第30話

 去から実言の元へ行くことを許されないことがわかった日から三日経ち、礼は、毎日しょんぼりとした姿を見せていた。それでも礼は、子供と対峙しているときは明るい顔をしている。無邪気な子供の笑顔や愛らしい仕草、礼だけを慕って這い寄ってくるひたむきな姿をこの腕に抱いた時には至福を感じる。その時だけは、実言のことは心の隅に置いて、子供のことだけを考える。玉のように可愛らしい子供たちは、生まれて一年になるが、ますます実言の面影を濃くして、実言に二人を見せてやりたくて仕方がない。

 そのためにも、実言を助けに行かなくてはいけないのに、誰も、礼のこの気持ちをわかってくれない。

 耳丸は倉の中に入って作業をしていると、入り口に影が差した。いつも一緒の老爺が入って来たのかと思ったが、影は入り口から動かない。どうしたのかと、耳丸は振り向いたら、そこに礼がいた。体が反り返るほど驚いたが、平静を装って聞いた。

「どうした?」

 北方の実言の元に行くことに、去は到底理解を示さなかった。普通はそうだ。それでも、礼の熱意にほだされて去が許すなら、耳丸も礼に付き従って実言のいる北方の戦場まで行こうと考えたのだ。しかし、あれほど拒絶をされては、礼も二度と実言の元へ行きたいとは口にできないだろうと思った。

 耳丸からも、礼の打ちのめされた姿は見るに耐えかねない様子だったため、面と向かって会うことがはばかられた。だから、自然と礼を避けていたが、今、入り口を塞がれて逃げることもできない。

「耳丸……お願いがあるの」

 礼はそう言ったが、次の言葉が出てこなかった。

「……お前は、子供のところにいた方がいい。こんなところに居てはいけない」

 耳丸は入り口に近づき、礼の斜向かいに立つと、そう言って倉を出て行こうとすると、礼は耳丸の袖を掴んだ。耳丸は無理に礼の手を振り払うことなく、掴んだのを放すまで待つように、入り口の内側に立ち尽くした。

「……耳丸、どうか、私を、北方の戦場に連れて行ってくれないか。もう、こうして耳丸を口説くしかないのだ」

 礼は、耳丸にぐっと体を寄せて囁くように言った。長身の耳丸の耳元に届くように、耳丸の腹に礼の胸を合わせるように近づいた。耳丸の顔のすぐ下に礼の顔があり、一つの目が真っ直ぐに見あげていた。

「何を言うのだ。そのことは、先日、去様と話したじゃないか。去様はお許しにならなかっただろう」

 礼は下を向いた。

「去様からお許しがいただけないのはわかった。でも、もう時間がない。早く、一日でも早く実言のところに行ってあげたいのだ。そうするには、もう、去様に黙って行くしかない。でも、私一人ではいけない。だから、耳丸に一緒に行ってほしい。もう、耳丸にしか頼めないのだ。どうか、この頼みをきいてほしい」

 礼は、最後には振り絞るようにまた顔を上げて、耳丸を見つめた。逆に耳丸は目を逸らした。

「俺は、やはり、去様の言う通りだと思う。お前はここで実言を待つべきなのだ」

 耳丸はそう言って、礼の体を自分から離すために肩を持って、自分が後ろに下がった。

「お前だってわかっているだろう」

 耳丸は言って、倉から出て行った。礼は追ってこなかった。

 残された礼は、涙が溢れ出るのを我慢しきれず、両手で顔を覆った。

 ここにいるべきとわかっていたら、こんなふうに耳丸に頼ったりしない。不安でも子供たちと一緒に実言の帰りを待っているだろう。しかし、実言は日ごとに弱っている。待っている場合ではないのだ。

 耳丸は倉を出て、薪割りのために薬草を収める棟の前の庭へと向かった。すると、老爺が走って寄ってきた。

「お前さんに客が来ているよ。部屋に通しておいた」

 耳丸はお礼を言って、自分の部屋へと向かった。どんな客かは予想がついている。束蕗原から都に使いに行ったときに、都で会っているから。それが、とうとう束蕗原にまで押しかけて来たかと、暗い気持ちを持て余して、ゆっくりと手を洗い、時間を稼いだ。

