第11話 

 礼は深々とお辞儀をして、碧とそれに続く女性たちの退出を見送った。碧たち一行が部屋を出て行くと、礼をここまで案内してくれた侍女が帰りも案内してくれる。

 王族や官位の高い貴族たちで占められていた翔丘殿の正殿は徐々に人の数が減っていっている。礼は、翔丘殿正殿を出る渡殿を渡ったところで、侍女にお礼を言って別れた。これから、下々の者たちが車に乗るのに順番待ちの長い列ができる。縫もどこかの部屋で待っているのだろうけど、礼は少し休もうと空いた部屋へ入って座った。

 美しい月夜の中で見た麻奈見の舞姿が忘れられない。あの感動が今もふわふわと心を躍らせていて、礼はすぐに家路へと向かう気持ちになれなかった。あの緩急のついた音楽とそれに合わせた振りと型の美しさ、二人の男子が交互に己の威を見せつけるように堂々と舞上げる、まるで対決をしているような面白さ。礼にとってはどれも初めて見るものであり、その感激の余韻にもう少し浸っていたい。

 そこへ、簀子縁からすっと御簾を潜って部屋の中に入る男の姿が見えた。几帳で部屋の中を仕切っているため、部屋の中に入った姿はすぐに几帳の中に消えてしまったが、その鮮やかな朱の衣装は先ほどまで衆目を一身に受けながら見事に舞って見せた幼馴染に違いなかった。

 麻奈見は几帳の中で誰かと喋っている。懐かしい声音。礼は、その話が聞きたいわけではないが、麻奈見がすぐそばにいるので意識を集中させた。

 どうも、麻奈見の知り合いの男女のようで、先ほどの麻奈見の舞を褒めていて、麻奈見の謙遜する言葉が聞こえて来る。最後に。

「ありがとうございます」

 という言葉が発せられると、几帳の陰から朱の姿が簀子縁に出て行った。

 礼は、たまらず自分の前の御簾の端をめくってまだ人が所々に留まっている簀子縁へと飛び出した。早歩きの麻奈見の姿はもう廊下の向こうへと遠ざかろうとしているのを負けじと早歩きで追った。

 翔丘殿を去ろうと、車の準備の順番待ちをしている人とは逆の、寝殿の奥へと麻奈見は入って行く。男の後を追っていると、誰かに知れてしまったらどうしようと考えたが、久しぶりに麻奈見と話しがしたくて、礼はその後を追った。

 麻奈見は翔丘殿西の建物の長い廊下を進む。西の建物は二階建てで、建物の下には水を浸して、まるで池の中に浮かんでいるような作りである。水面から照り返る月明かりの中、礼は麻奈見の背中を見失うまいと必死で追っていた。寝殿の奥は、この宴の控えの間になっているようで、楽人姿の男たち何人かとすれ違う。奥へと続く廊下の途中に、庭に突き出すように踊り場が作られており、邸の下を浸す池の中を眺められるようにできている。麻奈見はその踊り場へと入って行き、空から降り注ぐ月明かりを浴びるように見上げた。

 礼は、この機会を逃してなるものかと、麻奈見の側へと近寄った。

「あさ……」

「やあ、礼」

 麻奈見は少し上気した顔をして、自分の後ろに立った礼を振り返った。

「久しぶりだね」

 月の宴で、見事な演奏と舞を見せた麻奈見は月の宴に相応しく、月明かりを背に踊り場の手摺りに身を預けて立ち、礼に微笑んだ。

「麻奈見」

 礼は、久しぶりに会う麻奈見の名を呼んだ。

「礼。懐かしいな。どれくらいぶりかな?」

 麻奈見には、礼と最後に会ってからどれくらい時が経ったのかわかっている。九鬼谷の戦が終わったことを伝えに、束蕗原にいる礼に会いに行って以来である。一年数か月ぶりの再会だった。九鬼谷の戦が終わって、実言が帰還し、予定通り礼は実言と結婚した。麻奈見はその状況を宮廷内の噂話の中から聞いて知った。束蕗原では、去の弟子の一人として野良着を着て、土にまみれて仕事をしていた礼だったが、今、目の前にいる女性はどうだろう。

 それは、人の妻になったこともそうだが、当代一の臣下一族の一員として、あの頃より格段に洗練された女人になっている。

 礼は、中庭に突き出した廊下に立つ麻奈見に一歩近づいた。そして、もう一歩。

「私、このような行事に出席するのは初めてで、宮廷の音楽や、麻奈見の舞を見るのも初めてで、とても気持ちが高ぶってしまって。……何より、あなたの舞に感動したのよ。それを言いたくて」

