第4話 

 礼が一人で碧妃の元に通う初めての日。普段は畑仕事で汚れてもいい格好をしているが、今日は後宮にあがるのだからと衣装には気を使った。眼帯は目立たないように髪の色に近い墨色のものをつけて、薄色の袍に紺の裳をつけた。それらが控えめな色だから、背子は若草色のものに銀糸の刺繍を入れて少し華やかなものを選び、紅と山吹の二色で染めた添え帯を締めていくことにした。髪は綺麗に一つにまとめて高く結い、赤い紐を巻いて櫛を挿した。顔は薄く化粧をして、紅を塗る。

 縫と澪という優秀な侍女たちの手によって岩城家の妻にふさわしい身なりになった。

 丁度実言も邸に居て、離れの一番近くの門に牛車をつけるように指示をした。

「ああ、礼。美しいな。しかし、碧様には負けるといっておかなくてはいけないかな。私にとって一番の女はお前しかいないのだが」

 実言は礼の耳元で囁いて、ニヤリを笑う。礼は、袖で口元を隠して赤面した。

 碧の良き相談相手になってやってくれといって、実言は礼を送り出した。

 礼は侍女の縫を従えて、後宮へと向かった。

 先日と同じように、碧の住まう館まで渡り廊下を何度も渡り、取次の者に許可証を見せて、やっと部屋にたどり着いた。

碧は端正に座っていた。礼が正面に座り挨拶をすると、碧はにっこりと笑って、広げていた扇を閉じた。それを合図に周りの女たちはしずしずと下がっていき、腹心の侍女一人だけになった。去っていく衣擦れの音も聞こえなくなって、碧は礼に声をかけた。

「礼、もっとこちらに」

 そう言って、手招きする。礼は恐れながら、少し膝を進めた。

「もっとよ。そこでは遠い」

 言われるとおりに近づき、碧の手の届くほどの距離までになった。

「やっと二人きりで会えましたね」

 碧は親しみを込めて礼に微笑んだ。

「はい」

 返事をしたものの、やっと、とはどういうことだろうか。礼は、分かりかねて曖昧な表情になる。

「確かに、私は体調がおもわしなく、気持ちも沈みがちでした。そんな時に岩城の家の様子が漏れ聞こえてきて、礼が薬の知識で、侍女や舎人たちを治療していると聞きました。お姉さま方も礼の薬湯を飲んでいるとも聞きました。私は、父上に手紙を出して、礼を私に遣わして欲しいとお願いしたのです。程なくして、礼が承知してくれたという返事を受け取って、とても嬉しかった。でも、私の隠れた気持ちは薬湯よりも何よりも礼に会いたかったのです。十三のときからずっと。だから、やっと会えたのよ。私にとっては」

 碧は言った。

「私は十四で後宮に入るまで岩城の本家ですごしていたのです。あれは十三の時です。私は翌年の輿入れの準備をしていました。新嘗祭に合わせて、その年は異国からの使節団が来るというので、ひときわ盛大な祭でしたわ。様々に装飾した異国の行列をみるために、王宮の門前の大路の両側には櫓を建てましたね。王宮には入れない貴族の子弟や女たちがこぞってその美しい催しを見物しに出て行っていたはず。私も行きたいと言ったのですが、周りの者からきつく叱られて、部屋の中に閉じ込められてしまいました。そのような行列は大王の妃となれば、門前の櫓に登らなくても、王宮の正殿でいくらでも観られるのだからと言われて。あの日、私は屋敷の奥深くに押し込められていたところ、怪我を負った礼を連れて実言兄様が屋敷に戻ってきた。邸中が騒がしくなって私も奥にいながら、異様な雰囲気を感じました。詳しいことは誰も教えてくれなくて、下っ端の幼い侍女を使って聞き出し、はっきりとしない話をつぎ足しつぎ足しわかったのです。それは岩城の兄様方を狙って矢が射かけられたこと。そして、礼がそれを阻止しようとその身に矢を受けたというのです。私は監視をつけられて、その後礼がどうなったのかをなかなか知ることはできなかったけど、ある日わかったの。実言兄様はそれまでの朔との婚約を解消して、礼と婚約すると言い出して岩城家は混乱していたわ。それから、私が後宮に入った後、兄様と礼の婚約のお披露目が行われたのです。私は礼と会う機会もなく、ここでの生活が始まったのです。私は兄様のために礼が矢の前に立ったその激しい行動に驚きました。そして、ずっと、礼に会いたかったのです。だから、今日やっと、会えたのです」

 碧は嬉しそうに笑った。

「十三の私はまだ男女の事柄もわからずに、礼の行動にそれはそれは驚きました。兄様も婚約を解消するなんて、とても難しいことなのに、それをやってのけてしまうその深い思いに衝撃を受けました。兄様はどの女性にも冷淡に見える人だったけど、礼には強い思いを持ったのね。そして私は大王に仕える身となって、礼のような強い思いを持っていなくてはいけないと考えさせられたのです。あの出来事に私はとても影響を受けました。大王のために身を投げ出す覚悟がいることをね」

 碧はしみじみと語った。

 礼は、碧のいきいきと語る自分と実言の話を穴があったら入りたい気持ちで聴いていた。

 よくもこれほどに美化された話になったものだ。都を風靡した噂話がまるで真実のように語られたらこうなったのだろうか。礼は実言だけを心底守ろうとしたわけではないし、実言も礼の献身だけを持って、朔との婚約を解消したわけではない。しかし、今となっては離れられぬ二人となってしまったから、わざわざそれを否定することもないのだが。