 部屋に入ると、中年の男が座ったまま振り向いた。二人とも目を合わせただけで、口は開かなかった。中年の男は申し訳なさそうに頭を下げた。

 耳丸の姉が嫁いだ家の家人である。姉の使いで度々会っているので、気が知れている仲であるが、最近のこの男の訪問は気が重く、避けたいものだった。

「今日は……」

 どのような用件で?との言葉は途中で消えた。訊かなくても、その用件はわかっているからだ。

「絹様からこれを預かってきまして、返事をもらってこいとの仰せでございます」

 申し訳なさそうに、手紙を耳丸の前に押し出した。耳丸は黙って、手紙を受け取り、文面を目で追った。

 姉の絹から、自分の嫁ぎ先の窮状が滔滔と訴えられて、最後に金の工面を依頼する言葉で結ばれている。前まではもっと、恥じ入った文面だったものが、今では臆面もなく金を無心する内容になっている。姉も、もう限界に来ているのだろう。その状況は想像に難くなく、耳丸は心が痛い。

 今までにも、日々の生活を支える細々とした援助をしてきたが、もうそんなもので生活は成り立たないのであろう。借金の肩代わりをしてほしいとはっきりと書いてあった。

 姉の絹は役人の妻になった。中流ではあるが、耳丸の家にとっては良い縁談だった。しかし、絹の夫は酒に溺れ、騙され、借金を背負い、家計は火の車になった。子供が一人おり、夫の父母も含めた家族五人が明日にも首を吊って死ぬしかないと、書いている。そして、どうか、お前の主人に頼んでほしいと言ってきた。借金は家と土地を売り払っても返せるものではなく、もう夫は位を追われて家族五人が路頭に迷い、死ぬしかないと言う。岩城家に頼めばそれはすぐに助けてもらえるだろう。実言がいれば、恥を忍んで頼むところだが、今は実言がいない。もし、助けを求めるとしたら、岩城の主人である園栄の側近を通して援助をお願いすることになるかもしれないが、そんな大それたことはできない。実言とは乳兄弟ではあるが、実言に個人的に雇われているだけの者である。園栄が気安く援助してくれたりはしない。実言の母親とは、実言の乳母をした母親との縁で、まだ頼みやすいかもしれない。しかし、昨年母親が亡くなった時に、過分な見舞いをもらった。(それは全部姉のところに行った。)その上にいつ返せるとも言えない借金を申し込むことはできない。

 耳丸は考えを巡らして、やはり頼れるのは実言しかないと思うのだった。実言が出征している今は、礼に言うことになるだろう。礼に頭を下げようか。いや……。

 耳丸はどうしても礼には頼みたくなかった。

 耳丸は手紙から目を上げると。

「今日の今日に返事ができるわけもない。すまないが一晩時間をくれないか。今夜はここに泊まっていってくれ」

 陽は西の山に隠れ始めていた。耳丸は部屋を出ていって、夕餉を持って戻って来た。遣いの男の前に食事の載った盆をおくと、男は一気に食べてしまった。飢えを隠していたようで、猛烈な勢いだった。

「もう少しもらってこよう」

 耳丸は言って、台所に行った。余った粥をいれた椀をもって戻り男の前に置くと、男は申し訳なさそうに俯いて椀を押しいだくと、今度はゆっくりと掬って食べた。

「姉のところは、もう食べるものもないのか?」

「はい。草や木の根を食べるしかなく。このような食事は久しぶりでございます」

 夜具を渡してやると、男はすぐにそれに包まって眠った。長い道のりをたいしたものも食わずに歩いてきたのだから、疲れているのも当たり前だった。規則正しい寝息を聞きながら隣に横になった耳丸は、姉の窮状に切なくなって胸が押しつぶされる思いだった。それでも、礼のところに行くことはできなかった。

 夜が明け、少しまどろんだ程度の耳丸は、はっきりしない頭を抱えて起き出した。姉の遣いの男は、寝返りを打ってあっちを向いていたが、まだ寝入っている様子だった。耳丸は部屋を出て、顔を洗いに井戸へと向かった。

 遣いの男は、朝、目がさめると、そこには耳丸の姿がなく、しばらくの間、その場につくねんと座っていた。しばらくして体は正直で腹の虫が鳴いて、空腹を訴えた。一向に耳丸が戻って来る気配がないので、勝手はわからないが部屋を出て辺りを伺いに出ることにした。

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