 礼の素直な言葉に、麻奈見は微笑む。でも、人の妻になっても、娘のような言葉で話す礼。礼にとっては幼馴染としての麻奈見からなにも変わっていないのだろう。

「ありがとう。王族の席に君の姿を見て、驚いたよ」

「碧様が席を用意してくださったのよ。少し前から碧様の話し相手といて後宮に通っているの」

「そうか。君は岩城家の一員で、王妃とも親しい関係だ。気安く話をするべきではないね」

「まあ、そんなことないわ。私は昔と変わらないのよ。でも、ごめんなさい。幼馴染だからと軽々しくあなたを追ってきてしまったわ」

 岩城家の一員として、美しく彩られた衣装や装飾品を身につけ、艶やかな黒髪を結い上げて、左目を覆う眼帯さえも、礼の異質さではなく、統一された美しさに見えた。束蕗原ではしていなかった化粧が、麻奈見の知らなかった礼の可憐さを引き立てて、麻奈見は束蕗原とは別人となった礼の容姿に惹かれる。

「そんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいよ」

 麻奈見は月に照らされている礼の姿を眩しそうに見るのだった。

「そろそろ、戻らないと。侍女が待っているわ」

 礼はそう言って、廊下を引き返そうとした。

「待って」

 麻奈見は言った。

「久しぶりじゃないか。今度いつ逢えるともわからないのに。もう少し、お話を」

 はにかんだように少し視線を落とした礼を舐めるように、麻奈見は見た。

 ああ、礼は昔の礼ではないのだ、と感じる。それは、一抹の希望を抱いていた自分がとんだ愚か者だと気づかされる。

 麻奈見は密に礼に恋をしていた。そして、秘密の恋人になれるのではないかという希望を持っていた。

 束蕗原にいた礼は、必ずしも実言のことを思っていなかった。夫婦にならなくてはいけないと分かっているが、実言への親愛など感じていないように見えた。しかし、今、目の前にいる女性は、岩城実言への思いに溢れているように見える。

「だめかな?」

 麻奈見の言葉に、礼は顔を横に振った。

「束蕗原のことを思い出したわ。あなたが束蕗原に来ていろいろと都のことを教えてくれたこと。その頃の私は都でこうして暮らすことなんて思いもしなかったから、今、都であなたと会っているのが不思議」

「私も、君はいつか岩城の妻になるとわかっていたのに、今、本当に実言の妻となった君を見ると不思議な気がするよ」

 礼は幼いころとも、束蕗原に住んでいたころとも変わらず、好奇心に満ちた、素朴で、可愛らしい女性だった。それに加えて、今岩城家の妻となり気品を備えつつある。

 麻奈見は身分違いとわかっているが、愚か者と誹られても淡い恋慕の感情に駆られた。

 自然と礼の高く結った黒髪に右手が伸びてしまう。

「礼、美しい…」

「ああ、ここにいたのか、礼。やあ、麻奈見」

 少しのんびりした声が、二人の間に入ってきた。礼は、声の方に振り返った。麻奈見も一緒に声の方を向き、それが誰か、わかると伸ばしかけた右手を静かに下ろした。

「実言殿」

 麻奈見が言った。

「久しぶりだね、麻奈見。そんなかしこまった呼び方はやめてくれよ。ここには私たちしかいないのだから、昔のように呼んでくれ。……私は宮中であなたの演奏や舞を見ているから、いつも会っているように感じてしまうけど。言葉を交わすのはもう何年ぶりだろうか」

「三年…四年ぶりになりますかな。なかなかこのように対面する機会がなく、今までご無沙汰しておりました」

「礼。私は子供の頃に麻奈見のお父上に笛を習いに行っていたのだ。麻奈見と一緒に笛を吹くこともあったが、私はできの悪い教え子でね。麻奈見の足元にも及ばなかった。全くモノにならないことがわかってしまったよ」

「いえいえ。ご謙遜を。すぐに体得されましたよ。父も目を見張っておりました」

 実言は礼に麻奈見との関係を教えるように昔話をした。

 麻奈見はここに礼と二人でいることを実言に説明しなくてはいけないと思った。

「実言……私と礼は、子供の頃からの遊び仲間でして。私は子供の頃から寒くなると咳が出て、束蕗原の温泉地に療養に行っていました。三年前、去様の邸に薬をもらいに行って、それから度々顔を合わせていたのです。今日は久しぶりの再会を懐かしんで少し話しをしておりました」

「そうなの。すぐ上の兄の遊び仲間に麻奈見もいて、一緒に遊んでもらっていたのよ。それから、あなたが九鬼谷へ行っている間、時々去様の所でお会いして、都のことや九鬼谷の戦のことを教えてもらっていたのです」

