Ⅱ(後)

 この洞窟に来る前、地上で暮らしていた頃の僕を表現するのにそれ程多くの言葉は必要としなかった。性格や人柄に関しては中庸や平凡といった言葉で事足りたし、技能に関しても暮らしている街では多少名の通った絵師であるという事以外には特筆すべき点は何もなかった。


 ただそれは僕自身、ただの一個人についてはそうであるというだけで、僕に纏わるあれやこれやにまで視線を向けて見れば、必ずしも表現する言葉が少なく済むわけではなかった。


 そして僕は洞窟に単身絵師として入る事になったさらに数十日前、僕はその中でも特に僕の周囲の大部分を構成するものの前で一人立っていた。

 

 余分な言葉で濁さず表現するならば、それは僕の父だった。


 僕の父であり、僕の故郷の領主であり、そして僕が故郷を離れるきっかけとなった人。


 石の床が張り巡らされた父の館の一室は、暖炉には煌々と室内を照らす火が灯っているというのに僕に冷たい印象を与えた。故郷を出た僕が今住んでいる安い貸宿の自室と違い、僕の鼻腔を常に突き刺す塗料や溶剤、定着液の香りが微塵もしないのもその原因の一つかもしれなかった。

 

 故郷から馬車で一週間以上かかる小さな村で細々と生活をしていたところに突然父の使いが現れたのがついさっきの出来事のように感じる。呼びつけた僕が目の前に立っているにも関わらず、父は僕に一瞥もやらずに、机の上に広げられた紙の束に眼を通し、署名をし続けた。その間まんじりとも動かず、首と掌に冷たい汗を流していた僕に父から声がかけられるまで、客観的な時間の流れで言えば決して長いものではなかったが、主体的にはその間に一生分の心臓の鼓動を終えたのではないかと思う程に長く感じられた。


「お前を呼びつけたのは、北の洞窟の民との和平の契りを結ぶ為だ」


 唐突に口を開いた父が前置きなく本題を語り始めたと気付くのに数瞬を要した。戸惑いが口から小さく息となって漏れて口を開ける間にも、父は全くそれを意に介せず口と手を同時に動かし続ける。


「洞窟の民がこちらに求めた条件は、食料の供給と近郊の防備。そしてその和平の条約に結ぶ際、文化的な和平の契りの証を残す事となった。その為にお前を使う」


「父上、お待ちください、父上。和平、それも洞窟の民とですって? あの地底民族となぜ今和平を結ぶのです。それに条件も最初の二つはともかく、最後の一つが理解できません。それもその為に私を必要とするなんて、なおの事です」

 

 抑揚なく連綿と無機質な言葉を紡ぎ続ける父の言葉を無理に遮る。そうしなければ自分の目の前で自分の事の全てを定められてしまうと感じたからだが、その代償として父からは愚図を見るような侮蔑と嫌悪の色を隠そうともしていない眼を向けられることとなった。思わず口を開いてしまった事を後悔しながら、幼い頃から苦手だった、氷の様に冷え切った父の青い瞳から放たれるその視線に耐える様に身を固める。


「戦争には剣に槍に鎧、それを打つ金槌や、とにかく金属が有り余るほど必要となる。東の戦線が激化した今だからこそ、鉱物資源の豊富な洞窟を根城とする洞窟の民と和平を結ぶのだ。奴らの三つの条件をこちらが呑むのに対し、我々は人類で初となる奴らの洞窟の鉱産資源の採掘権を得るのだ」

 

 これまでは隣国と互いに様子見の戦いを続けていた東方戦線でいよいよ戦火の炎が激しくなり始めたというのは風の噂で聞いていたが、その為にこれまで千年以上大規模な干渉をさけてきた洞窟の民と和平を結ぶというのは、実直な性格の父が言った言葉だという事を理解していてもそれが真実だと受け入れるのには時間がかかった。


