010 宝成と梅鈴、白麗をかどわかす・5

 

 薄紅梅色の夏仕立ての着物は柔らかく梅鈴の手にまとわりついた。

 指が透けてみえた。上質の絹の紗織りだ。


 羽織ったら、どんな感じがするのだろう。

 蝶の羽根のように軽いのだろうか。


 色糸を惜しげもなく使った刺繍は、花の一つ一つの花弁が盛り上がっていた。

 中心の蘂はきらきらと輝く金糸銀糸だ。


 梅鈴は周囲を見回した。

 誰もいない。

 屋敷の庭の遠くで、「白麗お姉ちゃん!」と嬉児の白麗を呼ぶ声がする。萬姜はしばらくは戻って来ないだろう。


 梅鈴は衣桁から着物を外した。

 しゅるしゅると衣擦れの音を立てて、蝶の羽のような着物は梅鈴の手の中に納まった。


 魔がさした……。

 それともこうなってしまうことを、梅鈴は心の奥底で望んでいたのか。




 着物の襟を両手で持って軽く振り、くるりと回して肩にかける。一度宙に舞った着物が、梅鈴の肩にすとんと落ちてきて、するりと体の形に添って流れる。

 ごわごわした麻や綿の着物ではこのようにはならない。


 袖に手を通す。床につきそうな袖を振って、かしずかれて遊んでおればよい日々を想像した。


 木箱から髪飾りを取り上げて、これも頭に挿してみた。

 小さな珊瑚の玉の連が触れ合って、涼やかな音を立てた。


 くるりとその場で廻ってみた。

 長い裾が梅鈴の動きより少し遅れて広がり、そして足に巻きつく。

 着物の裾に刺繍した花が床にこぼれ落ちたように見えた。


 ……三千両あれば、毎日、このような着物を着て、宝成兄ちゃんと暮らせる……


 もう一度だけ、着物の裾を翻して回ろうとして顔を上げ、梅鈴はその場に凍りついた。

 開け放した戸の向こうに立っている白麗と目がった。


 ……いつから、そこにいたの? 

   すべて、見ていたってこと?……


 白磁を思わせる肌の色の白い少女で、目の色も薄い。


 少女は庭を背にした影の中に立っているのに、その目は透き通った金茶色のガラス玉のように輝いている。

 その目でひたと見つめられた。

 不思議な目の色の輝きに、梅鈴の心が吸い込まれた。


 白麗は微笑んでいた。

 上から下へとゆっくりと梅鈴が羽織っている着物に視線を這わせた。裾まで視線が落ちると、再び視線はゆっくりと上り、珊瑚の簪で止まる。


 ……お嬢さまはまだ子どもだ。それにうまく喋れない。

   この状況をごまかせる言い訳は、きっとあるはず……


 梅鈴が頭の中で忙しく考えていると、突然、白麗が動いた。


 自分の着物を返せと掴みかかるのか、それとも泣き叫ぶのか。

 身構えた梅鈴の横を、白麗は走り抜ける。結わずに背中まで下げて揃えた白い髪がふわりと舞う。


 湧き起こった一陣の風のように駆けて、部屋の隅に転がっていた毬を手にとると、現れた時と同じ唐突さで去って行った。


「白麗お姉ちゃん!」

 再び、遠くで嬉児の呼ぶ声がする。




 ひれ伏して許しを請えばよかったのか。

 茫然と立ち尽くしたまま、梅鈴は考えた。


 しかしどちらにせよ、萬姜に最近の言動を怪しまれている。

 今回のことが萬姜の耳に入るかどうかはわからないが、この屋敷にこれ以上留まることは難しいと、梅鈴は思った。

 




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