第42話 何一つ明かさずに終わることもできたはずなのに、僕は卑怯だよね
「大変お綺麗ですよ、お嬢様」
夕食も湯浴みも終えた私は、姿見の前で純白のドレスを纏っていた。随分遅くなってしまったが、簡易的にドレスを纏って花嫁衣裳の最終確認をしているところだ。
「もう、リズったら。その台詞を言うなら明日の朝でしょう」
もっとも、私に甘いリズは明日もきっと、花嫁衣装を纏った私のことを褒め千切るのだろうけれど。
「それもそうかもしれませんね。でも、あまりにお綺麗だったので、つい」
くすくすと愉しそうに笑うリズを見ていると、何だかこちらも安心してしまう。まるで姉のような存在のリズに素直に褒められて、なんだかんだ言いつつも嬉しいのは確かだった。
リズの他にもドレスの着付けを手伝ってくれたメイドたちがいたが、リズと二人で会話をしたかったので下がらせた。僅かに開け放したバルコニーの扉の先からは、静かな波の音が聴こえてくる。
「青薔薇を映えさせるために、明日の頬紅の色は淡いものを選んだ方が良いかもしれませんね」
リズは、私の頭からつま先までを眺めながら、細かな確認をしていた。私も気が付かないことを彼女は見逃さないでいてくれるから、とても心強い。
「ありがとう、リズ。いつもいつも……」
何となくお礼を述べたつもりだったのに、結婚式前夜という特別な状況のせいか妙に神妙な空気になってしまった。リズは微笑みを崩さなかったが、まるで懐かしいものを見るような目をして淡々と確認を進める。
「……お早いものですね、あんなに小さかったお嬢様が、ご結婚なんて……」
「私、そんなに小さかったかしら」
同年代のご令嬢と比べれば、平均よりも少し高い程度だと思うのだが、そういう話をしている訳ではないと私も分かっていた。ただ、親しいリズとの間に漂う切ない空気に耐えられなくて、つい茶化してしまったのだ。
「私にとっては、いつまでも小さなお嬢様ですよ。いつだってお可愛らしくて、大切なお嬢様です」
リズが私を慈しんでくれていることは今更言うまでもない。だが、いざ言葉にされるとやはり気恥ずかしさがつきまとう。
「もう、やめてよ、リズ。今日でお別れという訳じゃないでしょう?」
以前の時間軸と同じように、リズは私についてフォートリエ侯爵家に来てくれることになっていた。ミストラル公爵家で庭師をしている旦那さんも一緒にフォートリエ侯爵家に移る予定なので、彼女の私的な事情に随分影響を与えてしまったと、リズにも旦那さんにも詫びたのだが、二人とも嫌な顔一つ見せず受け入れてくれた。旦那さんに至っては、「フォートリエ侯爵家の青薔薇を綺麗に咲かせるのが楽しみだ」と笑ってくれたほどだ。
「ええ、もちろん、明日からも誠心誠意お仕えさせていただきます」
私を安心させるようににこりと笑ったリズにつられて、私も頬を緩める。
「ありがとう。旦那さん共々慣れないことが多いでしょうけれど、これからもよろしくね。何か困ったことがあったらいつでも言って頂戴」
「身に余る光栄にございます、お嬢様」
リズは確認を終えたのか、羊皮紙の束を軽く取りまとめると、小さく息をついて私の瞳を見つめる。
「ああ、でも、明日の結婚式が終わればお嬢様のことをお嬢様とお呼びすることも無くなるのですね……。そう思うと、やはり寂しい気持ちになってしまいます」
「二人の時は今まで通り呼んでくれて構わないわよ?」
むしろ、明日から「奥様」と呼ばれる立場になるのかと思うと、妙な緊張感が付きまとって仕方がなかった。ただ敬われるだけではない、フォートリエ侯爵家の女主人としての責任も踏まえてのその呼ばれ方だ。改めて、気が引き締まる思いだった。
「しばらくはそれで問題ないでしょうが……お嬢様にご令嬢がお生まれになったりしたら、ややこしくてなりませんね」
リズは楽しそうに笑っていた。まるで他人事のように話すが、リズだって既婚女性なのだ。いつ子供を授かってもおかしくない。
「私より、リズの方が早いと思うわ。そのときはちゃんと休んで頂戴ね」
「ありがとうございます。ですが、おこがましくも私には野望がありまして……」
