3.7 神話の終わり

「〈ナビゲーテル〉起動」


 空に放ったわたしの声に共鳴した青い光が視界を迸り、やがてその奔流は束となり、UIの形に収束していく。天上に君臨し、わたしを見下ろす満エウロパを睨む。エウロパをテレポーター対象と認識した〈ナビゲーテル〉が「テレポート不可」との文字を視界に表示した。


 わたしの力はあの凶星には届かない。


 まだ、ではない。永遠に。


 わたしはすべてを投げ出して、東京湾防潮堤に来ていた。今日はほぼ満ちた月も昇るはずだったが、分厚い雲がどこかに隠してしまっていた。エウロパだけが昇る空の下で、ネオンの海を遠くに眺めながら、赤色蛍のように明滅する赤いランプの列の中で、わたしはエウロパと対峙していた。


 いつか、こんな日が来ることは分かっていた。〈ゼウス〉の力の真相が明かされ、わたしが第二の〈ゼウス〉になることは未来永劫ないのだと突きつけられる日が。




 ――エウロパ召喚が独立記念日であったことから推測されていた通り、〈ゼウス〉はアメリカ国籍の人間だったよ。


 突然の報告に呆気に取られたまま動けなかったわたしに、〈テラ〉は続けた。


 ――でも、だとしたら、今までどうして〈ゼウス〉の正体は十七年もの間、闇の中に?


 ――誰かが名付けた〈ゼウス〉という名前が、皆の目を眩ませていたんだよ。


〈ガニメデ〉も、マンハッタン事変を起こした〈新人類同盟〉幹部も、破壊的な力を持ったテレポーターは皆男性だった。テレポーター遺伝子はX染色体上の必要不可欠な遺伝子が変異したもので、それを持つとテレポーターとしての能力が発現する反面、正常な遺伝子も持たなければ多くが幼児期に亡くなる、つまりX染色体を一つしか持たない男性テレポーターは少ないというのはこの世界の常識。一方で、その試練を生き残った男性テレポーターたちは強大な力を持つ傾向にあった。それ故に、〈ゼウス〉は誰もが男性テレポーターだと決めつけていた。いや、だからこそ〈ゼウス〉なんて男神の名前をつけたのだろう。


 どの企業も、組織も、個人も、〈ゼウス〉探しといえばまず男性テレポーター。先進国の遺伝子検査の普及率が九十パーセントを超えた現代において、オプティマイジーンのような遺伝子業界の企業にとってはテレポーター探しなど造作もないこと――そう思われて早十七年。それだけの期間〈ゼウス〉が研究者たちから逃げおおせられたのは、〈ゼウス〉の性別が女性だったからだ。


 ――ただ、彼女の遺伝子には多くの女性とは異なるところがあったみたい。


 ――異なるところ?


 ――トリプルXって知ってるよね、真弓?


 二千年代、アメリカにおいてある特定の共通点を持つ女性百人超を対象にした研究が行われていたという。その内の一人が〈ゼウス〉であり、彼女らに共通する特徴こそトリプルXと呼ばれる、通常二つしかないはずのX染色体を三つ持つという染色体異常であった。それならば、テレポート遺伝子を二つ持ちながら、正常な遺伝子も一つ持つことができる。理論上、生育条件はクリアできるらしい。


〈ゼウス〉を暴き出したオプティマイジーン社は染色体異常に目をつけ、各地で行われたトリソミーやテトラソミーに関する研究の被験者を探し出していたらしい。そして、偶然にもテレポート遺伝子を二つと正常な遺伝子を一つ持つ被験者を見つけ出した上、彼女の親が二〇二〇年の七月――エウロパ召喚の直後――に失踪届を出していること、彼女の残されたSNSアカウントも同時期に更新が止まっていること、二〇一〇年代後期にはSNS上で〈新人類同盟〉らテロポーターに対する批判的呟きがあったことから、オプティマイジーン社は彼女こそ〈ゼウス〉であると主張しているとのことだった。


〈テラ〉にネット上での反応を分析させてみると、その結果は課題をやるのと同程度に有意義だと感じるくらいには面白かった。


 ――SNS上の書き込みを見るに、証拠不十分だと懐疑的な意見が三割程。実際はこれが多数派で、後の意見は短絡的な陰謀論が多いね。特に、反テレポーター的な呟きが多い人その傾向が見られるよ。オプティマイジーン社が〈ゼウス〉を再現しようとしてるとか、オプティマイジーンに限らず、〈ゼウス〉を我が子にデザインしようとする人が増えるとか、そこから話が飛躍して、人類総〈ゼウス〉社会の幕開けとか、ホモ・ゼウス――染色体数四十七本――の誕生とか。一方で、〈ゼウス〉の狂信者みたいな書き込みもちらほら。