「では文化的な和平というのは? こちらから大量に書物でも送るのですか」


「領土を賭けた和平の際、多くはその対価に武力や食料を差し出す。が、人口が少ない上にある程度自給自足の流れが整っており、発見しづらい洞窟という立地上の強みを持つ奴らに対してそれらは十分な旨みを持たない。そして奴らは我々がその事を理解している事を知っている。勿論警戒するだろうさ、断られる確率の高い和平をわざわざ提案しに来るのだからな。だからこちら側は、我々が奴らに対し下手である事を互いに明白にする為に文化的な和平の契りの証を提案した。お前、奴らが洞窟から出る事の出来ない理由ぐらいは知っているんだろうな」


「はい。彼らは空からの光に弱いと聞きました。千年前に彼らの祖先はあの洞窟へと追いやられ、それからずっと暗い洞窟の中で暮らしてきた彼らの肌は変容し、陽の光を浴びれば肌は焼け爛れ、月の光を浴びれば全身の毛穴から針を刺されたように痛むほど脆く、弱いと」


「そう、そしてその性質故に奴らはおよそ千年もの間、空を見た事がない。それを利用する」


「・・・・・・だから、私が呼ばれたという事ですか」


「流石に一から十まですべて語らなくてはならないほど愚鈍では無かったようで助かる。本当のことを言えば本当は少しでも早く、全身から鼻腔を突き刺すような忌々しい絵具や気味の悪い液体の香りを立ち昇らせるお前を私の家から叩きだしたいのだ。だが、今回はお前のそのくだらん塗り絵の技能が役に立つ」

 

 話している間も絶えず動き続けた万年筆を持つ固く大きな手がようやく止まった。父の眼が初めて、自分の方へと向けられる。僕は思わず首を竦めてしまった。父はそんな僕の委縮しきった姿を見て心底気に入らないように鼻を鳴らし、また万年筆を書類の上で滑らし始めた。


「お前には一人で奴らの縄張りである洞窟へと入り、そして奴らの根城の大広間の天井一面に空の絵を描いてもらう。奴らも我々のその提案を飲んだ。千年空を見ずに過ごしてきた我らにとっては何よりもの悲願の成就だと、大喜びでな。貴様と同じく愚図で愚鈍な民族なのだろうな。絵画なんぞがあったところで腹も膨れなければ兵力も増さんというのに。精々が値の張るのを一枚二枚邸宅に飾って来客に見せつける程の使い道しかないものを有り難がるなど私には到底想像もつかん愚劣さ加減だが、今回ばかりは感謝だな」


 寝床で害虫を見つけた時のような不機嫌な声色で語る父は、最後にまた鼻を鳴らしてみせ、僕はまた身を縮こまらせる。愚図を見る様な視線と同じように、父が鳴らす鼻息も幼い頃から苦手なものの一つだった。眼前でその音を聞かされるたびに自分の全てを否定されているような感覚に陥るのだ。

 

 それでも臆してばかりでなく、震えながらも口を開けられたのは自分でも奇跡か、それに近い事が自分の胸中に起きて体中の勇気をかき集められたのかと思う程だった。


「一人、なのですか。私一人で大広間の天井一面に絵を?」


「たかが筆の先に絵具をつけて左から右に動かすだけの仕事に人数を割くぐらいなら、一人でも多くの人間に槍を持たせて前線に放り出すに決まっているだろう。何より人数が増えればそれだけそいつらの為に費やす資源が増える。全くもってくだらん。そもそも何故この役割にお前を就かせると思っている。忌々しくも私の子であるお前ならば、人件費なども払わんでいいからだぞ」


 声は次第に怒声へと変わり、悄然とうなだれる自分はまるで罪を宣告される罪人の様だなと内心で自嘲していた。


「分かり、ました。その職務、謹んでお受けいたします」

「そう、それでいい」


 ようやく、ほんの少し不機嫌の色が薄まった声を聞いて小さく息を吐く。それまで首に重しでも載せられているかのように段々と下がり続けていた頭を小さく上げた僕に、父は声色一つ変えずに告げた。