リズはどこか悪戯っぽく微笑むと、その野望とやらの内容を打ち明けてくれた。
「叶うならば、私の子どもとお嬢様のお子様が乳兄弟になったらどんなに素敵だろうと思っているのです。使用人の分際で無礼だと分かっておりますが、密かな夢でして……」
リズはどこか気恥ずかしそうに言葉紡いだ。そんなこと、考えてみたことも無かったが、確かに素敵な未来だ。
「子どもは授かりものだから確約は出来ないけれど、素敵だわ。そうなったらどんなにいいかしら」
そのまま私とリズは、まるで友人同士のように笑い合った。
幸せだ。私の幸福を願ってくれる人がいて、輝かしい未来ばかりが見えてくる。エリアスが、この現状を夢のようだと繰り返す気持ちが少しだけ分かった気がした。私は、こんなに幸せでいいのだろうか、時折怖くなってしまうくらいだ。
そのまま半時間ほどリズと話した後、私は彼女に休むように勧められた。
「明日は何かと朝が早いですから、もうお休みになってくださいませ。ドレスを脱ぐのをお手伝いいたします」
「このままでいいわ。もう少し眺めていたいから。眠る前にちゃんと並べておくから心配しないで、ね?」
コルセットをきつく締めたわけでも、リボンを完璧に結んだわけでもないので、これくらいなら私一人でも簡単に着替えることが出来る。とはいえ、普段の着替えは殆どリズに任せているだけに、彼女は少しだけ意外そうな表情をしたが、ドレスを眺めていたいという私の願いを聞き届けてくれたようで、小さく頷いた。
「そうですね、明日になればお嬢様がそのドレスを姿見で見る時間は少ないですから……。でも、夜更かしは厳禁ですよ?」
「ええ、ありがとう、リズ」
そのまま簡単な挨拶をして、私は花嫁衣裳のままリズと別れた。一人になった広い部屋の中で、改めて姿見を眺めている。
私がリズにこんな我儘を通した理由は、本当は別にあった。この姿を、今宵も訪ねて来るであろう天使様にお見せしたかったのだ。明日はきっと、天使様が私の姿を間近で見ることは無いだろうし、私の幸せを何より願ってくださった天使様へのちょっとした恩返しのつもりだった。
それに、と私は波の音が響くバルコニーの方を眺める。
一か月前、天使様は彼が私をここまで気にかけてくださる理由を、結婚の祝いと共に明かすと約束してくださった。その時期を明言されたわけではないが、天使様は結婚祝いの贈り物と共に秘密を明かしてくださると仰っていたから、自然に考えれば結婚前夜の今夜なのではないかと考えている。
天使様があれだけはぐらかしてきた秘密を打ち明けていただくというのに、当の私がネグリジェ姿では何だか申し訳ない。だからこそ、簡易的な花嫁衣裳姿でお会いしようと随分前から心に決めていたのだ。
燭台に灯った明かりを消すと、バルコニーから差し込む星明かりだけが室内を照らしていた。月のない今夜は、銀色が零れ落ちて来そうなほどの美しい星空が広がっていて、思わず天使様と巡った「二人だけの祝祭」を思い出してしまうほどだった。
「星影の大樹」の御許で二人で踊ったあの夜から、もう6年も経つなんて。以前の時間軸のこの年代よりも、ずっと時の流れが早いように思った。一度経験したことが多かったせいもあるかもしれない。
そっとバルコニーに出て、柵に手を置き海を眺めれば、初夏の夜風が薄い純白のベールをなびかせた。潮の香りが混じる風にそっと目を閉じ、静かな波の音に耳を傾ける。
海に面したミストラル公爵領の生まれだが、以前も今も人生のほとんどを王都で過ごしているので、海の音はとても新鮮に感じた。馴染みはないはずなのにどこか落ち着くようなこの音を、いつまでも聴いていたいような気がしてしまう。
どれくらいの間、そうしていただろう。不意に、すぐ傍に人の気配を感じた気がしてゆっくりと目を開けば、そこには純白の翼を携えた天使様の姿があった。
やはり、会いに来てくださった。花嫁衣装を着ていた甲斐があったと、言い知れぬ満足感を覚える。
「天使様、こんばんは」
緩やかな風に攫われそうになるベールと灰色の髪を押さえながら、私は微笑んだ。一方の天使様は、どこか茫然とした様子で私に顔を向けている。それくらい、私の姿が予想外だったのだろうか。