 ――ありがとう、もういいよ、テラ。


 課題の続きに手をつける気は完全に失せていた。左から二十二番目、壁面から百十センチのハンガーを手元に呼び寄せる。かかっていたウインドブレーカーを羽織り、ハンガーを送り返して、ベランダに置いてあるサンダルと共にわたしは夜空へと駆け出した。




 今日の東京湾は荒れていた。二つの衛星が共に満ちようとしている時分。その相乗効果でいつも以上に高い潮が押し寄せ、防潮堤の上に立つわたしにかかりそうになる程の大波が打ち付けられていた。


〈ナビゲーテル〉を起動し、エウロパを睨んだところで、返されるのは決まって「テレポート不可」の文字。そう、わたしの力はあの凶星には届かない。永遠に。永遠に! わたしがわたしである限り。


 努力だとか、訓練だとか、そんな低次元の問題じゃない。それを補助する先端技術ナビゲーテルも関係ない。わたしという存在は、脇坂真弓という一人のテレポーターは、第二の〈ゼウス〉にはなれない。それがわたしの設計図で、わたしはその設計図通りに、正しく脇坂真弓に育っただけのこと。だから悲しむ必要も、悔しがる必要もない。なのに、わたしの心は防潮堤に打ち寄せる大波のように荒れていて、大波が防潮堤を超える度、わたしの涙腺は少しずつ決壊していく。


 きっと、わたしはこの生涯を、あの凶星の光の下で終えることになるのだろう。それは、わたしの中でずっと目を背け続けていた真実。砂をかけて地面に埋めたはずの忌々しい現実。そいつは砂の中から手を突き出して、逃げ延びようとするわたしの足首を掴んだ。もう、逃げることは叶わない。


 いや、そんなことはずっと前に分かっていたはずなんだ。あの光を握り潰すように掌の月を向けたとしても、雲に手が届かないように、わたしの力はあの凶星には届かない。わたしの手の及ぶ狭い世界を超えた広大な宇宙で、エウロパはこの地球の新たなる衛星として、夜を照らす新たな守り神となる。それがこれからの人類が生きる世界で、月だけが昇る夜空は時代の荒波に飲まれて海に沈んだんだ。


 わたしには力がある。


 特別な存在。


 その甘美なる響きが、絶対的な加護がわたしを守ってきてくれた。加護こそがわたしだった。高層ビルの屋上からネオンの海で蠢く人々を見下ろして、一人その景色に酔いしれる。蠢くちっぽけな人々には力がない。彼らは今を生きることに精一杯で、上から見下ろされていることに気付きもしない。わたしとは違う、愚かな人々。


 でも、人々を見下ろすことに精一杯で、遥か頭上からエウロパに見下ろされていることに気付きもしない、そんな最も愚かな輩は一体どこの誰だろう。


 天上のエウロパを睨んでいたわたしの足を何かがすくった。尻もちをついてようやく我に返ると、荒波が勢いを増し、防潮堤を越え始めていることに気が付いた。立ち上がろうとした瞬間、第二波がわたしに覆いかぶさった。転倒こそ免れたものの、思い切り海水を飲み込んでしまった。その上、スウェットのズボンが海水をたっぷりと吸って、鉛のように重くなっている。


「風邪を引きますよ」


 顔に張り付く髪を払い、声の方向に目を向けると、見慣れた純白のスーツ姿があった。


「こんなみっともない有様になったタイミングで出てくるなんて、いじわるなんだね、ヴィオラ」


 大波が再び飛沫を上げ、今度はヴィオラを飲み込んだ。けれども、わたしの拡張された視界に映るだけの彼女はそんなものを気にも留めない。それどころか、彼女は憐れむような眼をしていた。


「ただ、私はあなたの身を案じているだけです」


「嘘。嘲笑いに来たんでしょ」


「嘲笑う? 私が? あなたを?」


「どうしてネイバーフッドはわたしに特待生待遇を? 〈ゼウス〉の秘密が明かされた今、わたしは第二の〈ゼウス〉になれる可能性はゼロになった。わたしに投資するだけ、無駄だと思うけど」


「〈ゼウス〉の秘密が明かされたところで、あなたの評価は変わりませんよ」


「どういう意味?」


「私どもは、最初からあなたに第二の〈ゼウス〉になってもらうことなど、期待していないからです」


「何、それ……」声が震えた。


「以前防潮堤で会ったときも、その程度の評価だったってこと?」


「そうです」

 ヴィオラはきっぱりと言い切った。

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