テールベルト

茂木英世

 絵筆を握った腕が伸びる。

 

 絵筆の先にあるのは、真っ白なキャンバスでも広い宮殿の白亜の壁や天井でもなかった。


 片側が平らになった卵のような楕円形の空間。僕が今いる場所を端的に説明しようとすれば、それが最も適した表現であるように思えた。

 

 陽の光の差し込む事のないこの地は、しかし微かな燐光で照らされている。光源の正体は、大量に群生したヒカリゴケの放つ、熱のない輝きだった。

 

 暗く湿った環境を好むヒカリゴケが、ここには空間を埋め尽くすほどに生育しているのだ。

 僕が今立っているのは、近くの都市から馬を走らせても何日もかかる様な遠く離れた場所の、洞窟の中だった。


 場所は違えど、変わらずマスク越しでも微かに香る鼻腔の奥を刺すような溶剤の匂いが自分は特段嫌いではなく、むしろ嗅ぐ度に精神が凪いでいる気さえしていた。

 カビ臭い空気の中、僕は右手に握った絵筆を片方の手の上にあるパレットと視線の先とを何度も往復させながら、一心不乱に筆を進めていた。


 脚立に乗って脇目も降らず筆を動かしていた僕が、真下から年端もいかない少年――確か名前はヨンドゥ――が好奇の色の混じった眼で自身を見つめている事に気が付いたのは、しばらくしてからの事だった。


「何をしようとしているの・・・・・・」

 

舌ったらずな口調で尋ねるヨンドゥに、僕は一瞥だけして筆を動かしながら答える。


「空の絵を描こうとしているんだ。青空や、夕焼けに染まった空、月光の差し込む夜空に、夜明けの藍色の空。そんな空を、全て」

「空・・・・・・」


「そう。あぁ、そうか。君達は空を見たことがないんだったね」

「うん。空もだし、その夕焼け、とか、藍色の空も知らない・・・・・・」

 

 おずおずと答えるヨンドゥの姿に不意に暖かい感情を感じた僕は、絵筆を動かすのを止めて脚立を降りた。絵の具の付いた筆を水で洗う僕の周囲には様々な色の絵の具の容器や、水の入った桶が乱雑に並んでいた。僕はその内の空の容器をひっくり返してその上に腰を下ろした。ヨンドゥにもそうする様に進めたけれど、彼は黙ったまま左右に首を振り、その翡翠色のつややかな鱗で覆われた足を両腕で覆う様にして座った。


「ええとね、上手く説明するのは難しいんだけど、今僕が言ったのは全部同じ空の事なんだ。空っていうのは色とか、見える景色が変わったりしてね。けどどれも凄く綺麗なんだ。だから僕はいつでもその綺麗なものを見えるようにする為に、ここに空の絵を描こうとしているんだ」

「綺麗なの、空は・・・・・・」

「うん。綺麗だし、大きいよ。それは世界中の地上の人の頭の上にあって、皆をいつも見守ってくれているんだ」


 握ったままの絵筆の持ち手を指で擦りながら、僕は言葉を選んで繋げていく。ヨンドゥの不安や好奇の感情が混ざっていた眼は、いつしか見た事のないものへの期待と憧れで輝きだしていた。


「凄いねぇ、凄いねぇそれは。そんなものがあるのならきっと、皆胸の中が素敵な気持ちでいっぱいになって、争おうとなんてしないんだろうねぇ」

 

 絵筆を擦る僕の手が止まった。けれど僕は顔の、特に口周りの筋肉の動きを一切滞らせずに笑顔を形作った。


「そうだね、うん。きっとそうだよ」

 

 子供は多感だ。ほんの少しの表情の淀みが、この少年のような年ごろの子供の意識には引っかかる事がある。僕は内心で起こっているさざ波を気取られないように、絵筆をまた指で擦りだす。


「凄いなぁ・・・・・・。もしチャマ君とそれを見られたら、仲直りできるかな・・・・・・」

「チャマ君? 仲直りって、喧嘩でもしちゃったのかい? その子と」

 

