ひがんおくり

椎乃みやこ

わたしはあなたをみとめません

第1話 すずかちゃん

#1


 こんなことを話しても、誰も信じてくれないでしょうね。

 けれどこれは、私が体験した本当の話。


 小学五年生の頃、私は都会からある地方の小さな町に引っ越してきた。夏休みが終わり、新学期に入ったときだ。日中は茹だるような暑さが残っていたが、けたたましく鳴くアブラゼミの声にヒグラシが混ざっていた。

 その町は、「常露町」と書いて「じょうろまち」と呼んだ。

 常露町から大橋を渡った隣町は、そこそこメディアに取り上げられる観光地だ。車中心の社会である。しばらく電車で通勤していた父が、顔を青くしながら久方ぶりに車のハンドルを握っていた。常露町に引っ越してからは、私に内緒でペーパードライバー講習に通っていたそうだ。

 常露町はいろいろなものが足りなかった。まず、電車の少なさに驚いた。バスも駅も少ない。人も少ない。自然と移動は自転車が多くなった。可愛い雑貨店やお洒落なカフェもない。代わりに複合型の大型スーパーやホームセンターがあった。

 そもそも、ちょっと坂道を登っただけで山が見える所だ。田圃や畑を持つ旧家があるかと思えば、新築が並ぶ住宅街もある。真新しい家の背景にそびえ立つ山が不思議だった。過ごしているうちに、この町には背の高いビルがないと気づいた。空の広さを初めて知った。

 常露町には足りないものがたくさんあって、知らないものもたくさんあった。街角でおばあちゃんが開いているたこ焼き屋がおいしかった。駄菓子屋に吠える犬がいた。看板犬のくせに営業妨害だと、飼い主のおじさんにいつも叱られていた。好奇心から知らない道を自転車で走っていたら、迷子になって途方に暮れたこともある。

 この町に来る前には、経験できなかったことだ。

 学校は嫌いではなかった。初日は不安で押し潰されそうになったけれど、心配をよそにあっさり受け入れられた。都会の暮らしはどうだったとあれこれ聞かれたのは最初の一週間だけ。そのうち誰も聞かなくなった。「転校生」という新参者に飽きたのだ。

 新しい玩具を見るような目で話しかけてくるクラスメイトたちが、日を追うごとに一人一人減っていく。好奇の視線を注がれなくなる。興味が薄れていく。「静かだね」「お洒落かと思った」「もっと都会の話を聞きたかったのに」と去っていった。

 ふと、周りに誰もいなくなってから気づいた。

 あぁ、ここには友達がいないんだ。

 授業を受けるクラスメイトたちの背中が酷く遠く感じた。額縁に入った絵画のように、似ているようで似つかない絵空事の世界に思えた。私はこの中に入れない。溶け込めない。いるのにいない中途半端な立ち位置。会話ができて、上手に笑えたら馴染めたかもしれないのに。私にはそれがどうしてもできなかった。

 一人だけ、私を見ている子がいた。

 鮮烈だった。ぼんやりと曖昧なクラスメイトの中で、その子だけ輪郭がはっきりしていた。私の席から斜め前。右端の前から二番目。扉に近い席にその子はいた。くりっとした目には力強さがあった。私より少し背が低く、透き通った肌を持つ線の細い子だ。一目で可愛いと思った。大人になったら美人になるだろう。そんな子がクラスにいるなんて知らなかった。呆けたまま見返してしまった。

 視線が重なる。その子は自分の耳を指した。意図がわからず固まっていると、黒板に顔を戻してしまった。

「あの、聞こえづらいんですか」

 休み時間、彼女に話しかけられた。

「え?」

「耳です」

 本から顔を上げた私に、彼女は首を傾けて耳を指した。癖のないセミロングの黒髪がさらりと揺れる。

「みなさんとお話されているとき、聞こえづらそうだなって思ったんです」

「え、あ」

 どうして、それを。

 彼女は私を見ていた。驚きと恥ずかしさと気まずさで、どもってしまう。いつもこうだ。せっかく話しかけてくれても、喋れなくなってしまう。前はこうじゃなかった。うつむいて黙り込むと、たいていの人たちは離れていく。その前に話さなきゃいけないのに、口の中で転がした言葉が溶けていく。

「あ、の」

 まただ。耳の奥から『あれ』が動き始める。さわさわと理解できない言語で私の聴覚を奪っていく。私を悩ませる奇妙な現象は、原因不明の難聴と病院で診断された。

 でも、これは難聴じゃない。

 『声』なんだ。複数の何かの『声』が、私に聞こえるんだ。まるで、耳の奥に居座っているように。

 私の耳には、何かが住んでいる。

 彼女の声が『声』によって消えていく。さわさわと囁く何かの言葉が、会話の邪魔をしてくる。

「その」

 私の声ははっきり聞こえるのに、彼女の声は聞こえない。そのくせ、『声』の囁きは不思議と心地よいものだった。聞いているうちにどうでもよくなってしまうのだ。焦りや緊張や気恥ずかしさが霧散していく。それはお菓子を食べた気分に似ていた。それも特別甘いお菓子。満たされて嬉しくなって、もっと欲しくなる。もっともっと『声』だけを聞きたくなる。

 不意に、ひやりとした感触が両耳に当たった。

 驚いて顔を上げると、私の耳を塞いだ彼女が微笑んでいた。

「耳を塞いだほうが、あなたは聞こえるんですね」

「ど、どうして」

 彼女の涼やかな声が、塞がれたはずの私の耳にするりと入り込む。

「梓すずかと言います」 

 それが彼女の名前だった。

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