たっぷり数十秒間の沈黙が、二人を包み込む。波の音だけは絶えず風に乗って響いていた。
静かな夜だ。満天の星空を背負って立つ天使様は、どうにも神々しくて、いつまでも見ていられる気がした。出来ればいつものように穏やかに微笑んでいただきたいけれど、彼は未だに衝撃を受けたような素振りで私と距離を取ったままだ。
「ふふ、何か言ってくださらないと、緊張してしまいます」
私から沈黙を破れば、天使様ははっとしたように身じろぎする。やがて彼は私の前に歩み寄ると、私の頬に手を伸ばそうとして、やがて躊躇うように腕を降ろした。
「……綺麗だ、コレット。本当に……綺麗だ」
感極まったような、というよりは、茫然としていた時間が後を引いたような、淡々とした言い方だった。天使様にしては珍しいかもしれない。
もっとも、それだけ私の姿が天使様のお心を動かしたのかと思うと、嬉しく感じるのも事実だった。私はくすくすと笑いながら、ベールを自らの手で捲り、後ろへと流す。
「天使様にお見せしようと思って、着たまま待っていたのです。明日、天使様は間近で見ることは無いでしょう?」
天使様は、何も言わなかった。それでも確かにその顔は私だけに向けられていて、何だか気恥ずかしくなってしまう。
「僕の、ために……?」
「ええ、天使様には是非、この姿をお見せしたいと思っておりましたから」
穏やかに微笑んでそう告げれば、天使様もつられるようにして僅かに頬を緩めた。でも、その表情は今まで以上に寂し気で、違和感を覚えるには充分だった。
「……君の花嫁姿は前も見ているはずなのにね。どうしてだろう、今の方がずっと美しく、手放しがたく思ってしまう」
天使様はゆらり、と一歩歩み寄ると、どこか震える指先で私の手に触れた。今は、ロンググローブを着けていないので素手と素手が触れ合って、天使様の体温が直に伝わってくる。
幻想的な存在でも、天使様は確かにここにいる。それを改めて認識して、どこか安心している私がいた。
「ふふ、褒めすぎですわ、天使様。あまり甘い言葉ばかり仰ると、舞い上がってしまいます」
触れた指先を確かめるようにぎゅっと握りしめれば、天使様は一層寂し気な表情をなさった。何となく、二人の間に流れる空気が張り詰めるのを感じる。
「……コレット、ごめん。僕は……君に、ずっと隠していたことがあるんだ」
天使様はどこか震える手で私の手を握り返すと、向かい合ったままどこか自嘲気味な笑みを見せた。
「いや、むしろ僕は隠しごとだらけだ。君は、許してくれるかな……」
「……天使様?」
今にも泣き出しそうな声で許しを請う天使様を前に、何だか胸が痛む。天使様を安心させてあげたくて、私は彼の両手をしっかりと握りしめた。
「あなたが隠しごとをしているのなんて、今更ではありませんか。そんなことで、私は天使様を恨んだり憎んだりしませんわ」
軽く微笑みかけるように天使様の顔を覗き込めば、彼は唇を引き結んだまま私に顔を向けた。もしも瞳が見えていたら、きっと泣き出しそうなほどに揺れていたのだろう。
数秒の沈黙と、波の音。天使様の背後で瞬く銀色の星だけが、私たちを見守っていた。
緩やかな潮風が吹き抜け、私のベールと天使様の外套を僅かに揺らした。手を取り合って向かい合う私たちは、傍から見れば一枚の宗教画のようにも見えるかもしれない。
「それも、そうだよね……。うん、これだけは、ちゃんと言っておかないと……」
天使様は軽く息をついたかと思うと、躊躇うように顔を俯かせた。だがそれもほんの数秒間のことで、やがて、ゆっくりと口を開いた天使様は、あまりにも衝撃的な言葉を告げる。
「……実はね、コレット……僕は、明日には消えてしまうんだ」
夜の海が、ざあ、と大きな波音を立てた。穏やかな潮風が2人の間を吹き抜けていく。
「……消え、る?」
天使様の言葉を繰り返してみたはいいものの、その言葉の意味するところは何一つ分かっていない。それなのに、心臓だけがどくどくと鼓動を早めていく。
消える、きえる、消えてしまう? 天使様が?