 礼も麻奈見と同じことを言った。

「礼が束蕗原にいたころのことを知っているの。その頃の礼のことをまた別に機会を設けて教えてもらえたらありがたいな」

 実言は廊下から踊り場に入る手前に立っている礼の隣に立った。

「お似合いの夫婦だ。私は二人を子供の頃から知っているのに、結婚の際に何もお祝いをいたしませんでしたので、ここで一曲披露して、お祝いさせていただきたいと思います」

 そう言って、胸から笛を取り出した。

「音原家の次期当主であり、当代の笛の名手である麻奈見が私たちのために奏でてくれるなんて、うれしいことだ」

 では、と言って麻奈見は笛を口に構えた。演奏された曲は慶事があった時に演奏される祝いの曲だった。すると、翔丘殿のどこからか、琵琶の音がこの曲の調べに重ねてきた。中庭には笛と琵琶の音色が響きあい、その調べを聴いた者たちが、各々庇の間や廊下にでて耳を澄ましている。

 実言は右に立つ礼の腰にそっと手を回し、抱き寄せた。礼はゆっくりと実言の胸に引き寄せられて、その胸に手を置いた。

 曲が終わっても余韻をもたせて麻奈見は笛から口を離した。

「お二人の末長い幸せと岩城家の繁栄を願って」

「ありがとう。我々二人の古くからの友人にこのように祝ってもらえるとは、うれしい限りだよ」

 麻奈見から横に寄り添う礼に視線を移しながら実言は言う。

 麻奈見は低く頭を下げて、実言の言葉に恐縮する。

 すると実言と礼の後ろから声が掛かった。

「これは!麻奈見の笛だろうと思って、誘われてきたら、実言たちのための演奏だったのか。お相伴にあずからせてもらったよ」

 明るい声でそう言って現れたのは、椎葉荒益だった。

「やあ、荒益」

 実言は隔てのない声で、荒益に声をかける。礼は、ゆっくりとその声の方へ顔を向けると。荒益の後ろには一人の女性が付き従っている。

 踊り場の入り口に実言と礼が立ち、礼の右側から廊下を進んでくる荒益と、そしてその背中から現れたのは、妻の朔だった。

 礼は荒益の後ろの女性が朔である事に気づくと、実言の胸に置いた手を下ろし、こころなしが実言から少し離れるようにして立った。

「羨ましいな。稀代の笛の名手に、祝いの曲を贈ってもらえるとは」

「これは、大変失礼しました」

 麻奈見は深々と頭を下げた。

「今度私のところにも慶事があれば、是非お願いしたいところだ」

「はい、その時は必ず」

 その時、笛の音は麻奈見がここにいる事を知らせたようで、荒益たちが来た方とは反対側から音原家の者が麻奈見を探しにきたのだった。声を掛けにくそうにしているのを実言が気付いた。

「麻奈見には次の用事があるのだろう。すまないね。私たちのために時間を取らせてしまった」

 麻奈見にこの場を去ってもいいと促した。

「皆様、また、お会いするのを楽しみにしています。それでは失礼致します」

 麻奈見は岩城家と椎葉家の間を通るようにして踊り場から出て、その場を辞した。礼の傍を通る時に麻奈見は礼にだけわかるように片目を閉じて去っていった。

 そして、その場には、実言と礼、荒益と朔の四人が残った。

「やあ、礼。君と会うのは久しぶりだ。朔も久しぶりだろう」

 荒益はそう言って、横に立った朔の方に向いた。

 礼は、心が粟立った。そっと朔を見て、すぐに俯いた。

 朔を見るのは、どれくらいぶりだろうか。左目を摘出して、岩城家から真皿尾家に戻って、横になっていた時に訪ねてきてくれた時以来、五年ぶりだ。

 朔は椎葉家の次期当主の妻としての貫禄を身につけ、もともと美しい娘であったが、さらに美しく華やかになったように感じた。

「礼、久しぶりね。目の傷も体に障っていないようだし。本当に元気そうでよかった」

 五年ぶりの礼と朔の会話の始まりは、実言をめぐる二人の葛藤がなかったことのように、なんのわだかまりもないような声の朔からだった。

「……朔も……元気そうで嬉しいわ。子どもは二人、生まれたと聞きました。……喜ばしいことね。お祝い申し上げます」

「ありがとう。二人とも男の子で、元気盛りだよ」

 礼の言葉に、荒益が答えた。

「二人のところは?結婚してから一年が経つのかしら」

 これは、朔が言った。

「ええ」

 礼は小さな声で答えた。

「私たちは戦で離れ離れになっていたから、もう少し二人だけで仲良く過ごしたいと思っていてね。しかし、そのうちのことでしょう」

 礼の代わりに実言が答えた。

「そうか。仲がよいということは変えがたいことだ。じきに望まれるようになることだろう」

 荒益が言って。

「そろそろ行こうか。車の渋滞も緩んだころだろう」

 宴に出席していた者たちが、一斉に帰るとなると牛車の用意とその順番に時間がかかる。荒益と朔はその待ち時間を待機する部屋でじっと待つのが嫌で、中庭の方へやってきたのかも知れなかった。

「では、実言、礼、失礼するよ」

 朔は何も言わず夫である荒益の後ろに従い、少し進んだところで荒益の横に並ぶとその腕に手をかけて寄り添い廊下の向こうに消えて行った。

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