ミリアから見た景色01
ミリア・サンブラノは、泣く子も黙るサンブラノ商会の愛娘である。
若くしてなくなった妻の忘れ形見であるミリアを、サンブラノ卿はそれはそれは溺愛した。
彼はミリアの望むものを、何でも買い与えた。
例えば異国の鮮やかなドレス。はたまた美しい色彩の硝子細工。
風変わりな食べものから、滅多に手に入らない高級なお菓子。
球体の関節を持つ人形、光り輝く宝飾品。美を追求した化粧品に、きらびやかな美貌と肢体。
海の向こうの品々を、ミリアは何でも手に入れた。
外聞に伝わるミリアは、そのような人物だった。
しかし、実情は異なる。
サンブラノ卿は後妻を娶った。若く美しい女性だった。
彼女には連れ子がおり、その子は男児だった。
前妻を失った悲しみから、サンブラノ卿は後妻に溺れた。
彼は後妻の望むものは何でも買い与え、後妻の要求はますます苛烈になった。
ミリアから見てまま母となる彼女は、ミリアを毛嫌いした。
そも、後妻にサンブラノ卿への愛などない。ただ金を毟り取り、行く行くは自身の息子を跡取りとして据えることを計画していた。
執事を後妻好みの若い男に変えた。
従者をはべらせ、彼女は欲に溺れた。
自身の美を維持するため、彼女は海の向こうへ手を伸ばした。
ミリアのためだと、ミリアの趣味も好みも無視した品々を、夫に要求した。
寡黙なミリアとは異なり、後妻は口が上手かった。
派手好きな性格はパーティを好み、彼女は自身の欲求を、さもミリアが望んでいると外聞に言いふれた。
サンブラノ卿へ取り入ったときと同じように、彼女は良妻を演じた。
ミリアが歩くと、周囲は声をひそめる。
――ああ、あれがサンブラノ卿のわがまま令嬢。
あんな見目で癇癪持ちだなんて、おかあさまも苦労するわ。
サンブラノ卿もおかわいそう。実の娘に金銭を搾り取られるだなんて。
あれこそが親の脛かじり。商会でなければ養えないわ。
なんて厚顔、恥知らず。
ミリアがどれだけ弁明しようと、後妻から与えられた先入観は大きい。
ミリアが後妻へ反抗すれば、後妻は手駒である執事や従者を並べ、ミリアを攻撃する。
特にサンブラノ卿がいる場では、後妻の演技力は真価を発揮した。
か弱く泣き崩れ、遠回しにミリアに原因があると夫へ縋りつく。
――ああ、わたしはあの子の母にはなれないのかしら。
さめざめと泣く後妻の姿に、サンブラノ卿はミリアへ背を向けた。
父の選択に、ミリアは全てを諦めた。
家の中にも外にも、ミリアの居場所はなかった。
後妻の望むまま、ミリアは孤立していた。
誰が何と言おうと、もうどうでもいい。ミリアは諦めていた。
ミリア・サンブラノは、泣く子も黙るサンブラノ商会のわがまま令嬢だ。
彼女の機嫌を損ねると、家が滅ぶ。そう実しやかに囁かれた。
*
ミリアは困惑していた。
……変な子がいる。率直に彼女はそう感じていた。
ニアと名乗る少年が、この頃毎日のように現れる。
言葉を発さない日の方が多いミリアにとって、休憩時間を襲撃されることは、非常に億劫なことだった。
ミリアの悪名と名声を聞きつけ、彼女へ取り入ろうとしたものは多い。
けれども実際のところ、ミリアにそのような権限などない。彼女は後妻にとっての厄介者だ。
ミリアが黙して睨めば、大抵のものはそそくさと逃げ出す。
――ああ、所詮わたくしにたかる人たちは、お金が目当てなのね。
ミリアの感情は、冷え切っていた。
ニアもその類だろうと、ミリアは強い調子で出た。
これ以上、彼女は傷つきたくなかった。こんな悪意のなさそうな顔で、悪意をぶつけられたくなかった。
けれどもニアは、ミリアのことを知らないと言った。
ミリアの死滅していた感情が、動揺を訴えた瞬間だった。
「ミリアさーん!!」
うれしくてたまらないといった顔で、ニアが両手をぶんぶん振っている。
……犬の散歩でもしている気分だ。
あんまりにも彼女に懐くニアに、ミリアは困惑していた。
スキップでもしているのだろうか? そう疑ってしまうほど軽快な足取りで、ニアがミリアの元へ駆け寄る。
きゅるきゅる輝く彼の笑顔は、大変ご機嫌なものだった。
……どうして彼は、ここまでわたくしに懐いているのだろう?
