◆Ⅰ

「出かけるから、支度して」


 突然、彼の母親が言った。彼は戸惑いつつも嬉しかった。母親と出かけるのは久しぶりである。


 支度といっても、特にすることはなかった。玄関で靴を履けば完了だ。しいて言えば最近よくつるむようになった少女に今日は行けないことを伝えておきたかったが、さすがにそこまでは待ってもらえそうにない。


 アクセサリーなし、薄化粧、無地のブラウスにロングスカートといういつもより落ち着いた雰囲気の母親に手を引かれ、照りつける日差しの中、バス停へ向かう。母親が差す小ぶりな日傘の影に入ったりはみ出たりしながら、いったいどこへ行くのだろうかと彼は考えた。母親はそれについては何も言わなかった。海ならいいのに、と彼は思う。思うだけで、期待はしない。


 バスの中は空いていて静かだった。母親も緊張ぎみに押し黙ったままなので、彼は窓際の席に膝立ちして景色を眺めた。木の上から見るよりは低いけれど、絶え間なく流れ移り変わっていくので飽きることがない。少女は今ごろ公園で自分を待っているのだろうか。彼の胸はちくりと痛んだ。


 バスは信号の少ない二車線の道をひた走った。そして、トンネルを抜けたとき、急に開けた明るい世界に出た。


 彼の心臓は大きく跳ねた。海だ。夏の海が広がっている。


 彼は窓に張り付くようにして海に見入った。波立つ濃い青。遠くの白く濁った空と水平線が溶けあっている。


「そういえばあんた、海を見るのは初めてだっけ」


 一つ後ろの座席で母親が言う。彼はうなずき、再び食い入るように海を見つめる。母親は少しだけ表情を和らげ、息子の子どもらしい一面を楽しんだ。


 次のバス停で彼らは降りた。潮風が鼻をかすめ、彼の体にまとわりつく。


 海辺の町の入り組んだ道を、母親は迷うことなく、しかし慎重に足を運んだ。つないでいる手はしっとりとして力がこもっており、緊張感がありありと彼に伝わる。


 やがて、石垣に囲まれた古そうな瓦屋根の家の門扉の前で彼女は立ち止まった。長めに一つ息を吐いて、「いくよ」と彼に目配せする。彼はうなずき、母親の指先がゆっくりと玄関のチャイムを鳴らすのを見つめた。そのとき彼は、表札が自分の苗字と同じであることに気づいた。


 ほどなくして玄関の戸が開き、初老の男が顔を出した。


「なんだ、宅配じゃなかったのか。どちら様?」


 インターホンではなく本人が直接出てきたことに軽く動揺しつつも、母親はくっと顔を上げ、男性を見つめた。


「久しぶりです……お父さん」

汐里しおり……汐里か!?」


 男は驚きの表情で彼の母親を見つめ、その手につながれた小さな少年を見てさらに目を丸くする。


「それは、お前の子か?」

「ちゃんと話すから、上がってもいい?」


 彼の手がぎゅっと握られる。彼もしっかりと握り返した。


 男は束の間ためらったのち、ため息を吐いた。


「追い返すわけにもいかないだろう。入れ」


 母親はうなずき、門扉を開けた。



 汐里は仏壇に向かって手を合わせる。彼も母親にならって線香を上げて拝んだが、遺影に移る女性とは面識がなかった。


 和室で座卓を挟み、汐里は久しぶりに父と向かい合う。


「久しぶりだな。10年ぶりくらいか」

「……まだ8年よ」

「母親の葬式にも来なかったくせに、何の用だ? 金でも借りに来たのか」


 汐里は答えない。


「……図星か。威勢よく飛び出して行ったくせに、情けないやつだ。言っておくが、うちも金はないぞ」

「そこをなんとか、お願いします」


 汐里は手をついて頭を下げる。彼はどうしたらよいかわからず、黙って成り行きを見守る。


「ふん、子どもを連れてくれば同情してもらえると思ったか。浅はかなやつだ。旦那はどうした」

「この子が生まれてすぐに別れました。お願いです、少しでもいいのでお金を貸してください。海を、この子を育てないといけないんです!」

「やかましい!」


 男の大声に、彼はびくっと震えた。


「お前は昔から変わらんな。すぐに弱音を吐き、泣きじゃくる。そうすれば誰かが助けてくれると思っているんだろう。根性なしめ。昔あれほど教えてやったのに、ちっとも進歩していないようだな。そこに直れ! 俺が叩き直してやる!」


 男は立ち上がり、テレビ台のわきに飾ってあった年季の入った木刀を取り、勢いよくふりかぶった。


 が、汐里は素早く身をひるがえしそれをかわした。


「人でなし! 進歩してないのはあんたのほうだわ! 気に食わないことがあるとすぐに手を出すんだから!」

「親に向かってなんて口の利き方だ! このあばずれ!」


 汐里は座卓の片側を持ち上げ、父に向かって投げつけた。

 男はよろけてしりもちをついた。


「行くよ、海!」


 母親に言われるまでもなく、彼は駆け出していた。


「くそっ、待たないか!」


 彼らは全速力で男の家から脱け出した。男は鬼の形相で叫んでいたが、外まで追ってくる様子はなかった。それでも、母親は彼を連れて走りつづけた。

 バス停にたどり着き、荒い息で時刻表を確認する。次の便までまだ30分以上もあった。彼は不安げに母親を見上げる。


「……大丈夫。あの男、世間体は気にするから。ここまでは追ってこないはずよ」


 そうは言っても油断はできない。彼らは道のわきの林の中に隠れるようにしながら、木陰で汗を乾かした。途中、彼の母親が自販機でジュースを買ってきて、ふたりで分けて飲んだ。


「ごめんね。怖い思いさせて」


 彼は首を振る。自分よりも母親のほうが心配だった。


「でもいざ面と向かって話してみたら、記憶にあったほど怖い相手じゃなかったわ。あんたがいたからかしら?」


 母親は汗に濡れた彼の髪をやさしくなでた。


「……私をひとりにしないでね」


 彼はもちろんだとうなずいた。

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