 不意に出てしまったのであろう言葉に反応すると、ヨンドゥはそれまで目に灯っていた輝きを消して、顔を俯かせた。それから彼の首が微かに縦に振られるまで、僕は何度も筆を擦る事になった。


「チャマ君は体が大きいんだ。けど僕は小さいから、他の子にからかわれたりする時、チャマ君がいつも助けてくれたりするんだよ。けれどね、僕が母さんに作ってもらった玩具でチャマ君と遊んでいた時、チャマ君がそれを壊しちゃったんだ。それで僕は凄く怒っちゃって、チャマ君は喋ってくれなくなって・・・・・・。本当はそこまで言うつもりじゃなかったのに・・・・・・」

 

 ただでさえ舌ったらずだった口調にじわり、と湿り気が混じる。嗚咽が混じって上手く言葉を続けられなくなってもそれでも必死に話し続ける少年の頭を、気づけば僕の手は優しく撫でていた。亜麻色の髪が、ヒカリゴケの燐光を受けて仄かに黄金色に照らし出されていた。けれど、髪の下の翡翠色の頬は苔の光とは別に、彼の眼からこぼれ出る大粒の雫で輝いていた。


「謝ったら良いって分かってるんだ。けど、怒ったチャマ君に話しかける勇気が無くて・・・・・・、けどもしそんな素敵なものがあるのなら、チャマ君と一緒にそれを見て素敵な気持ちになれるなら、その時は素直に謝れると思ったんだ・・・・・・」

 

 いつしか、頭を撫でる手は揺れていた。気づけば嗚咽の音は大きくなり、ヨンドゥの細い手は必死に目元を拭い続けていた。

 

 僕は自分でも驚くほど優しい声を出していた。


「うん、きっと謝れるよ。謝れて、また仲良くなれる。さっきも言った様に、空は大きいんだ。そんな大きいものを見てしまえば、きっと君もそのチャマ君も小さな事なんて気にならなくなって、怒ってた事も悲しかった事も忘れて、また仲良くなれるさ」

「・・・・・・本当?」


 拭いつづける腕をほんの少しずらして、ヨンドゥは赤くなった眼を見せた。僕は安心させるように背を軽く叩き、頷いて見せた。


「へへ、本当なんだ。凄いね、凄いんだねぇ空って」


 一際強く目元を擦り、彼は勢いよく立ち上がってみせた。赤くなった眼の下の口は、けれど微笑みを形作っていた。


「でも、空を見れるようになるまでは時間がまだまだかかるんでしょう? それまでずっと仲が悪いままなのも、僕嫌なんだ。だから今からでも、やれる事はやってみるよ」


 ピンと背を伸ばした彼は、勢いそのままに走っていく。離れていく背が伸びた時と同じように急に止まり、快活な笑顔が向けられる。


「ありがとうね、絵師さん! 空の絵、頑張って」


 肩を痛めるんじゃないかと心配になるくらいの勢いで手を振る少年に僕は手を振り返す。洞窟内を照らす淡い青白い光は、少年の美しい翡翠色の手を照らしていた。


 少年の笑顔が見えなくなるまで肌色の腕を振り続けた僕の顔にも、気づけば笑顔が浮かんでいた。けれどそれは新品のキャンバスの様に純粋な彼の笑みとは違う、絵の具の溶けた油絵の様に歪み揺らいだ自嘲の笑みだった。


 僕は作業を再開する。物心ついた時から握っている絵筆は、息をするように滑らかに動いていく。

 

 そしてそれと同じくらい自然に、僕は彼に嘘を吐いた。

 

 人は青い、抜ける様な空の下で赤い血の海を作る。

 人は自然の雄大さを感じさせる積乱雲の下に、骸の山を作る。

 僕達は、僕達人間は些細な事で刃を振り上げる。

 それは瞳の色が違ったり、肌の色や住む所や着る物に食べる物、文化、風習、信じるものが違うと言うだけの理由で。

 

 ヨンドゥ。空を見た事がない少年よ。

 

 君は、君達は、空の青さに呑まれた僕の弱さの所為で、死んでしまうんだ。

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