「本当に左目に矢を受けたのですね。その下はどうなっているの」

 碧は礼の左顔を見ながら眼帯の下のことを尋ねた。好奇心の色濃く出た視線が礼を刺す。

「左目はないのです。穴となりそれを塞ぐ傷になっているのです」

「そう。左目を失い、女としては顔に傷など、耐え難いことだったでしょうね。実言兄様は責任をとって然るべきですわ。……でも、その陰で朔様の気持ちを思うと心が痛みました。誰が悪いと責めることはできないことですが、朔様は子供の頃から兄様を好いていらしたから。婚約の儀式ではとてもうれしそうだったもの」

 最後はつぶやいた独り言のように、碧は当時のことを思い出し言った。

 礼は左を向いて、左目を見せないようにして視線を伏せた。碧妃も実言と朔の婚約の儀の席にいたのだ。

 実言が去ると分かった時、朔は泣き明け暮れたのだろう。礼は礼で左目を失った痛みと悲しみで伏せたまま苦しんでいたから、朔の思いまで考えられなかった。今思い返すと、誰に何の犠牲の上に、礼と実言は一緒になったのだろうか。今は亡き礼の兄である瀬矢が実言を見込んで礼と結婚させようとしていたことは実言から聞いてわかったが、一度その手に収めた実言の妻という地位を朔は失ってしまったのだ。子供の頃から祈り願って手に入れた実言の妻になる話を断られたことに、朔の落胆は言葉には表せないほどだっただろう。

 そして、碧様は私と朔のことを知らないのだ、と礼は思った。礼と朔それぞれを知っているが、礼と朔が従姉妹であり、姉妹のように仲が良かったことは知らないのだ。だから、礼の前で朔のことをこのように話すことができるのだ。

礼は話が一段落したところで碧に、体調のことを聞いた。よく眠れないというので、睡眠に効く薬を次に訪れるときには持ってくることを約束してその日はそれで辞した。

 六日後に礼は前回と同じように、関所のような渡り廊下を渡って碧妃の元を訪れた。睡眠によい薬湯の材料とその内容を書き付けた紙を侍女に渡して、後宮の薬師に見せるように言った。碧妃は前回と同じように腹心の侍女だけを残して、おしゃべりを楽しむ。

「礼は、実言兄様とどのような生活をしているの?……あら、不躾な質問だったかしら?他意はないのよ。こことは違うだろうと思うから、知りたかったのです。それに、礼は薬の知識があり、岩城の家の侍女や使用人たちに薬湯を上げてお医者様のよう。上の兄様たち夫婦とは違う生活をしているように見えて聞いてみたかったのよ。ここは子供の頃の私には考えてもみなかった高貴で贅沢な場所であり、私の身に過ぎるところ。もし私は岩城の娘のまま大王ではないどこかの家の男性に縁づいていたら、どのような生活をしていたのかと想像するの。もう少し自由で、もう少し活発に、もう少しわがままに生活して、違った楽しみを得ていたかもしれないと思ったりするのよ。私は、礼を通して感じてみたいの、私が生きたかもしれない別の生活を。それが礼にここに来てもらっている本当の私の気持ちですわ」

 楽しそうに碧妃は口元を袖で隠して笑った。

 確かに、礼の人生は思ってもみなかったものになっている。実言を思わず庇って左目を失ったことで、実言の妻になった。そして貴族の妻としてはその生活は随分と変わった生活をしている。礼は畑を耕し邸の者や近所の農民たちの体の世話をするのは岩城ほどの家柄の妻がすることではない。型破りかもしれないが、一方で自由でもある。

「私は、束蕗原の叔母のところで過ごすことができたため、多少薬草の知識を得ることができて、人を治すことを学べたために、このような役割を与えていただけたのだと思います。それは、すべて実言様のおかげです。確かに薬草の勉強をしたいと思ったのは私ですが、でも、そう導いてくれたのは、実言様なのです」

「束蕗原は、実言兄様が九鬼谷の戦に行く時に、礼をお隠しになったと聞いています。実言兄様らしいと思いましたのよ」

碧は楽しそうに目を細めて話し始めた。

「実言兄様は、大切なものをよく人目につかないところに隠す癖がおありだったから、礼を束蕗原に連れていったと聞いた時は、礼がとても大切なのだと思いました。妻にしたら隠しておくこともできないと思って、正式に結婚をしなかったのですわね」

 碧妃は婚前の少女のように袖で顔を半分かくして、含み笑いをする。

 あの頃の自分は、実言という後ろ盾がなければ、どのように生きていくのか不安でもあったが、実言のことを忘れたくて、去との勉強に没頭していた。礼は考える。去の元で一生を生きていいと思っていたことを。

「あの頃の私は、実言様のことをよく思っていませんでした。だから、好き勝手に過ごしていました」

「あら、実言兄様もすべてご自分の意のままにはできませんのね。礼に好き勝手にされていたなんて」

碧は口元を扇で隠して笑った。

後宮を退出して、岩城の屋敷に帰ると、実言がすでに帰ってきていた。

「今日で二回目だったね。碧の様子はどうだった」

「お元気そうでしたわ。まだよく眠れないとおっしゃっていたけれど」

「碧も、いろいろと気にやむことがあるのだ。礼が話を聞いてやるだけでも、きっと心が安らぐはずだ」

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