「私の血を引いた男が、戦争が起こっているというのに未だ一人も殺したことがないなど顔から火が噴き出る程の恥だったのだ。これでようやく私にこびり付いていた汚点が少しは小さくなるというもの」


「・・・・・・は」


 告げられたその言葉一つで、それまでかろうじてまだ纏まりを維持していた思考が急速に頭の中でほどけていくのを感じた。微かに漏れた声は、舌先まで痺れさせてしまう程に悲痛なものだった。


「それ、は、一体どういう意味で」

「和平は建前、という事だ。その程度の頭も回らんとは、いよいよ完全に縁を切りたくなるな」


 僕は、唐突過ぎる父の発言で完全に混乱していた。意味が分からない。分かりたくなかった。


「ですが、絵を描けと。和平の証の為に、空の絵を描けと!」


「黙れ、誰の前で大声を出している。それにこれは貴様にとっても悪い話ではないだろう。これまで兵法の一つも覚えなければ剣の型の一つも禄に身につけずに、修めたところで敵国の兵の一人も殺せぬ、くだらん絵の道なんぞに進んだお前が今回の東方戦線での勝利の立役者となるのだ」


「そんな、そんな、ですが僕は絵を描くだけです。殺したりなんてしない、刺したりも、殴ったりも!」


「そう、だから絵を描かせてやると言っているのだ。貴様がこれまでに無駄に時間を注いだ絵の道とやらで、邪魔な洞窟の民共を皆殺しにするのだ」


 震えて動けない僕を意にも介せず、父は執務机の引き出しから何か青い塗料のような物が入った小瓶を取り出した。


「油絵の絵の具とやらには毒性を持つものもあるようだな。そしてこれもその一つだ。この青い塗料は一度適した保存状態から離れて用いられればその内の成分の幾ばくかが気化し、強く吸えば筋肉の動きを阻害して呼吸困難に陥らせ、何倍に希釈したものでも免疫力の低い者ならば次第に体の動きを鈍くさせ、長く吸い続ければ最後には全身の穴が体から漏れ出る体液を抑えきれずに血や涎や鼻水を垂らして死ぬこととなる。お前には、健康体の人間にならばほぼ効果を及ばさない程度にまで希釈したこの塗料を使って空を描いてもらう」


 父の言葉の意味を鈍く重い頭で必死に理解できるように組み替える。そしてその言葉が指す事実に気付いた瞬間、戦慄を覚えた。


「健康体の人間には効かない、けれど、陽光を受ければその身を焦がし、月光を浴びれば苦悶に包まれる洞窟の民にとっては、それは」


「そう、奴らは馬鹿みたいに歓迎した和平の為の絵画によって死に絶え、最後には供給の為の食料も、周辺防備の為の兵力も一切消費せずに鉱物資源を得ることが出来る、という訳だ。一想いに攻め込んで蹂躙しようかとも考えたが、洞窟という圧倒的に向こう側に地の利がある戦いを仕掛けては、いくら奴らの体が貧弱であろうと罠や伏兵を仕掛けられては面倒だし、何より兵力の損失につながる。少しでも東方戦線に兵力をつぎ込みたい今、この作戦が最も全体的な損失を抑えたまま最大の益を得ることが出来るのだ」


 眼前に座る肉親に、自分が恐怖している事に気づいたのは手が震えだして少ししてからだった。荒い呼吸を繰り返す僕の前にいる父は、どこまでも真剣な顔だった。


 唐突に立ち上がった父の右手が掲げられる。思わず後ずさろうとした僕の肩にその手は置かれた。


「良いか、失敗は許されんのだ。私の為に、この国の為に、そして何よりも貴様の為に、な」


 肩に置かれた手が重さを増す。僕はその手に押し潰されるように姿勢を崩し、折れた膝は石の床に当たる事は無く、そのまま塗料を水に溶かすように肺の床に混ざり合わさっていく。視界は気付けば水面の様に波打ち、螺旋を描いていく。


 歪む視界の中で、父の顔だけが最後まで僕の傍にあり続けた。やがてそれすら消え、意識が拡大し、収束する。

 

 そして、暗転。

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