204 亜月、峰貴文を捕らえる・その4
規則正しい
安陽で生まれ育った貴文だ。
彼が見慣れているいつもの景色が、ゆっくりと後ろへと流れていく。
しかしながら、初めて訪れた街のように思えるのは、いみじくも芝居仲間が言ったように、季節が移ろって秋が深まったからなのか。
透き通った大気は、見慣れたものを真新しく見せるなにかを秘めている。
馬車の中で居住まいを正すと、貴文は見えない巻き紙を懐から取り出して宙に広げた。そして、右手にこれもまた見えない筆を持ち、さらさらと書き始める。
とりとめもなく湧いてくる思考を
――たいがいのことには驚かないあたしだけれど。
亜月ちゃんを、後宮のそれも正妃さまの隣に見た時は、さすがに自分の目を疑ったわ。
悪い癖で、ついつい好奇心が先走っちゃって。
本物の将軍の私邸での暮らしぶりというものを覗いてみたくて、英卓ちゃんにお願いして、〈梅見の会〉に紛れ込んだまではよかったけれど。
まさか、そのことを承将軍に見とがめられて、禁軍の兵士の恰好で、後宮に忍び込むことになるとは。
あたしは庶民の悲喜交々を芝居にして演じるのは好きだけど、
さすが、戦場で命をかけて百戦錬磨してきた承将軍。
あたしを後宮に放り込めば、停滞した権力闘争になにがしかの波風が立ち、突破口が開けると読んだのね。
あの細い目をした女好きの狸が。
同じ屋根の下に妻が四人だなんて、ほんとに、油断ならない男だわ。
ああ、だれが天子さまになろうと宰相や将軍の地位につこうと、その日暮らしの庶民の、お腹が満たされるわけでもないのにねえ――
淀みなく動いていた、見えない筆を持った貴文の手が止まる。
楽天家の彼にしては珍しく嘆息して考え込み、そして再び綴り始めた。
――禁軍の兵士の鎧を身に纏ったあたしを見て、亜月ちゃんも同じように驚いていた。
それにしても、あの時の天子さまの怒りようと、泣き喚きながらひれ伏していた正妃さまの雰囲気はただごとではなかったわ。
後宮の権力闘争に無関心なあたしでも、ぞっとしたもの。
あの時に、あたしと亜月ちゃんの関係は、役者と贔屓筋の関係ではなくなって、もう、亜月ちゃんと会うことはないと思っていた。
でも、こうして、また会うことになったということは……。
あたしも宮中の血みどろな権力闘争に巻き込まれたっていうことね。
舞台の上で死ねたら本望と思っていたけれども、いまとなっては、それは贅沢な夢となってしまったみたい――
そこまで書いて、見えない紙をくるくると巻き取り、貴文は懐にしまった。
これ以上、筆を進めると、自分の最期まで書いてしまいそうだ。
長年、同じ釜の飯を食ってきた芝居小屋の仲間たちの顔が浮かぶ。
――こんなことになるのだったら、皆に、もう少し優しい言葉をかけておくべきだったかしら。
いえいえ、あたしのいなくなったあとの芝居小屋を背負ってもらわなくちゃいけないのだから、最期の言葉はあのくらい厳しいほうがよかったはず――
そして、もし万が一にでも生きて帰れることがあったら、芝居小屋の女たちを並べておいて、順番に抱いてやろうかしらと彼は思いついた。
「いいえ、やっぱり、それは無理。
体がもたないわ」
声に出して呟き、うふふ……と笑う。
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