動かない表情の下、ミリアが困惑する。
「おとなり、失礼します!」ベンチの隣に座ったニアを、彼女が目で追った。
「ミリアさん、いつもなんの本を読んでいるんですか?」
「…………」
きらきら輝く金色の瞳が、星でも散らしているかのように眩しさを与える。
咄嗟に俯いたミリアが、膝の本からブックカバーを外した。
表紙を掲げ、ニアへ見せる。
彼がきょときょと瞬いた。ずいと近づいた顔に、ミリアが内心気を張る。
彼女は他人と接する機会が、極端に少なかった。
「視覚作用に於ける魔術展開による眼球運動と潜在意識の影響……えっ、これこんな題名の本なんですか?」
「論文です」
「へー!?」
さっぱりわかんない! といった顔をしたニアが、「ミリアさん、すごいですね!」賞賛する。
子どものような純真な笑顔に耐えられず、ミリアが俯く。彼女の手が、いそいそとブックカバーを戻した。
「……別に」
「あの! これ、どういう内容なんですか? ミリアさんが知ってること、俺も知りたいです!」
「……題名の通りの内容です」
「わ、わかんないよー!!」
素気なく答えたミリアに、ニアが情けない顔をする。「シオならわかるかなあ……?」彼が小さく呟いた。
ニアが勝手に教えてくれるため、ミリアはシオが誰かを知っている。
ニアの双子の弟だ。ニアよりも落ち着いていて、頼りになる、らしい。
……何故その双子の弟は、わたくしのことをニアに教えなかったのだろう?
ミリアが考える。恐らくその理知的な片割れは、ミリアのことを把握している。ミリアの悪評だって知っているはずだ。
何せ彼女は、サンブラノ商会のわがまま令嬢。みんなが避けて恐れる存在だ。
「あっ、そうだミリアさん! 昨日、帰り道でドーナツ屋さんを見つけたんです。ドーナツおすきですか?」
ニアが昨日の出来事を思い出しながら、にこにことミリアへ話しかける。
彼の頬は上気し、うれしくてたまらないとばかりに口許が緩んでいた。
ニアがミリアに好意を抱いていることは、誰の目から見ても明らかだ。
感情が死滅し、鈍感なミリアでさえも、それを察している。
……何故彼は、ここまでわたくしに気をかけるのだろう?
ミリアの中で、疑問がふくらんだ。
「……別に」
「うっ、そうですか……。あ! じゃあ、どんなのがおすきなんです?」
「特にありません」
「えっ? えぇっ、……そう、ですか……」
困らせてみたかった。
すきなものも、特になかった。
毎日を機械的に生きるミリアに、すききらいの情報など、あっても邪魔なだけだった。
そもそも、すききらいをわかち合う相手が、いなかった。
しょんぼりと俯いたニアが、逡巡するように視線をさ迷わせる。その顔が、ぱっと上げられた。
彼の金色の瞳は、再び生き生きと輝いていた。
「それじゃあ、ミリアさんのすきなもの、俺、見つけます!」
「……は?」
「見つけます! えへへ、絶対当てますからね!」
ぽかんとするミリアを置いて、ますます頬を染めたニアが、はにかむように微笑む。
上がった体温を冷ますように、両手で顔を扇いだ彼が、勢い良く立ち上がった。
ミリアを見下ろしたニアは、両手で頬を押さえている。
「明日、ドーナツ買ってきます! 一緒に食べましょう!」
じゃあまた明日! ミリアに背を向けたニアが駆け出す。去り際に見えた彼の耳は真っ赤で、伸びやかな声は後ろへ向かうほどに震えていた。
よほど勇気を振り絞ったのだろう。ニアの懸命な仕草に、残されたミリアが呆然とする。
ともすれば、ニアの言動は押しつけがましく、無神経だ。……図々しい人だ。ミリアが思う。
――何故彼は、ここまでわたくしを気にかけるのだろう?
彼は一体、わたくしのどこを好いているのだろう?
彼もわたくしの風評を耳にすれば、わたくしから離れるのだろうか?
明日、本当に彼はドーナツを持って現れるのだろうか?
そっと彼女が両手で顔を覆う。細い肩は震えていた。
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