたという事実は記憶にとどめておく必要がある。」引用終わり
ある種「大きな物語」は「キリスト教的価値観」のようであり、この時点で西洋的観念に基づく概念とも思える。「大きな物語」に対する不信感は、ニーチェさながらである。引用記事における「科学に対する正当性の議論」という点については、「科学実証主義」がその実「直観に基づく積み重ねとしての証拠主義」だったことへの批判と読み替えれば、後世における考察とも合致すると思う。まあそこは私にとって問題ではないのだが。
問題なのは「大きな物語」に対立する概念として立ち現れてくる「小さな物語」である。具体的に言えば、「大きな物語」は「マスメディア」と同一の文化的傾向を持つと断定できる。言い換えれば「パラダイム」である。近い文化的近縁語として連想されるのは「国民国家」「20世紀」「国民としての大衆」である。「大きな物語」とは、近現代における言語的文化的共同体がマスメディアによって生じさせた「文化の共時性」である。つまり、20世紀の国民はマスメディアによって「同期」されたのである。その一方「小さな物語」を定義するなら、現代の極端な個人自由主義の源流となっている「ソース(情報源)」ではなかろうか。
時代の変化とともに、「小さな物語」は形態変化を遂げたように思う。第二次大戦後、特にカウンターカルチャー、サブカルチャーのころ、「小さな物語」は意外にも(情報技術が未発達だったため)マスメディアによって流布された。そのときは「大きな物語に対抗した小さな物語」だった。つまり「大きな物語ありき」の反抗的価値観だった。それが、インターネットの急速な普及により「小さな物語がすべて」になっていった。今や、「大きな物語」は存在しないとさえ言ってもいい。国民的一般教養などというものは、その必要性を失った。自分にとって必要と感じられるものを共有できるごく少数のものと「小さな物語」を共有すればそれでいい。なぜなら、ソースがそこにしかないから。その個人の目から見れば、それは「小さな物語」などではなく「世界の基本法」なのだ。「小さな物語」が、ある一つの大きな価値観を指すのではないとするならば、先述の通り「小さな物語」とは、むしろ、それをもたらす「ソース=情報源」と見てしまったほうが、自然である。要するに、昔はみんな「聖書」を読んだものだが、そのうちそれに対抗して「ノストラダムスの大予言」が流行ったりして、気が付いてみたらみんな各々の「同人誌」しか読まなくなっていた、という流れなわけだ。
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