初夏の夜風は私の動揺を冷ますには生ぬるくて、ちっとも頭が冴えてくれない。天使様は、そんな私に構うことなく淡々と告げた。
「君の幸せを見届けたら消える……そういう約束なんだ。天使としての始まりの日に、星鏡の大樹にそう誓った」
ばくばくと耳の奥で響く心臓の音が、穏やかな波の音を掻き消していた。天使様の手を握る私の手が震えている。背筋を嫌な汗が伝っていくのが分かった。
「……いつもの、冗談でしょう? そうですよね、天使様……」
何でもないように笑おうと思うのに、縋るような私の声は絶望に染まっていて、誰より私自身が天使様の話を冗談だなんて思っていないことは明らかだった。天使様は緩く口元を歪める。
「冗談だったら、どんなに良かっただろうね」
落ち着いた天使様の声が、今だけはやけに残酷に聞こえた。次第に潤み始める視界の中で、私は目の前の天使様に縋りつく。
「嫌です……そんな、そんなの……」
遂にぽろぽろと涙が溢れだしてしまう。天使様が消えるだなんて考えたことも無かった。人ならざる彼は、悠久の時を生きるのだから、人間の私はこの優しい人を失うことに怯えなくていいのだと勝手に思い込んでいた。絶対的な安心感があったからこそ、余計に深い絶望を味わってしまう。
天使様は、そっと私の背中に手を伸ばし、私をあやすように軽く手を動かした。その手から伝わる温もりで、背中が爛れていくような気がする。消えると宣言された優しさは、却って私を苛む毒のようだった。
「っ……どうして、どうして星鏡の大樹は、そんな酷いことを……?」
「……星鏡の大樹は酷くないよ。むしろ……僕をこの姿にしてくれた、優しい存在だ。世界の時間を巻き戻すだけのはずだったのに、僕を、もう一度、君に会わせてくれた。それだけで、充分――」
だった、はずなのにな、と天使様は私を抱き寄せながら自嘲気味に笑う。泣きじゃくる私は、天使様の細かな感情の動きまでは読み取れなくて、ただただこの優しい人を失うことを恐れていた。家族のように親しく、大切に想ってきた相手が明日には消えるなんて言われて、平静でいられるわけがない。
「僕のために泣いてくれるんだね、コレット。……君は、本当に優しいな。優しくて……本当に憐れな子だ」
自嘲気味な笑みは絶えることなく、天使様は笑うように囁いた。
「……約束を、果たさないとね。覚えているかな、君が幸せを掴んだ暁には、きっと僕の瞳の色を教えてあげる、って言ったこと」
もちろん、この10年間忘れたことは無い。あれは、二度目の人生が始まって間もない頃の約束だった。幼い私は天使様に抱き上げてもらいながら、一緒に星空を眺めたんだっけ。
確かに覚えているけれど、隠し続けてきた秘密を明かそうとする天使様の言動が、何よりのお別れの証のような気がしてならなかった。明日には彼を失うという残酷な現実を受け入れられなくて、思わず首を横に振る。
「あれ、覚えてないの? 残念だなあ」
天使様はふっと笑いながら私の髪を梳く。その仕草一つ一つに心を抉られるようだ。
「っ……覚えて、います。でも……でも……っ」
「それなら話は早い。結婚祝い代わりに、その約束を果たすよ、コレット」
天使様は、軽く私から体を離すと、目元の包帯に手を当てた。確かに、私は天使様の瞳の色を知りたいと願っていた。でもそれは、出来ることならば彼の瞳を見て会話をし、穏やかな時間を過ごしたいと考えていたからこそだ。明日には消えてしまう人の瞳の色なんて、知ってしまったらきっと私は立ち直れなくなる。
嫌だ、見たくない。何一つ私に明かさなくていい、隠しごとだらけでいいから明日からも私に会いに来ると言って。
天使様への想いは、エリアスに向けるような恋情ではない。でも、それと同じくらい強い、親愛の情なのだと思い知らされる。まるで家族を一人失うような悲壮感に、胸が苦しくてならなかった。
天使様は、そんな私に構うことなく、ゆっくりと包帯を外し始める。段々と肌が露わになり、素顔を覗かせる天使様を前に、私は、この人生で一番の衝撃を受けてしまった。
「……あはは、幽霊でも見たって顔しているね。まあ、当たらずとも遠からずなんだけど」
天使様の目元を覆っていた包帯が、風に飛ばされて流れていく。今、私の目の前には、素顔を明らかにした天使様が立っていた。
白金の長い睫毛に縁どられた瞼が、ゆっくりと瞬きをする。
露わになったその瞳の色は、
――淡い、紺碧の瞳。
息を飲む、なんてものじゃない。あれだけ溢れ続けていた涙が、あまりの衝撃で止まってしまう。
ああ、私は知っている。私の愛しい人によく似た、この瞳の色を。私の全てを慈しむような、優しいこの眼差しを。
「改めて、挨拶でもしようか? ――久しぶりだね、可愛いかわいいココ」
天使様の手が、そっと私の頬を撫で、視線を合わせるように私の顔を上向かせる。星空を背負って端整な微笑みを浮かべる、この人は――。
「――――セルジュ、お兄様?」
懐かしい名前を呼べば、目の前の美しい天使様はどこか満足そうに笑みを深めた。嬉しいだとか、会いたかっただとか、あらゆる感情を凌駕する衝撃を前に、私はただ、潮風に揺られながら目の前の「天使様」に釘付けになっていたのだった。
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