大広間の次に広い円形の区画が、この洞窟では食堂となっていた。

 

 普段は蟻の巣の様に無数に伸びた横穴に点在する洞窟の民達も、朝昼晩には必ずこの食堂に顔を出す。この洞窟のどこにも時計は無かったが、唯一の娯楽と言えば食事である程に碌な遊びの無いこの閉鎖環境の中で暮らす人々は、これ以上ないほど正確に食事の時間を体感で察知していた。食事の時間であることを示す鐘の音が洞窟中に響き渡ってから僕が食堂に足を運べば、そこは既に大勢の緑色の鱗の肌の人々がごった返していた。

 

 毎度の事だが凄い体内時計だなと、しばらく陽の光を見ておらず、時間と暦の感覚が次第に狂いだしてきている僕は内心で感服した。配給の列に並んだのは僕が最後だった。

 

 ようやく僕の番になって空っぽの杯に注がれたのは、洞窟内でもまだ土壌の柔らかい地域で栽培されている野菜や果実と、相変わらず具の少ないスープだけだった。なるべく飽きが出ない様細かく味を調整しているそうだが、正直のところほぼ毎日変わらない味だと感じていた。もちろん口に出す事はしないし、何より、地上では人と一緒に食事をすることなど年に両手で数え切れる程の頻度だったが、ここでは誰かしらと一緒に話しながら食べることが出来る。それを考えれば、多少味の変わらない食事が何日続いても全く意に介する事はなかった。

 

 空いている席を見つけたので周りの席の人に軽く会釈しながら、石から削りだして作られた食堂の端から端まで伸びる長机に盆を置く。

 周囲の人々も嫌な顔一つせず受け入れ、簡単な世間話を広げる。

 

 これが僕の、洞窟での絵を描いていない時の過ごし方だった。

 

 自分がこの言葉を使う資格は無い事は十分に理解していたけれども、それでも僕は、この時間を平和そのものだと考えずにはいられなかった。自分の好きな事をし、それに興味を持ってくれる人と話し、共に食卓を囲む。それは至って平凡で、しかし少なくともこれまで生きてきた中で僕が地上では過ごす事の出来なかった時間が、しかしここでは確かに流れていた。

 

 今でも願う。いや、毎晩、毎朝、絵を描く為に塗料の入った瓶の蓋を開ける度に思う。これがただの和平の証であればいいのにと。それは僕が一番言ってはいけない事で、僕が言ってはいけない人間だという事を理解したうえで、それでも。

 僕は。


「獣だぁっ! 獣が入ってきたぞぉ、女子供は早く奥に避難させろぉ!」

 

 スープを掬いながら走らせていた思考が、怒号と共に霧散する。次の瞬間には、けたたましい鐘の音が洞窟中に鳴り響いていた。それは食事時を示す時と違って焦燥感の色がにじみ出る様な、力任せに何度も叩いているような音だった。

 

 音が鳴りやむより早く、食堂にいた人々は即座に席を立ち、女性の大人は率先して子供を奥の坑道へと誘導し、戦える男の衆達は壁や通路に立てかけてあった剣や斧を手に取り、獣の知らせが聞こえた方へと走っていく。左右前後へと動く人の流れに揉まれて、僕は押し潰されない事だけを考えながら必死に人波を潜り抜けていく。自分がどこに向かってどう走っているのかもわからぬまま、ただ落ち着いて息の出来る場所を求めて動く。

 

 そして気付けば僕は急な下り坂を走り抜け、開けた場所に辿り着いた。そこにあったのは、尖れていない剣や刃先に錆びの浮いた斧を持った洞窟の民たちの姿だった。寄りにもよって僕は、獣の知らせがあった方へと繋がる脇道を通ってきてしまったのだと気付くより早く、僕は武器を持って構えた洞窟の民達の視線の先にあるものに気付いた。

 

 そこにいたのは、馬十頭分は離れたここでも聞こえるくらいに荒い息遣いの、狼の群れだった。その痩せた四足と飢餓に満ちた眼は、外がもう雪の積もる季節になった事を示していた。気温が下がり他の動物もねぐらに籠った事で、彼らは十分に狩りが出来ず空腹に満ちているのだと察するのは難しい事ではなかった。そしてそれは我々にとってどれだけ危険な状況を生み出すのかという事についても等しかった。

 

 無我夢中で走り抜けて来たので詳しい事は分からなかったが、おそらくここは洞窟の中でもかなり地上に近いところだった。来た道を振り返れば、湾曲した壁面がほのかな光で照らされているのが分かる。しかしここはほとんどヒカリゴケが群生せず、明かりと言えば武装した洞窟の民の男達の中でも最前列に立つ男が持つ松明の光くらいだった。揺れる火が男達と狼の群れの影を壁面に映す。

 

 弱弱しい炎を灯す松明が、一際強く火種の散る音を立てた。

 瞬間、獣がその絞られた四肢を限界まで伸ばして飛び跳ねた。それに呼応するように武装した男達も雄叫びを上げながら剣を振りかざす。悲鳴、鈍い音、何か粘り気のある物がすぐそこで飛び散ったような音。思わず目を瞑ったというのに、それでも否が応でも押し付ける様に耳が周囲の状況を知ろうと音を拾う。肉が引き裂かれる様な音がした瞬間、頼むからそれが獣の肉体から出た音であってくれと祈った。

 

 静けさは不意に訪れた。それが戦いの終わりを示す静寂であると理解したと同時に、僕は目を見開いた。まず目に入ったのは、大息をつき、地面に突き刺さったままの剣にもたれかかった男の姿。額から血を流していることに気付き思わず駆け寄ろうとした瞬間、周りの惨状が全て眼に入った。足元に頭があった。倒れている者は手足を折り、口から血を流して死んでいた。少し離れたところには、頭蓋の叩き割られた狼の体がいまだに小さく身を震わせていた。さらにその奥の積み重なった死体はどれも舌をダラリと突き出し、眼は現世ではないどこかを見ていた。

 

 思考回路そのものが麻痺しているのを感じる。これが戦い、これが死。今までのそれらの物事に対する認識がどれ程未熟なものだったか理解できるほどに頭のしびれが緩くなってきたと同時に、僕は胃の中身が空になるどころか体からありとあらゆるものが失われて搾りかすになるんじゃないかと思う程に激しく嘔吐した。胃酸まで吐き出し、その酸っぱい匂いと血の鉄臭さが混じった大気を吸って、また吐いた。

 

 それは増援の男達が駆けつけて僕と生き残りの男達を保護するまでずっと続いた。


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