第5話 夏が終わる

 波のざわめき。砂の感触。塩辛い風。

 どこか懐かしい、安心する場所。でも、ひとりぼっちの空間。

 誰もいない。誰か、いないの? ひとりはいやだ……

 寂しくてたまらない。

 早く、ここから出たい。


 そのとき、誰かがあたしを呼んだ。

 泣きたいほど、ずっと待ち望んでいた声だった。



「……千夏?」


 心配そうにのぞきこむ、二つの丸い瞳。

 海だ。海がいる。よかった……

 あたしは草むらの上に横になっていた。

 そうだ、たしかバルコニーの手すりから落っこちて……


「けがしてないか?」

「ううん、大丈夫」


 海の手を借りて起き上がる。


「なんだ、よかった。泣いてるからさ、どっか痛いのかと思って」

「え?」


 ほっぺたに触れると、たしかにちょっと濡れていた。


「なんだろう……なんか、すごく悲しかったような気がして」


 海はちょっと困ったような顔をしてから、「臨死体験でもしたじゃねえの?」とおどけるように言った。あたしは少しムッとした。


「けど、運がよかったよ。千夏が落ちたのがちょうどアジサイの上でさ。おまけに雑草もたくさん生えてて、クッションになったみたいだ」


 たしかに、すぐそこにアジサイの大株がある。葉っぱが不自然にへこんでるところがあって、そこに落ちたみたい。うわ、悪いことしちゃったなあ。


「あのさ、おれ黙ってたことがあるんだ」


 海が硬い表情で切り出す。


「えっ、なに?」

「紫陽花屋敷に来るのは、これが初めてじゃない」

「……えっ!? どういうこと!?」


 海はあたしと出会う前に、けっこう屋敷に出入りしていたらしい。公園の木の上に次ぐ、第二の秘密基地みたいな感じで。雨の日や、静けさに浸りたいときによく来ていたそうだ。


「あ、じゃあ幽霊のうわさってもしかして……」

「うん、たぶんおれのことだ。ときどき肝試しに来る連中がいたから。見つかると面倒だから、一部屋だけ鍵をかけていたんだ」

「うっそー。じゃああたしは、お化けの正体が海とも知らないで、ドキドキしながら探検してたわけ? ショック……」

「ごめん」


 そんなに素直に謝られると、責められない。


「……いいよ。許してあげる。でも早く言ってくれればよかったのに」

「千夏があんまり楽しそうにしてるから、言い出せなかったんだよ」


 ああ、たしかにそうだったかも。海はぶっきらぼうそうに見えて、意外と気を遣う。


「もう、怖がって損しちゃったよ。でもあの部屋、内側から鍵をかけたなら、どうやって出たの?」

「千夏と同じ。窓から出てとなりのバルコニーに渡ったんだ。そうしておけば、留守のあいだに荒らされることもないし」

「へぇ……」


 つまり海は、あたしが失敗したことを何べんも軽々やってのけてたわけだ。そう思ったら、急に腹が立ってきた。


「やっぱお化けなんていないんだ。アホらしい! もう帰ろ!」

「そうだな」


 海はうなずいて、あたしのリュックを渡してくれる。

 海がいたという部屋を調べたい気持ちはあったけど、もう一度手すりを越える勇気はない。そんな心のうちも、海にはわかっていたかもしれない。


 日が暮れかけていた。お化けなんかいないとわかってもなお、紫陽花屋敷の怪しさは健在だった。夕日に照らされ、寂しいような温かいような雰囲気に包まれている。あたしが開けた2階の窓はそのままになっていた。あれもまた、新たなうわさ話の種になるんだろう。そう思うとちょっとだけ気が晴れた。


 アジサイが並ぶ雑木林を、海と歩く。青白い花は夕闇にぼうっと浮いているように見える。だけどもう怖いとは感じなかった。アジサイのおかげで、あたしは大けがせずに済んだのだ。命の恩人といってもいい。それに、隣には海がいる!


 食べながら歩くのはお行儀が悪いって母さんには怒られるけど、お腹が空いていたのでチョコバーを分け合って食べた。


「なんか、海とはもっとずっと昔からいっしょにいたような気がする」


 あたしはチョコバーのかすをぽろぽろこぼしながら言った。

 海の目がちょっと大きくなった。


「……うん。おれもそう思ってた」

「こんなに気の合う友だちは、なかなかいないよ!」

「そうかもな……」


 あたしは幼稚園に通っていたけれど、仲のいい友だちはあまりいなかった。たぶん、次々にやりたい遊びが浮かんできてあれもこれもって突っ走るから、飽きっぽくてせわしない子だと思われてたんだろう。この頃はそんなこと考えてもいなかったけど。


 海は1歳年上なだけなのにあたしよりもずっと大人びていて、だからあたしが何を言っても何をやっても、見放さずについてきてくれたんだと思う。気が合うというよりは、海があたしに合わせてくれていたと言ったほうが近い。そのことがわかるくらいの年齢になってもなお、海はあたしにとって特別な存在だった。


「これからも一生友だちね。約束だからね」

「おお……」


 海はちょっとためらいがちにうなずいた。あたしは手についた食べかすをパンパンとはらって、海の細くて長い小指と指切りをした。


「あと、黙っていなくならないこと。オーケー?」

「うん。気をつける」


 ほどなくして公園に着いた。あたしは置き去りにしあった自転車に乗って、「ばあい」と手を振って海と別れた。チリンチリンとベルを鳴らして、また明日の合図を送った。疲れた足で、ぐるんぐるんとペダルを回した。早く明日にならないかなあと思いながら。



 これがあたしの人生の転機。5歳の夏の、一部始終。

 あたしは海と出会って、なくして、また出会った。

 いろいろな冒険をした。

 たくさん笑って泣いて、お菓子を食べ、木に登り、自転車をこいだ。

 きらきらが詰まった、宝箱みたいな夏。

 あたしはこの宝箱を大事に胸の中にしまって、このあとの人生で何度となくやってくる夏をやり過ごすことになる。おぼろげで、あいまいな、長い長い夏を。

 いつか海と、本物の海に行くことを夢に見ながら。

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